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2010-08-13

杉野昭博 『障害学―理論形成と射程』 2007 東京大学出版会 3章「マイノリティモデル普遍モデル――アーヴィングゾラの障害学」 2節「ゾラが語る個人史とアイデンティティの探求」より

 ヘットドルプの何人かの住人と,性について本音で語り合った彼は,セックスの時には「健常な体をしている自分」を無意識想像しているという自己欺瞞に気づく.その晩,彼は,自室に戻り,上体ばかりが発達し下肢が未発達の「サルのような自分」の裸身を鏡に写し,その姿を見つめながら自慰をする.その時彼ははじめて本当の性の喜びを感じ,それこそが,本当の自分だと実感するのである.

 私の幼なじみの間ではそれほど特別なことではありませんでしたが,ゾラ家にとっては,ハーバード大学院まで進んだ私は大したものでした.私の父は10人兄弟末っ子でしたが,親戚の中で大学に進学した者は私のほかに2人しかいませんでした.ウェストエンドの調査に私が参加したことは,そんなゾラ家にちょっとした波風をたてることになりました.母は,長年そこから抜け出したいと切望していた下流階級の暮らしに息子が「潜伏」するという研究には困惑していたようです.一方,父は大喜びでした.父は,私が大人になってからは,初めて私と一緒に行動する機会を得た上,父の得意な技能を私に伝えることができたからです.父はたいそう自慢気に,私をビリヤード屋に連れて行き,「ハーバード大学教授」の息子にエイトボールやローテーションの技を教えてやるんだと吹聴していました.加えて父は,私にバーでの俗語やふるまい方を教えて,ギャンブルの手ほどきをしました.これには母はすっかり狼狽してしまい,私の研究については一切聞きたくないと言って,子どもの頃以来私に言いつづけていた「勉強はどうなの?」というセリフを初めて言わなくなりました.(中略)こうして私は,見たり感じたり聞いたりといった五感を用いるだけでなく,伝統的な参与観察では言及されることのない調査者の出自という「私自身」の一部を調査に役立てることができました.ドチェスター地区やマタパン地区の労働者階級ユダヤ人家庭に育ち,数年間工場肉体労働をしたことがあるポリオ少年という私の出自は,たんにウェストエンドの仲間内の会話の種になっただけでなく,私の研究に直接影響を与えました.(中略)そして,ウェストエンドに始まり,ヘットドルプではっきりした事実とは,愛情あふれるユダヤ人の両親によって社会化されたこと,私が受けた教育,および,ポリオとその後の交通事故による障害を「克服」するためのすべての努力は,実のところ「私自身」の一部を切り離し,遠ざけることだったのです.私は大学に行くまで自分労働者階級であると考えたこともありませんでした.大学に行ってはじめて,ブルーカラーの父をもつのは自分だけだと気づいたのです。(Zola, Irving Kenneth "Missing Pieces: A Chronicle of Living With a Disability" 1982)

2007-01-21

それでも私が「親密フラグ」をコントロールしたい二つの理由

一晩寝て見直したけど、『それでも「親密フラグ」をコントロールすべき二つの理由』から、タイトル変更。

「べき」とか言っちゃってすんません。

自分語りナシに恋愛話は成立しないってことなんだろうな。個人的経験なんだから。

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『部屋に入るな→じゃああなたとは友達にならない』に納得できないトラバに。

つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。

それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。

そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。

http://anond.hatelabo.jp/20070118224317 の「親密フラグ」について。

世の中の男性みんな「親密フラグを立てたら必ず性的行為に及ぶ」とは、私も思わない。

それでも、「性的な関係を望まないなら「親密なスペース」を守った方がよい」と考える理由は二つある。

その理由を述べる前に、「親密なスペースを許しあう関係」を「私自身が」どう考えているかを述べておきたい。
 親密なスペースでのやり取りが如何に甘美ですばらしいものかは、ちょっと表現のしようがない。理屈と感情だけでなく、カラダを含めて自分と他者を感じることができるのは、性的行為以外にあまりないだろう(音楽ダンスでかなり似たトランスに入ることもあるけれど)。筒井翁が言うとおり、セックスはまさに「書くものではなくするもの」である。それに到る「親密なスペースでのやり取り」もやはり、描写するよりも個々人の記憶に尋ねていただいたほうがいいと思う。私はその過程を全面的にgood imageでとらえている。なぜこれをわざわざ表明するかといえば、この性的行為及びそれに到る親密なスペースのやり取りをどうとらえているかによって、意見は大きく分かれるであろうと思うからだ。
 性的行為及びそれに到る親密なスペースでのやりとりの「甘美な瞬間」を求め、何もかもを打ち捨てる人の存在を、私は羨望もこめて肯定する。
 ただ、現代社会においてそれをすることと引き換えにどれだけの代償を払わねばならないかということは、それこそ世界中文学映画が教えてくれているし、テレビをつければ日々ワイドショーが事細かに説明してくれる。
 私はそれらを「本能と文化的解釈の衝突」ととらえている。
 私はチキンなので、せっかくの甘美な「親密な関係」を楽しむ上で、自分の人生では出来ればそういう文化的事故にあうのは避けたいな、と思っているというのがベースにある。安全保障的な発想、というのは、私の考え方の特徴なのであろう。

1.相手が「二人きりになったら襲う男かどうか」を見分ける自信がない。

たしかにほとんどはしないで終るだろうが、男に全くその気がなかったとは思わない方がよい。男はちょっとした事でムラっとくる。ただ、それは普通表に出さないし、当然手も出さないだけだ。(中略)

ただ、性欲旺盛な二十歳頃・深夜・頭脳労働による疲れ・達成感によるナチュラルハイは理性を弱める。ちょっと事故が起こればたちまち手を出しかねん。まあ、拒否されて我にかえって落ち込むのがおちだろうが。

「親密フラグ」

せっかく築いてきた人間関係の中で「あなたがそんな人だとは思わなかった」なんて台詞を吐かなきゃならん状況というのは、男にとっても女にとっても不幸だと思う。良好な人間関係を築いてきたにもかかわらず、上記のような事故が起これば、女だけでなく男だって結構へこむと思うのだ。

部屋にあがりさえしなければ、触りさえしなければ、事故的に仕掛けられた「親密フラグ」の駆け引きに乗りさえしなければ、そこにいるその男をそのまま、その男が見せたいとおりのままで、人間関係を続けることができる。「二人きりになったら襲う男かどうか」なんて、男だって事が起こる直前までわかるわけがないと思うのだ。

中には、割合は少ないだろうが「とにかく一打」という男だっている。こういう男はぱっと見ではホントにわからない。結構長い付き合いでも、同級生とか職場の同僚程度だとホントにわからない(それでわかるようでは打てないらしい/そういう奴は打つこと自体が実はmissing piece探しだったりと無意識人生掛けてることが結構多いので、タカをくくってるとホントにあっという間に打たれる)。偶発的にであっても性的関係に移行してしまった時の自分への破壊力(2.を参照)を思うと、「自意識過剰な女」と嘲笑されることぐらい、全くかまわないと思うのだ。

2.「親密なスペース」を侵害されて、取り乱さずにいられる自信がない。

「親密なスペース」を侵害されたら、人は多かれ少なかれアンコントロールになってしまうだろうと思うのだ。

「親密なスペース」を侵害しあえば、どうしたって感情の開放を伴う。さらに偶発的に性的関係を持ってしまったりしたら、(少なくとも一定期間は)人間的に尊敬とか信頼とかいうことに全く関係なく、寝てもさめてもそいつの顔がちらついたり、「好きなんかじゃない、ただ寝ただけよ」とか誰に言うでもない言い訳したくなったり、嫉妬心独占欲に苛まれて夜中に「今すぐ来て!」とかメールしたくなったり、いきなり鍋いっぱいのカレーを煮込みたくなったり、満たされない気持ちと人類補完計画について増田に語りかけたくなったり、タバコの煙が立ち昇っていくのを見つめながら急に田舎の話を始めたくなったりして、まあ自分の「面白いけど恥ずかしいところ」がだだ漏れになることが容易に予測される。性的関係に至らない「親密フラグ」の段階であっても、そういう傾向は顕著になる。私は、女って言うか人間って、そういうもんだという認識がある。

「肉体>精神」の判断基準も、精神個体差や気分の差があって定量的記述還元できないけれど肉体はある程度それができるので、肉体の社会コントロールが達成できれば、精神はたとえどんな状態に陥っても必然的に肉体という外枠からはみ出ることができない、というフールプルーフな安全保障の発想だと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20070120092449

「毅然と親密なスペースを守れ」という意見の本質は、まさにこの文章に代弁してもらっていると言ってもいい。

でも、そういう不安定な自分も含めて、誰かと分かり合いたいんじゃん(出来ればセックスなしで)

もちろん、そういう人を私は止めない。

ただ、そういう不安定な状態の自分が引き起こした様々なことは、もちろん自分で引き受けないといけない。

私自身は、友達とそういうアンコントロールなやり取りすること自体の必要性を感じないし、もし男友達とそれをやり始めたら、(出来ればセックスなしで)を守る自信がぜんぜんない。

私は「友情」((ここでは「性的関係を伴わないが、お互いに尊重しあい、信頼で結ばれている人間関係」とする。昼ごはんを一緒に、ぐらいの人は含まない))の元に「missing piece探し」をやろうとは思わないのだ。恋人と結ぶ親密な関係は、友情に比べたら「missing piece探し」に近いものがあるかもしれないが、それだって何もかもをかぶせすぎたら、大切な人をつぶしてしまうかもしれない。誰も、自分にはなれないのだから。

自分にあるのと同様に、相手にも人生がある。自分はできるだけ自分で探した方が、平静の心に到りやすいのではないか、と、これは個人的な見解であるけれども。

友情に「親密フラグ」はいらない&「missing piece探し」はひとりでやったほうがいい

missing piece探し」と「親密な関係」と「友情」。これらすべては一緒に行う必要はないし、一緒に行わない方が、平静の心に到りやすいものと私は考える。「友情」という豊かな人間関係のための安全保障として、「親密フラグ」のコントロール力を磨く事は有用なのではないか。
友情に「親密フラグ」はいらないし、「missing piece探し」は"出来るだけ"自分ひとりでやったほうがいい。これが、私の結論である。

追記(1/22) [自分トラバ]しばらくして落ち着いて読み返してみたが。

これは女子に対する親の説教だな。

大人になったら恋愛にセックスはつきものなの。恋愛(=セックス)が絡んだら男の子だけじゃなく「自分も」コントロール効かなくなるってことを自覚しなさい。王子様はいないんだから、寂しいのは自分で何とかしなさい。悪いこと言わないから恋愛(=セックス)するのは一人にしておきなさい。友達って言いたいなら「親密フラグ」立てちゃダメ。わかった?

それで「べき」とか言ったのね。ひとり納得。

 
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