http://mistclast.hatenablog.com/entry/2015/10/03/163446
私はブレンディのCMには全く興味が無いのでむしろこの部分が気になりました。
「責任」っていう言葉を隠れ蓑に、好き勝手に自由を制限する論法に使われるからです。
その代わり「表現の自由には反応が伴う」と言っておきましょう。
……で。
感覚的にはわかる。
ところで、ネットでは毎日誰かが「表現の自由」って言葉を使いますよね。おもにこのコトバ使われるとき、批判されるようなことを言ったバカが批判を封じるために言論封鎖だ、という主張とセットになっていて大変見苦しいことが多いですが、表現規制をめぐるまともな議論の際にも出てきます。
その割にはそもそも「表現の自由に責任が伴う」という言葉は、理念とか標語にすぎないのか、それともある程度根拠のある話なのかってのが良くわからない。憲法の条文にある、以上の話ってどうなってるんだろう。「表現の自由」とはどこまで許容されうるものなんでしょう。
http://french.ilas.nagoya-u.ac.jp/?p=4819
私がここで指摘しておきたいのは、「自由と責任」という表現を用いる時、我々日本人が感じる「自由と責任」という意味と、多くの欧米人が感じているであろう意味との間には、小さくない開きがあるのではないかということなのだ
欧米における「自由に伴う責任」とは、何よりも自由を侵害してくる者と断固として戦うことにこそあるとされたのである。これはヴォルテールの有名な言葉、「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」にも通ずる姿勢だろう。
日本においては、自由は与えられるものであり、与えられている限りは無制限にそれを享受し、取り上げられたらそれに従うようなもの、ということだろうか?
日本では必要以上に憲法に根拠を求める人が多い。もちろんまずそこに依るのは当然として、だから絶対なのだ、と主張するのは極めて幼稚な姿勢であるように思われる。
また、その責任は万人にとって同じものなのか、というものもある。
イギリスでは明確に個人レベルでの表現の自由と、メディアの表現の自由にともなう責任の重さは違うようだ。
http://the-liberty.com/article.php?item_id=5239
inumash氏をはじめ、左翼の方々は一見するとネット右翼ほどわかりやすく相手によってスタンスがぶれているように感じるが、
その分表現の自由というお題目を絶対視せず、案件ごとに見極めを行っているようで好感が持てる。
それに対して、表現の自由という言葉について深く考えずに絶対視するような人たちの意見はあまり聞いてて心地良くない。
なにがただしいのだろうかね。