はてなキーワード: 日本の政治とは
国際情勢において、物事が大きく変わるなどということがまずありえない上に、
マスコミはグローバリズムを叫んでいるが、通則法が目立たない位置に
変更されたことが象徴するように実は日本はひきこもり傾向を示しており(国際社会不適応)
実態は全く逆、そして茨の道と言われるように政治的スピリッツがなく
経済成長率も1%以下となった現代日本がどのような論理を踏めば低脳しかいない
政治家や民間役員に主導権を渡すという選択をするのか分からない。
また日本の政治は昔から場当たり的で、そのときの情勢に適合するロジックを
マスコミを通して流布する性質があり、今グローバリズムとか競争とか
喧伝してても、情勢が変われば気づかないように別のロジックにすり替えていく
可能性は十分にある。そして経済はますます低調化していて、後は
墜落を先延ばしするだけの今の日本を考えると、市場化というのは
あくまで実験か冬眠してる間のつなぎのロジックの役割しかなく、
その後はゆり戻しでまた官僚主義が復活するに決まっている
読み:にほんのせいじか
日本において政治を行なう人々を指す。通常、選挙において国会議員や自治体の議員、市町村長、知事などに選出された人々であり、その多くは政党と呼ばれる組織に属する。日本において一つの頂点とされる内閣総理大臣には、与党である自民党の総裁が就任する。
http://anond.hatelabo.jp/20071111030027
どの大学かよりも親の方が重要である。もしくは有力政治家とのコネが必要である。よって、ここは一つ増田総務大臣流に。あ、自民じゃないから総裁無理だw
2chの同人板に、日記で政治の話をしてはいけないと書かれていた
2chの同人板に、日記で原作の批判をしてはいけないと書かれていた
2chの同人板に、日記で他サイトの批判をしてはいけないと書かれていた
2chの同人板に、日記でとにかくネガティブな話をしてはいけないと書かれていた
2chの同人版に、日記でYouTubeやニコニコ動画の話をしてはいけないと書かれていた
2chの同人板に、日記で同情を誘うような話をしてはいけないと書かれていた
2chの同人板に、日記で過剰に自分のサイトを過小評価してはいけないと書かれていた
2chの同人板に、そういう話をするサイトには閲覧者が寄り付かないと書かれていた
それを守って、自分の同人サイトの日記ではそういう話をしないように注意してきた
ある同人サイトは、日記に今の日本の政治についての考察を書いていた
ある同人サイトは、日記に堂々と原作の新刊に対する批判を書いていた
ある同人サイトは、日記に他サイトで行われている企画に対する批判を書いていた
ある同人サイトは、日記にとにかくネガティブなことばかり書いていた
ある同人サイトは、日記にYouTubeやニコニコ動画への直リンクを貼っていた
ある同人サイトは、日記に某所で作品の批判をされたと書いていた。頑張ってくださいというコメントがいっぱいあった
ある同人サイトは、日記にそろそろ閉鎖しようかなと書いていた。閉鎖しないでくださいというコメントがいっぱいあった
ある同人サイトは、日記にこんな弱小サイトですが云々と書いていた。1日に200人くらい来ていてほぼ毎日コメントがあるサイトだった
たかじんのそこまで言って委員会とかTVタックルとか見てるし、録画までしている見ている。
マスコミを鵜呑みしているかしてないかは知らないが、新しいHDDで爆笑問題の太田(名前が長いから略な)の出てるやつとか、そんなのを見ている。
あと、細木数子。
細木の出てる番組は討論番組とはすこし違うが、日本の問題とか、日本の政治とかを話している細木の姿を母親は楽しんでいる。
だが、母はそれらに対して肯定的な意見を言わない。
「体罰をしても、痛いだけだから何もならない」と否定的な意見を少し放つ。
父には何回かあった。(といっても平手打ちぐらいだが)
母と父の仲の良さは日本の夫婦の平均の仲の良さだ。
もう結婚生活の基礎を身につけ、後は別れをものすごく穏やかに待っている時期なのだ。
その時期を彼らは幸せと形容されるような生活をしている
ただ、私の母は父の短気の性格を愛すことが出来ないまま、この時期を着てしまった。
だから父が怒りをあらわにするときは結構もめる。
そんな、関係なのだからだろうか。
ほんのわずかだけ、関係があるかもしれない
でも、そんな理由に対する影響なんてたかがしれてる
もしかしたら、母の幼いころに何かあるかも知れないと思ったが無かった。
兄妹関係の贔屓はあったが、敬老の日なんかに電話をしているし、仲がいいのでとてもそうとは思わない。もともと母親はそんな人ではないのだ。
寝てしまえば忘れてしまう人なのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070831141952
大き過ぎて目が行き届かないのなら分かるんだが。がっちりと癒着しちゃって監視機構が働かない、とか分かってても全体に占める割合が大きくなり過ぎて対処出来なくなる、とか?ならばその監視を国が行う(行政・立法府に対する司法府のような、実際に政治を行うのは小規模地方政府に任せて、その監視を国が行う)ってのはどうかな。なんか仮定に仮定を重ねていてそろそろヨタ話でしかなくなってきたからこの辺で切る。
俺が聞きたいのシンプルなことで
どうかだけなんだよね。政治学専攻でもない俺が、これ以上「じゃあどうする」って話をしても仕方ないので、「じゃあどうする」って話じゃなくていいから、今の状態は十分に機能しているのかどうかについて意見を聞きたい。
対して日本の政治家はあまりジョークを言わない。
叩かれなくてもつまんなくて、笑えないのばっか。
結局日本って社会的に「許容されて」かつ「すべらない」「ジョーク」の閾値が狭すぎるんじゃなかろうか。で、閾値に外れた発言はジョークでなくて「失言」に分類されてしまう(主にマスコミ的に)。結果、ジョークを言うことに対して萎縮的になってしまうんじゃなかろうかと。
参院選の麻生外務大臣の「狂い水」「アルツハイマー」発言なんて、文脈的には単に「すべったジョーク」なんだと(少なくとも俺は)思うんだが、マスコミ的には「失言」になっちまってる。
元々の文章にすごい違和感があるのよ。
面白い娯楽を作れば人は集まる。それはYesだ。
人が集まればそこでの意見はなんらかの大きな影響力を持つ。それもYesだ。
大きな影響力のほうが世界を変えていく可能性が高い。それもYesだ。
ここまでのことは当たり前のことで誰でも知っていることだ。
よって、ネット企業は、ネット特有の娯楽を作り出すことにもっと注力すべきではないだろうか(ところで、Googleの20%ルールは機能しているんだろうか?面白そうなサービスを自前で生み出さずに買収ばかりしているが)。それが結果的に、人を集め、ネットの力を増幅し、世界を変えていくんだと思う。なんかまとまらないけど、そんなことを思った。
文章の書き方だと思うのだけど、そもそも人を集めることに注力していないWeb企業なんてない。
娯楽か否かという考えは手段の選択にしか過ぎない。
面白い娯楽があると、人が集まる。人が集まれば、自然に知恵も集まる。知恵が集まれば、実際に行動する人も集まる。テレビにしても、稼ぎ頭はバラエティな訳であって、報道の特権にせよ、稼ぎ頭としてのバラエティが機能しなくなれば、・・・もし、娯楽の中心がネットに移れば、日本の政治も(経済も)かなり変わるのではないだろうか。
そもそも何が変わるの?
今のようにネットがないその昔、自民単独政権がなくなったときだって、ある意味、「大衆の気持で」世界は変わったわけだが。
ネットがない頃に比較して「よい選択」ができるようになるというのか?
その理由がさっぱり分からない。
面白い娯楽を作ることではないかと。
・・・というところまで行かないでも、面白いコメントを書くとか、面白い記事をブックマークするとかでも世界は変わるのではないだろうか。
面白い娯楽があると、人が集まる。人が集まれば、自然に知恵も集まる。知恵が集まれば、実際に行動する人も集まる。テレビにしても、稼ぎ頭はバラエティな訳であって、報道の特権にせよ、稼ぎ頭としてのバラエティが機能しなくなれば、・・・もし、娯楽の中心がネットに移れば、日本の政治も(経済も)かなり変わるのではないだろうか。
やはり、人を集める面白さがないメディアは弱い気がする。特に日本人は、と言うと怒られそうだが、欧米人が政治的メッセージ込みで活動しているのに対して、日本人の場合、政治的メッセージを入れるのは野暮だ、気持ち悪い、みたいな風潮はあると思うが(もちろん、裏にいろいろな事情があるんだろうが)。
よって、ネット企業は、ネット特有の娯楽を作り出すことにもっと注力すべきではないだろうか(ところで、Googleの20%ルールは機能しているんだろうか?面白そうなサービスを自前で生み出さずに買収ばかりしているが)。それが結果的に、人を集め、ネットの力を増幅し、世界を変えていくんだと思う。なんかまとまらないけど、そんなことを思った。
偏差値の高い人たちは酒の席でもレベルの高い会話をするらしい。
どんだけ高度かっていうと
「普段の授業の感想や思い出話、最近だと日本の政治の話や宗教の話など」
んーどうレベルが高いのかは、さっぱりわかりませんでしたが、たぶん笑いどころなんだろう。
僕なんかではさっぱり理解できませんでした。
インカレサークルの飲み会に誘われたので、初めて出席してみた。違う大学のやつらと飲むのは初めての経験である。
そこで実感したのは、偏差値が低い大学に通う奴ほど低レベル、ということだ。こんなこと書くとまた「偏差値至上主義に毒されている」などと言われるかもしれないが、しかし低偏差値の大学ほど低レベルな奴の割合は確実に高いと感じる。
いつも私がサークルやクラスの飲み会に参加するとき、そこでは酒を交えながら普段の授業の感想や思い出話、最近だと日本の政治の話や宗教の話などをする。「○○教授の意見と●●教授の意見って、かなり対立するものだけれど、どうなのだろう」とか、そういった話もすることがある。しかし低偏差値の大学に通う彼らの飲み会は、そもそも会話というものが存在していない。彼らの言う「ノリ」で何かをすることを楽しみ、知的な側面は全く感じられない。くわしくをkwsk、漫画をmngと書くような「アルファベットの子音のみで単語を記述する」ことに快楽を覚え「お前それディーワイじゃね?ディーワイディーワイ!」「お前のほうがケーティーだぜ!」などと、何がおもしろいのか全く分からない「会話」を繰り広げていた。彼らはそれが楽しいらしいが、おれとしてはちっとも楽しくない。
旧友がよく「お前の大学のやつはなんだかんだいって会話水準が高い」「どんなにチャラチャラして見えるやつでも、きちんとした思想や観念を持っているやつが多い」などと言っていた。自分としてはっきりそれを自覚することはほとんどなかったが、しかし他大生のこうした現状を見る限り「確かにそうだ」と感じる。私から見たら飲み会で「知的な」会話に興じることはかなりの娯楽なのだが、彼らにとってはそれは「酔っていなくてもそんなことは話さない」レベルの高度な会話であるらしい。そして、私のような存在はかなり珍しいようだ(私の大学では一般的なのだが…)。
「学歴で人を判断するのは良くない」とよく言う。しかし、個人的な経験を踏まえれば、学歴は個人を判断するための一つの指標になりえてしまうと私は感じる。「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それとも飲み会で下らないアルファベット列を考えるのが「個性」なのだろうか?学歴は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
同じ学年の連中のなかに「官僚になりたい」というやつが結構いる。メディアによる官僚バッシングが激しく行われている中、国の中枢で国家運営に携わりたいと考える人間がまだまだ多いことは一定の安心感を私に与えてくれたのだが、その中には「あんな馬鹿共と同じ職場で働きたくない」という意思を持っている者も多いようだ。「選民思想だ」といって批判する人間も出てくるだろうが、こちらとしてはそう思っても仕方ない状態が多くの局面で見られるのである。
それにしても日本は知的エリートに対する待遇が悲惨だ。なぜ国家公務員の月給と一般企業のサラリーマンの月給を比べ「公務員の月給は高いですねえ…」というのだろうか。国家公務員の奴らは民間就職したとしてもその時にその分野でもっとも繁栄している企業にしか就職しない。そのような優良企業の月収と国家公務員の月収を比較しないと意味がないだろうに。なにはともあれ、「国家公務員は他の東大卒の人間よりも年収が劣っているのに、なぜ公務員になりたいという人間が一定数いるのか」という命題に対しては、この「学歴と精神性の比例関係」も一定の影響を及ぼしているに違いない。
まだ中二ということは、これからの伸び代がたくさんあると考えるんだ。
マッカーサーが「近代文明の基準に照らして、西欧人が45歳なら日本人は12歳の少年だ」と言ったことが、日本で大いに批判の的となったことがある。これについて、西欧基準に照らした場合の日本の政治的未成熟の指摘だけじゃなくて「日本はこれからどんどん成長していくのだ」という含みもあったのではないか、という解釈もあるらしい。
"Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of twelve as compared with our development of forty-five years."
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10030775664.html
(略)そのため政治や選挙への関心もなく、選挙も無参加か他者に頼まれれば行くという程度であった。
・誰がなっても同じ。最初だけで、最後は結局同じ
・(選挙は)自分で選ぶんじゃなくって、知り合いに「よろしくね」って声をかけられると、ついつい(その)名前書いちゃいますね
・選挙に行ったことがない。誰に投票していいか分からない。政治家でテレビに出てくるのはごくわずか。身近に投票する人は分からない。演説もみな同じ。誰が信用できるか分からない
・(選挙への関心は)ない。(投票)はだいぶ前にある。そのときは近所のおばさんに連れて行ってもらって、「この人がいいよ」という感じだった(略)
なんというか、非常に良く分かる話だ。
俺は、IT関連の仕事をしているし、個人的なネット環境もある。候補者の情報を調べようとすれば出来る。
だから、貧しい人達・・・特に、ネットの知識が無かったり、生活の余裕が無かったりする人達が、俺より選挙権を粗末に扱っているというのは想像はついた。で、実際に、上記のような実例があったりする訳だ。
各候補が何を主張しているのかは調べずに投票した。
誰に投票したかは覚えていないけど、あまり深く考えずに与党と野党、それぞれに投票した。
調べる環境があるのに調べないのは怠慢である、という指摘はその通りだと思う。
しかし、開き直ってしまうが、人間は自分に感心のないことに対しては怠慢になりがちである。
要するに、「我々(国民)は、日々の生活で忙しい。」のだ。
それは俺だけではないと思う。
例えば、いつでもどこでも各候補の政見放送なりが見れるようなシステムは作れないのだろうか?というか、何千万もかけてシステムを構築しろ、とかいう話ではなく、何も考えずに投票所まで来ても大丈夫なように、投票所に各候補の公約を張り出しておくだけでもずいぶん違うと思うのだが・・・。
少なくともだ。候補者の名前と「ありがとうございます」を繰り返す選挙カーや、抽象的なさわやかコピーと笑顔の候補者の選挙ポスターが、政治家を選ぶ判断材料になっているのだとしたら、恐ろしいことだと思う。政治家を選ぶ判断材料が、政策でなく、単なる作られたイメージだとしたら、日本の政治が弱い理由は推して知るべし、ではないだろうか。
某都知事候補のYoutube問題で、「公職選挙法を変えるべき」という声も上がっていた。
確かに、時代遅れの法律をかえるのは当たり前だし、技術は進歩しているのだから、それに合うように法律を変えていくというのはもっともな話だ。ただ、変更するにあたって、「(国民は)日々の生活で忙しい」ので、(政治家を選ぶ上での)利便性を高めるという視点を最も重視してもらいたいと思ったし、それによって日本の政治のレベルは上がるのではないかと思うのだ。