私は特別な人になりたかった、正確には特別だと他人から評価される人になりたかったんだ。でもそうなれないのなら、どうしたら良い?
昔から要領は良い方だった。とある物事において平均的な人が50点、ある程度頑張った人が60点を取れるとするならば私はほぼ努力せず75点を取れた。これは幼少の頃から社会人の今まで、勉学からスポーツや遊びまでそうだった。ただ、1番になる事はついぞ無かった。本気で取り組み者たちは90点や100点を取る、だが私は努力せず75点を取れる代わりに努力しても85点までしか取れなかったのだ。正確にはそんな気がしていて、自身の限界なんて知りたくもなくて、ずっと努力などしていなかったのであるが。
そこそこな高校、大学を出て、やりがいがあり給料も良い会社に入った。20後半で結婚もした。30になり、都心に家も買った。子供もそろそろだろう。休みに旅行などに行く友人がおり、酒を飲み愚痴を言い合う同僚もおり、妻との仲も喧嘩はする時はあるが全体的に良好だ。貯金も給与も平均は割と超えており、将来の不安は限りなく低い。
「どんな状況でも飄々と、それでいて問題は解決する人」「才能にあふれ、大抵のことは出来るがいまいちやる気のない人」「全てを受け入れ、おもしろいと思える余裕のある人」「変人ではあるが善良でおもしろい人」…そんな人物像が、かつて私が憧れたものであり、そうなるように演じたものであり、実際に今、多かれ少なかれ友人も職場も妻でさえ私の事をそう思っているだろう。まるでそれが私の生来の気質で、あるがままに振る舞っているだけだとだっているだろう。
私は、そう思われたいが故に敢えてそういう行動をしていただけだ。本気でやって出来ないのが悔しくて怖いから中途半端を装っていただけだ。それで何とかなってきてしまった。これからもなんとかなってしまうのだろう。
でも私は何のために生きているんだ。
私がなりたかったのは、特別な存在だった。なれるはずもない、想像もできないんだ。特別になりたいだけで、何で特別になりたいかなんて希望すら無いんだ。特別になりたくて、なれない事に気付くのが怖くて、人並みの幸せに逃げていたツケがこれか。
今更全てを曝け出してちっぽけな人間だと思われるのも嫌だ。このまま順当に平均的な幸せを享受するのも嫌だ。ならば人生は無意味と割り切れるほど悟ってもいない。宗教などに救いを求めるほど純粋では無いし他者を信じても無い。
自分が恵まれていることなんて百も承知だ。私の立場になりたい人なんて割といるだろう。それでも、心が死んでいくんだ。
高藤仙道をおやりなさい。
そこそこいい会社に入った人が怪しい宗教に入っちゃう理由これかあ。