2012-10-22

しっくりこない人生

何か人と付き合うことにしっくりこない感覚、というものをかれこれ15年以上は持っている気がする。どうも振り返ると、小中学生の頃くらいからの軽度の人間不信をずっと払しょくできずに、ここまで生きてきている気がする。その感覚を持つに至った原因については自分なりに把握しているつもりだが、それを匿名であっても、女々しく書き散らすことを、どうも自分のつまらないプライドが許さないようなので、大人しくそれに従うことにする。あるいはもしかしたら、世代的なものかもしれないな、と期待してみたり。ちなみに「軽度の不信」というのがポイントで、この手のコミュニケーション的な問題が重度である場合日常生活もままならないのであろうが、軽度の場合自分なりの適切な処置、たとえば少しうんざりしたら人と距離を置くとか、そういったことでなんとなく誤魔化して、社会に適合するフリができてしまうのだ。そうやってだましだまし過ごし、根本的な治癒を得ずにここまできた結果が、目に優しくないいびつな心の形であり、時折迫りくる妙にうっとうしく深刻な思いつめたような憂鬱の正体なんだろう。

しかしその実、自分は安楽椅子に寄りかかりながら、分厚い本を眺めてひたすら自己満足を発電し続けるようなタイプではなく、明らかに他者との交流必要とする人間だ。だから他者に触れることで傷つくのでは、と怯えつつも、それでも他者との接触を必要とする、矛盾した二つの感情風鈴の風受けのようにふらふらと揺れながら、どこまでも曖昧自分人生を決定してきた。思い返してみれば、自分が妙に「作品」的なものにこだわるのは、そういう創作物が、両者の溝を埋める役割があるのではと期待しているからではないのか。だからモノづくりの会社に入った時は、自分の願望、つまり「距離を取る濃密なコミュニケーション」が、創作物によってかなえられるのではないかと思っていた。しかし問題はその製作過程にあって、そこではチームメンバーとの非常に濃密なコミュニケーション必要とされるのだった。しか会社員としてこれをする以上、「距離を置く」、「逃げる」、「関係を断つ」といった、自分がこれまで問題に達したときにやっていた対処法を実践することができない。心の弱さと直接向かい合うことに慣れていない自分にとっては、それは非常に苦痛だった。問題を解消する努力をしてこなかった代償を、思いっきり払わされた形になった。

そしてもうひとつ思い返してみれば、自分必要以上に語学を欲するのも、間接的にコミュニケ―ションの欲望をかなえようとしているに過ぎないのかもしれない。だとしたらお笑いな話ではある。語学コミュニケーションの濃密さは、本質的には関係がない。英語フランス語もなにも喋れなくても、外国ですぐに人と人との輪に飛びこめてしま人間というのは居て、そしてその逆もしかり。形式は形式で、それは時に効果的な会話の一助になるのかもしれないが、しかコミュニケーションの実態や本質とは離れた別のところにある。

「代償を払わされた」、と書いたが、負債はまだ返し切れていない。桁が大きすぎる。おそらく今後一生、心にこういう不安を抱えながら、少しずつ返済していくしかないのであろう。そういう負の要素が人生の枠組みを形づくるというのは、指針がなにも無いよりは、もしかしたらましなことなのかもしれない。ただ少なくとも、あまり気持ち良いものではないのは確かだと思う。

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