過去には中学入試を受け、有名中学と呼ばれる学校に通っていた。大学もそこそこ”いい大学”と言われるところだった。
その理由について考えてみた。
①過去の成功体験にとらわれすぎて自分の能力を過信し、高望みしすぎたこと。
過去の成功体験や褒められた経験というものは恐ろしいもので、大げさに言えば
「自分は他の人とは違う、望んだ物が全て手に入る」
と思い込んでしまった面がある。
②自分の能力を過信し、高望みしたにもかかわらず、それに見合う努力を怠っていたこと。
人間だれしも努力をしたくないものであるが、私は手を抜くことが上手くなってしまっていた。
さらには、努力をしたように取り繕うことが上手くなってしまっていた。
私はいつの間にか、顔色一つ変えずに嘘をつくことができる人間になっていた。嘘をつくことがとてもうまくなってしまったのである。
私はいつからか、努力をして、努力をしているところを周りに見せて成功するよりも、努力をせずに成功することの方がかっこいいという謎の意識に捕らわれてしまった。
天才と呼ばれる人は陰で普通の人の何倍もの努力をしているという話があるが、もっともであると思う。
④努力をしている、本当の「意識の高い人」から距離を置くようになってしまったこと。
私は、高校卒業後にアルバイト等で出会った、夢を追いかけているいわゆる夢追い人や自分とは異なる環境の人と交友関係を持っていた。
その当時から最近までは、そのことを「自分の世界を広げること」として肯定していた。
一方で、頭のいい人や意識が高く将来についてコツコツと努力している人とは距離を置いてしまっていた。
また、自分と同じ夢を追いかける人であっても、あまりうまくいっていない人と深い関係を築いていた。
その人たちはいずれもとてもすばらしい人たちであり、仲良くなることができてよかったと思える方々である。
今思えば、そのような交友関係を築くことで私は、自分の存在について安心感を得たかったのであろう。
自分と同じレベルにいる人たちは自分を脅かさない。傷つけば慰め合える。
自分より上のレベルにいる人たちと関係すると、自分とその人たちを比較することで劣等感が沸き起こり、あるいは非難されたりする。それがこわい。
しかし、自分を成長させるためには自分より上のレベルにいる人たちと交流し、緊張感を持ちつつ自分を引き上げて行くことが必要なのであろう。
自分の生き方はどこでこのようにねじまがったものとなってしまったのだろうか。
20代も折り返し地点。
思ったことを走り書きしてみた。
20代中盤で調子のってんじゃねえぞ。 こっちは30代でニートなんだからな。 喧嘩売ってんじゃねえぞ。
私は、現在ポークである。 過去には身体検査を受け、有名養豚場と呼ばれる養豚場に通っていた。血統もそこそこ”いい血統”と言われるものだった。 しかし、私は現在ポークである。...
薄っぺらい人間が妄想でこうにちがいないと決めつけて書いてそう