おっぱい募金そのものは超健全で損する人がいない上に募金までできるという画期的な仕組みだ。
でもどうしてここまで批判されるのだろうか?
それは私たちの文化が、過去から連続的に続いている上で成り立っているものだからである。
古来より女性は差別され続けてきた(今でも一部の地域では過酷な差別をされている人々もいる)。弱者男性も差別され続けてきたという意見に関してはおっぱい募金とは関係がないので、肯定した上で横に置いておく。
その差別の上で避けられない話題が、性的搾取だろう。性的搾取は、古来では強者男性が女性を一方的に物品扱いすることにより発生していた。
だが、女性の権利が向上した現代日本においては、そういった状況は一部を除きあまり見られない。売春もおっぱい募金も本人の意思で行っているものである。しかもおっぱい募金はおっぱいに触れるだけで売春ですらない。握手会と同じようなものである。
では、なぜ性的搾取でないのにここまで批判が起こるのだろうか?
それは、私たちがこれまで歩んできた過去の過ちに近いと感じるからだ。
確かに性的搾取とおっぱい募金では大きく異なる点がある。本人の意思かどうか?という点だ。性的搾取は強制的に奪われているものであり、おっぱい募金は自らの意思で与えているのだ。だが、私たちにそれがわかるだろうか?この女性は自らの意思以外でおっぱい募金をしていないと、誰が言い切れるのだろうか?今はよくても、そのうちに無理やりおっぱい募金をさせられる女性が出てきてしまうのではないのか?
もし仮に、私たちが過去に女性に対しての性的搾取を行っていない文化圏で生まれ育ったのなら、このような不安は生まれてはいないだろう。そして、この大批判は、過去にすでに起こってしまった暗い文化がまた芽生えてしまうのではないのか、という考えから生まれた反応であるため、性的搾取を行っていたという過去を詳しく知らない人からしたら過剰な反応に思えるだろう。
確かにおっぱい募金は法に触れていないし、おっぱいは減らないのに募金は増えるという魔法のようなシステムだ。だが、必要以上にもてはやされてしまうことにより、「私のおっぱいで世界を救いたい!」という純粋なボランティア精神よりも、何か他の利益のためにおっぱい募金に参加する女性が発生してしまうのではないのだろうか。そして、そうなってしまうのではないのかという恐れこそが批判している人々が回避したがっていることなのではないのだろうか。まあ、今現在でもそんな純粋な精神で参加しているのかどうかは神のみぞ知る、といったところだが。