そもそも何かを所有する権利を主張することが可能かどうかも後付のもの。
幼稚園児の集団に玩具を投げ込むとそれぞれが勝手に自分の物だと主張し始める。
警察や裁判所が機能していることの保証なんてどこにもない中で皆ひとまずそれを信じようとしている。
自分の考える社会道徳が他人と同じものであるかなんて分からない。
談話室の中央テーブルに置かれた誰かのおすそ分けに貼られる「範囲でご自由にお持ちください」の付箋に「一人◯個まで」とわざわざ書くべきかどうかなんて誰にも分からない。
生存権はそれを理解してる人達の社会が守っているが、逆に言えばそれを理解していない子供同士の社会やDV家庭では守られていない。
分かった上で踏みにじる者たちもいるのは、キリスト教の牧師が神に懺悔しながら子供のアナルをほじくるようなものと言えるだろう。
知らないどこかの誰かがしたらしい検証を皆信じている。
自分で実験をしてみれば分かるというが、実験結果が定説と食い違うとやり方が悪いだけだと否定される。
たとえば「ありがとう」と声をかけた花が歪な咲きかたをしたら、それは声のかけ方や水のやり方に問題があっただけだと決めつけられるのだ。
皆が悪く言ってるものは悪く見えるが、自分の嫌いな相手が悪く言ってるものは逆によく見える。
印象を受けるということ自体がミラーニューロンの生み出すまやかしであり派閥闘争の一手段に過ぎないのだろうか。
貰えると嬉しいが、こんなものに価値があると思っている奴ははてなーしかいない。
だがはてなーは貰うと喜ぶ。
皆苦しいときほどそれを求めて必死にネットで道化を演じるが、本当にやるべきことはさっさと寝て自然回復力に任せることでありつまりは武器軟膏。
人類は、信仰無しには生きられないということ。 それが真実なのです。
うーん、ここまで学のない文章を書けるのも一種の才能だな 科学の部分とか特に
えへへ 褒められた*^_^*
ベーコンが誕生するまでは皆錬金術してたと思ってそう
俺はベーコン誕生の瞬間に立ち会ったけど それまではみんな錬金術してたよ