はてなキーワード: 終風先生とは
自分は上半身はそんなに毛深い方ではないのだが、下半身だけがわりと毛深い(アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのように毛が生えている)。
気がつくと毛を触ってるし、部屋を掃除してもすぐ床が毛だらけになるので、陰毛を含めた下半身の毛を全部処理することにした。
まずは除毛クリームを塗りたくり、10分待ってからスポンジでそぎ落とした。
すぐにシャワーと石鹸で下半身を洗い、除毛し切れなかった箇所を髭をそるT字カミソリで剃っていった。除毛クリームは玉袋に塗ると大変危険だと調べていたので、そこはカミソリがメインになった。特に傷はつかなかった。ジレットの3枚刃が良かったのか。
けっこう時間がかかり下半身全体がつるつるになったので、お湯をためていた浴槽につかった。
あ、足の感覚がない!
正確には足の感覚があるにはあるのだが、かなり鈍くなっているように感じた。いつもと全然違うので、「感覚がない」と一瞬思ってしまった。
おそらく、普段は毛が触覚代わりになっているのだろうと思った。もちろん毛に神経は通っていないが、毛が揺れることで毛根付近の皮膚内部の神経が色々と感じていたのだろう。それがなくなると、足というのはかなり感覚器官としてかなり鈍いのだと知った。
風呂から上がり、鏡で体を見ると、陰部には25年ぶりにパイパンの彼がいた。しかし彼は黒ずんでいた。あのときとは違う。違うのに、同じ。懐かしい。懐かしいのに、お前誰。
そして、あらかじめ自作してあった豆乳ローションを冷蔵庫から出し、ひたすら塗りたくった。
この塗りたくりをこれから朝晩、1年ほど続けてみようと思う。毛が細くなってきたら除毛剃毛から抜毛に徐々に切り替えていこう。
ここまで書いて思ったが、今、終風先生の本を読んでいる最中なので、なんとなく口調が影響を受けてしまっている。
おちんちんが本当の自分に戻ったのだから、口調も本当の自分に戻らなくてはならない。
いや、陰毛は確かにいらないものではあるが、しかし同じ自分の一部であることには変わりない、陰毛込みのおちんちんも本当の自分であるはずなんだ。陰毛を疎外してはいけない。しかし髪だって切るし髭だってそる。髪や髭がボーボーに伸びきった状態なら今のように普通に会社勤めは困難になるだろう。周囲が自分を異常な状態だと見なすようになる。
おちょくってるって、もとのエントリのことね。で、強制終了したのは、こりゃ話が通じないと思って折れた形にした。終風先生的には、ホレ見ろと思ってるかもしれんが。言わんこっちゃないと。
こないだ日本に旅行したらしいアメリカの女の子によると、東京の地下鉄ではみんな英語の勉強をしていてぎょっとしたそうな。そんなに語学に苦しみたいのなら、ちょっと書いとくか。って僕も苦手なんだが。しかし、サディストが多いんだねw(でも、文法だけ取れば英語はまだそれほど難しくないかもしれない)
1 安易な学習方法はない
最近、知らない単語でも辞書を引かずに読める方法とかいうのがあったが、発音なんて、んなもの慣れたらすむ話。
知らない単語でも辞書を引かずに意味がわかるようになるには、それまでに散々辞書を引いたり単語を丸暗記したりしてはじめてそういう勘がはたらくようになる。その昔、英文学の先生が、何十年も英語をやっていてまだ辞書を引かねばならんかとぼやいておられた。諦めが肝心。もっとも、英文学だからそういうことになるわけで、我々のようになんとか英語が使えたらいいなあというレベルなら、そこまで諦める必要もない。
それでも、紙の辞書の優位性は変わらない。
その1、用例が豊富。辞書は意味を知るためにあるのではない。用例を読むためにある。
その2、書き込みができる。どんどんよごして、自分の記憶を確かにするには紙の辞書しかない。
その3、ぼろぼろになる。ぼろぼろになるまで使い込んだら、それなりに言葉がものになった証拠。この自信が外国語の進歩にはとっても大事。(もっとも、僕は辞書を枕にしてたらぼろぼろになったけどw)
だいたい、辞書を引く早さなんて、慣れたらそうそう電子辞書に負けないと思うんだがな。それに、言葉を見つけるまでの間にその単語をつぶやいてたり、あるいは別の単語に寄り道するのが大事なんじゃないか。
終風先生は、いつもラテン語ギリシア語の語感がわからなきゃとおっしゃるが、そんなものは哲学をやってないとわからない。カエサルだのプラトンだの原語で読む物好きはそういない。
でも、英語ばっかりやっていてもどっかで行き詰まる。これがつらい。
ならいっそのこと、ほかの外国語をやってみたらどうだ。欧米語なら文法もあるていど共通しているし、それに単語も結構つかえる。さらに、ある程度やったうえで英語に戻ると、あら不思議、知らないうちに理解が深まってるものだ。
それに、全く言語体系の違う日本人が複数の欧米語を知っているというだけで、結構尊敬されるのだ。
4 最後は中身と開き直り
最終的には、外国語で何をいうかであって、ぺらぺらしゃべれることじたいには大して意味がない。英語に堪能で中身のない人間は、アメリカにもイギリスにもやまほどいる。ではなくて、彼らとは異質の人間である日本人として、あるいはアジアの人間として、あるいはだれとも違う個人である自分として、何を考えていてどう発信するかがより重要なのだ。
しょうしょう極端な意見でもかまわない。正しい日本のイメージをもってもらおうとおもっても、そんなものはどこにもない 。それよりも、自分自身の意見をぶつけてみて、面白いと思われることのほうがはるかに重要だと思う。
英語を母国語としない人は、たとえヨーロッパの人でも、かなり無茶苦茶な英語を使う人もいるし、それを自分で笑ってたりする。なにも臆することはない。無茶苦茶でもなんでも、自分の考えや感情が、伝えたい相手に伝わりさえすれば、それで言葉のようは足りる。開き直りが肝心ではないか。