はてなキーワード: 似非科学とは
少し前からメディアや本などで取り立たされているけど、
実はこんな「特別な障害」は存在しないんだよ。
少し乱暴な言い方をすると、「あなたはA型です」と言われ、
数々の要因が当たっており、「あぁ、A型だからこうなんだ」という
ような、似非科学に近いものがある。
自分の周りには、10人に1人くらいはいわゆるアスペルガーみたいなタイプがいる。
でもね、その実態は「コミュニケーション能力が(極端に)低いだけ」だと言える。
自閉症と結びつけることは誤解を招くし、障害とすることもよくない。
身の回りに多く居る「ただコミュ能力の低い人」に奇異な症状名の
烙印を押してしまう可能性があるからね。
アスペルガーのような症状を自閉症スペクトラムに分類することが間違っている。
アスペルガー的な症状は、環境によって出来上がったコミュニケーション能力の低さで、
自閉症は先天的な脳障害や遺伝の要因で出来上がった自閉症状だ。
例えると、シャチとサメって少し雰囲気が似てるけど、進化の過程では全然違うルートを
たどった別種、みたいなもんだ。(わかりにくいか。)
コミュニケーション能力の低い人って、色々なことが共通している。
「アスペルガー特有の共通している特徴がある」わけじゃなく、コミュ能力が低いからこそ
必然的に共通する項目があるだけだ。
うん、アスペルガーって言葉は言い換えよう。「コミュ能力が低い人」と言い換えよう。
・コミュ能力が低いので、人以外の(科学・数学・鉄道・漫画・●●収集)などに没頭する。
→逆に言うと対人以外の遊びに没頭したからこそ、コミュ能力がさがったと言える
・コミュ能力が低い(コミュニケーションはある種反射ゲーム)→運動などの反射動作が苦手
・コミュ能力が低い→男に多い(もともと女性はコミュ能力が高い、という生物的な性差がある)
・コミュ能力が低い→発声の機会が少ないので、人によってはドモリが出る場合がある
こんな特徴があるときもあるし無いときもある・・・など、すごく曖昧だ。
学説によって違う所もあるし。
健常者/アスペルガー という二元論的な考えは、本質を間違った風にカテゴライズしてしまう。
本来は、「学力に差があるようにコミュ能力に差がある」だけなんだ。
「アスペルガーだから」ではなく、コミュ能力の高低の差なんだよ。
これを読んでいる人の中にも、「自分はアスペルガーかも」と悩んでいた人も居るだろう。
でも「アスペルガーだからこうなんだ」じゃないんだよ。
その能力は上達する場合もあるし、人によっては上達しにくい場合もあるけど。
コミュ能力がどうもあがらない場合は、それに関係のない職業につけばいい。
コミュ能力の低さが原因でうつになった場合、しっかりと治療をすることだ。
アスペルガーかどうかで悩むなんて、すごく馬鹿げた悩みなんだ。
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追記:2008/12/07 21:00
こんなに反響があるとは思わなかった。
タイトルのせいか。
間違った箇所&誤読されてる箇所があったので、追記&訂正を。
◆1点目。
・「アスペルガー的な症状は、環境によって出来上がったコミュニケーション能力の低さで…」の箇所。
個体差は先天的なものにも左右されうるので、この1文は訂正します。
◆2点目
この記事は、
「アスペルガーはコミュ能力が低いだけだから鍛えて直せ!」とは言っていません。
その診断を受けた人は、その人に合った職種&環境を選ぶのがいいと思います。
プログラマの人で、コミュ能力低いけどエレガントなコーディングができる人だっているし。
コミュ能力が低いことそのものは個性なので別にいいんじゃないかな。
◆3点目。
この記事は、
「(アスペルガーなんて存在しないから)アスペの診断を受けた人は健常者だろ!」とも言ってません。
コミュニケーションがうまくいかなくて、知能は正常なのに社会適応できない人がいるのは事実。
ただ、それを「アスペルガー」という曖昧なカテゴライズにはしない方がいいのでは、というのが主張。
「知能は正常だが社会で働けないくらいにコミュニケーション能力が欠乏している」っていう事実があるなら、
それを引き起こした原因・程度・症状は個体差があるからそれに合った治療なんかが必要だと思うけどね。
アスペルガーの症状って曖昧すぎだし、血液型診断みたいに当てはまる人が凄く多いから、
似非科学になってしまうんだよ。
自称アスペも出てきちゃうし、職場の給湯室でおねーちゃんたちに「あの人アスペっぽいよね…」
なんて会話がされてるなんて、最悪じゃない?
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追記2:2008/12/09 0:40
あと、よく「この本を読んでからモノを言え」みたいな意見もあるけど、
本を読んだらアスペルガーを理解できるとは到底思えない。
むしろ、本を読んだ知識でそう言ってしまえる人ってどうなんだろう?
もちろん僕が書いている文章も人の事を言えないんだけどね。
ただ個人的に、オリバーサックスの「火星の人類学者」は面白かった。読み物として。
実際にアスペの疑いがあると診断された人も居るだろうけど、
はっきりと医者に診断されたことはないんじゃないかな。あくまでも疑いだけで。
…もちろん僕の文章も科学的じゃあないんだけどね。
僕は「アスペルガーの疑いがある」診断を受けた人も、病院行かずに自称アスペの人も見てきたし、ADHDと診断された人や
診断も自称もせずにアスペルガー的な様相を表している人も見てきたけど、
それでも尚、アスペルガーって無いんじゃないか?と思ったから記事を投稿した。
強引な例えだと、仮に「ゾンビ映画は好きだけど和製ホラーは観れない現代音楽好き」をA症候群だとして、
人口の数パーセントはこのA症候群にあたる。確実に当てはまる人はいるんだよ。
自分の周りにも「ゾンビ映画が好きで和製ホラーが嫌いな現代音楽好き」がいるからね。
でもだからといって「A症候群は存在した!」って言うのって馬鹿げてない?
アスペルガーをある定義にして唱え、確かに当てはまる人が存在するからアスペルガーはある、
というのってどうなの?って感じだよ。僕の記事と同じくらいにどうかと思うよ。
「科学と似非科学の議論はそもそも論点が定まっていない。」ということに問題があると思う。
俺は科学は実用上では「真理」として十分に認める価値があると思う。
しかし一方で、科学を「正しい」と決めるのが人間である限り、この世の「真理」、いうなれば絶対的真理(文法的にはおかしく見えるがニュアンスをつかんでほしい)とはなりえないのではないかという疑念をいつも持っている。
科学の実験結果を認識する人の認識の問題まで考え始めると、まさに宗教や文化的な考え方を完全には無視できなくなるだろう。なぜなら人の「クオリア」の問題は、いまだにこれらの哲学的な考え方を排除できていないのだから。そして、似非科学批判の批判(あくまで似非科学批判の批判であって、似非科学擁護ではない点に注意)がされるときはよく、この「絶対性・真理性」が話題に上る。
いっぽうで俺の視点からすると、似非科学批判者は、実用上での「真理」が問題だと考えているように思う。こういった論客たちは、おそらく科学の問題に哲学的な考えを導入する必要はない、似非科学を使って悪用しようとする人間が排除されればいいと考えているのかもしれない。
結局この問題は共有した論点が設定しにくい、というよりほんのわずかにしか見えない少しの溝が、世界をまったく分けてしまっているのではないかと思う。
似非科学批判者にはどうかわかってほしい。
俺のような似非科学批判の批判をするようなものは、一見敵対してるが、本当はまったく違う話をしているのだ。
おそらくはてなにいる論客たちの多くは、どちらの立場にせよ、似非科学によるまやかしを憎んでいる。
ただ、俺のように、科学を哲学的な目線から見て考える、哲学者もどきみたいなやつもいる。
それは科学を「真理」ととるか、とらないかの違いである。それはある種、工学者と理学者の違いのように、学問の「深さ」に対する考え方の差であり、じつはお互いを必要としあう関係なのかもしれない。だから、そろそろお互いがののしりあうのはやめよう。お互いの違いを認めるのも時には大切なことだ。
追記
でも一部だと思うけどね。
それいったら、今流行の似非科学ネタとか少し前の梅田問題とかこの一言で終わるな(笑)
でも、声が大きくなると「一部だと思うけど」といいきれない問題を抱えるのがきついところだけどね。
増田のいう「一部」に出会わないようにしたり、逆に出会いたいと仕掛けたりするのが結婚関連の駆け引きの真実。
せめて外れはひかないように、と思わないやつはいないだろう、一部を除いてなw
これちょっと面白い命題だなぁ。元の似非科学の話とは関係なくなるけど、まぁそっちはどうでもいいじゃん。
・普通の人にとって、自然科学で説明できる範囲は自然科学者が思ってるよりもずっと狭い範囲でしかない。
ってのが逆だと指摘されていて、個人的にはこっちよりの意見。
科学意外になんもできないなーってのが実感だけど、意外と説明できる事象もある。
例えばカオス理論のこととか宇宙のこととか。DNAのこともぞくぞくするほど予想以上って言うよりも想像しなかったその視点かーってことがわかってるし、こういう意味で元増田のことは真になる。
SUICAとかすごいよねー。
でも、ドラえもんの道具ってほどじゃないけど、そこまで科学に期待されてもなぁってことがやっぱ多い。
そうだよーこんなに原始的な研究してるんだよーって。
つまりどっちも真だなーと思ったわけで、この命題面白い。
でなくて、自然科学はあなたが思ってるほど立派でないし限界はあるじゃないかと。分かってるつもりかもしれないけど、分かってない人、結構いそうだよ。
と、そういう一見ごもっともそうな(しかし誰でもいえる)一般論を言っておきながら、思い切りその「限界」の範囲内で話を始める連中が大勢いるから批判されてるわけなんだが。はてなだとどっちかというと「似非科学批判批判」(笑)ではなく反経済学的な方に行くんだけどね。「全体最適はナチ」(爆笑)とか。
話が逸れたが、「シンクロニシティ」とかそういう文学的表現を文学的表現とわかった上で使うのはそりゃ勝手だよ。でも、もしそれが「文学的表現」の領域を踏み越えたらそりゃ叩かれて当然だぜ?例の「日本語が亡びるとき」と同じ話で、あれも「私小説」なら「それなりに面白い本」と言ってもらえるものを、言語論であり教育論であるとか言ってしまうからトンデモ扱いされてしまうんだよ。そういうことだ。
ニセじゃなくてエセな所がミソだと思ってたけれどもそうでもないかも知れない。
似非科学ってのは科学的に間違っているということが重要ではなく、科学ではないのに科学を装うこと、科学で判断できないことを科学で判断しようとすること、だと思うけど。
見るべきは科学領域の内か外かと、科学的に誠実かどうか、という、科学的ではなく倫理的な問題だと思うんだよね。
なんて呼べばより良いのかな。
せっかくだからつなげてみるか
最近「エセ科学」が流行ってるみたいだから、コンピュータサイエンス分野の博士で現在研究員というバリバリの"科学"者の俺がそろそろ一言いっとくか。
いいか、科学に騙されないためには全てを疑ってかかるんだ。
まず、ディプロマミルって知ってるか?知らない人はWikipediaでも見てくれ。今じゃ博士号を金で買える時代なんだ。自分の知らない海外の大学で博士号取った偉そうな先生が尤もらしくその商品を推薦してたって信じちゃダメなんだぞ!(余談だが、俺の肩書きをハナから信用した奴は騙されやすい奴だな)
じゃあ、もう少し難しい話をしていこう。仮説検定って知ってるか?まぁ、ある仮説が正しいかどうかを統計的に確かめるもので、世の中の学術論文で広く使われるものだな。で、俺が思うにはな、統計とか検定なんて「信じ切る」助けにはならないものなんだ。例えば最高レベルの雑誌に載ってる論文だって20人ぐらいでしか調べてないこともあるんだ。しかも、検定って100%正しいことを証明するものじゃないんだ。95%とか、せいぜい99%だぜ。なぁ、20人ぐらいの調査で5%ぐらいはその仮説が間違っているかもしれないって、結構怖くないか?
最後にもう一つ、NatureとかScienceって知ってるか?有名な雑誌だな。まぁ、ここで発表されてる科学はまず正しいものだよ。でもな、物事に100%は無いんだ。以前な、ノーベル賞目前と呼ばれたある科学者が居てNatureとかScienceにバンバン論文を載せていたんだが、そいつの研究は全て捏造であることが発覚したんだ。これ2002年の話だぜ? 査読者も他の研究者も暫くの間捏造を見抜けなかったんだ。あんな有名な雑誌に載ってる話だって、正しくないものがあるんだよ。人はいろいろと間違う生き物なんだ.
いいか、全てを疑ってかかるんだ。もちろん、このエントリもだ。
続き → 笑わない似非科学者
(改題)トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリー - E.L.H. Electric Lover Hinagiku
似非科学対策としての「なんちゃって理解」を実現できないか - 狐の王国
科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想
わかった気がする……なぜ疑似科学批判の連中にイラッとするのか……
http://anond.hatelabo.jp/20081116145930
無知な弱者は疑似科学に騙され、科学にも騙される。散々振り回された挙句に最終的には無知のまま形式と表面を戯れる。 - 別館:ポスト・ヒューマンの魔術師
ありむーは火付け役
狐はぽの伏線
うるるんは普通に
益田は冷やかし
ぽは全てをネタにした
そんで
またありむーみたいな火付け役が出てきて
狐やうるるんみたいに疑似科学対策の声を掛けるのが出てきて
ちょんぷくみたいなつり氏も出てきて
全てをネタにする人が出てくる
ぽ的に言えば循環してて、狐流に言うと「なんちゃって」議論が終結して
ありむーみたいなカリスマやちょんぷくみたいな釣り氏がまた議論を再燃して
読んでいるなら読んでいると言えばいい。しかし、その私の問いにこれまで一言も応えていないのだから、こちらとしては判断のしようがない。エスパーでもあるまいし。
著者のインタビューがアブストに当たるとして、ひとまずは読んだことにしておこう。
そして誰が書評をしたのかね?
さて誰が書評すると信用足りえるのか。片方の言語学の専門家とやらになると、学歴経歴がはっきりしないのだから、全く信用にたるとはいえないだろう。海難記の人はわりとはっきりしているし、梅田氏も同じ。となると、元増田が判断を何処に求めているのかさっぱり不明。専門家が常に信用できるなら、世の中こうはならないだろう。
また似非科学の伝道者とて、一応あやしげなところから博士号を取得しているわけなのだから、ひょっとすると学位においては程ほどの信用力を獲得していると見なされるのかもしれず、元増田はこれを信用してもおかしくないのだが。
あの本を引用して書評してるのはいくらでも見つかるし、その引用部分見ただけであの本がトンデモなのはすぐにわかるんだけどね。
そもそも数ある書評の中から、梅田氏の書評もどきのやつだけを否定することが可能なのか、その理由さえ示されていない。どうしてだろう。教祖様が梅田氏を否定しているから??
さらに、引用部分が、著書はいうまでもなく過去の学問においてどのように敷衍されているのかを理解しないといけないのだが、元増田はそれが可能であろうと推定するに十分な学歴や相応のトレーニングを積んできたとも思えない。つまり理解する能力がないにもかかわらず、トンデモと非トンデモを分類していることになるのであるが、これはあまり奇妙で且つ不可解すぎて。
なにより教祖っていうのがすばらしくいいひびきです。元増田の教祖様を教えていただければ幸いですが、その前にこのような発言をしている人は、あまり頭が良くないと見られるんじゃないかと思うのですがいかが?書評の良し悪しにも、たぶん主のオーラが直結しているように推測されるのだけど、そうするとこの元増田も自身でマイナスイメージだけを積み上げているようにしか見えないです。
最後に、総表現社会になれば、本当に権威があるのか不明な権威にすがりつくトンデモクンがイナゴのように大発生する。何しろ自分には権威もなければ、判断する能力も何にもないんだから。このようなプチ教祖様にすがりつく信者様がイナゴ。ネット社会は大変だあ。殺虫剤を作れば一儲けできるね。
俺のやりたかったことは
だまし絵みたいにいくらでもまではいかないけど、少なくとも複数の見方ができるものはあるんだが、見たいように見ていてはw
少なくともはっきりしたことは、
その根拠は
そんなところだ。
言うまでもないことだけど、アブストというエッセンスを書いている人は研究者本人なわけだけど、第三者の書評なりは研究者が主張するエッセンスと必ずしも一致するわけではない。無論後者のほうが正しい場合もあるのだろうが、後者のみを持って前者の評価を下すことはどうかな。例外的に後者の判断を下した人の能力を持って推し量ることは出来ないこともないが、それもさてさてどうだろうか。
さらに増田の分が悪いところは、新潮も書籍も読んでいないとなると、純粋な意味で一次情報に当たるものはタイトルだけである。タイトルで全てを推し量るには些か危うい。タイトルが似非科学ほど怪しい雰囲気を出しているわけでもないからだ、というには若干厳しいがw
アブストを持ち出したのは俺ではないが、言いたかったであろうことはそんなところであろう。
君の思ったとおりに他人が動く訳じゃないんだよ。
それならきちんと反証主義に対する批判も読むべきでしょ。
特に、社会科学とかには当てはまりが悪い。
他方で「似非科学」的なものが氾濫してるし、素人目には区別が付かないから、
何らかの基準があるべきだけど。おそらくは理系よりも。
似非科学とかでも、結論とか取り出すと正しかったりとかすることもあるわけじゃない。
そういうところでオカルトやゲーム脳も一笑にふせないってのはわかる。
でも、なんかああいうのは科学ではないとは言えるんだよな。
じゃあ、その科学の定義ってなんだろうって考えるのが、また科学者なんだろうけど。
どっちかというと、態度の問題かなあとは思う。
「査読」にしたって、似非なりになにか「お墨付き」って(いや、似非だからより一層)もらうわけだし。
たとえば、なにか自分の持っている理論と違う結果を言われたときに、
面白いとか「おー、じゃあ新しい論文書けるぜ。ひゃっほー」ってなるとかさあ。
あれかな、科学者ならそのメソッドとかロジックには拘るとしても、
まあ態度なんてわかりにくいから、じゃあ何が指標になるかというと、結局は
3)論文を書き続けてるか
ってことだろうけど。
2)は学位とった分野ではものにならなかったのに、「博士」とか「教授」って肩書きで関係ない分野で評論家になるやついるから必要、
って思った。3)はなんとなく締りのいい述語が思いつかなかっただけで、必要とは言い切れないけど。
そういえば、5年前に保健の授業で「マイナスイオン」を調べた。テレビでマイナスイオンと頻繁に使われていたし、何らかの効果はあるんだと思っていた。だけど、盲目的に信じるわけにはいかず、その根拠を探そうと思った。ブルーバックスや化学の教科書なんかを開いても、そんな説明はどこにもない。当時は論文を調べるなんて思いもつかなかったし、どうやって探せばいいかもわからなかった。そこで頼ったのが宣伝しているホームページだった。後から考えてみれば、マイナスイオンを宣伝しているホームページしか書かれてなかったんだから自作自演だと考えられる。でも、当時はそれを疑うことは出来なかった。目の前にある情報がすべてだったから。
噴水のように水が地面に落下したときにマイナスイオンが発生する。そんな感じだった気がする。その論理で行けば風呂には大量のマイナスイオンがあるはずだし、朝早く散歩に出かければ霧も出ているからマイナスイオンが大量にあるはずだと考えた。反対にプラスイオンが発生するのはテレビや冷蔵庫、電子機器ならどこでも発生するという説明だった気がする。とりあえずそんなことを授業で発表し、「マイナスイオンを発生させる高価な機器を購入するよりも散歩に出かけた方が効果がある。」と結論付けた。
何バカなことを発表しようとしていたんだと思うかもしれないけど、当時は「マイナスイオン」に何か魅力を感じていた。調べられることは調べたつもりだし、図書室の先生にも文献を聞いてみた。近くの図書館にだって行って来た。だけどめぼしい情報はなかった。インターネットの情報を鵜呑みにしてはいけないと聞いていたが、どこか有名そうな研究室でこんな結果が出ていますよ! とまで書かれていたら、当時高校生だった自分に疑えという方が難しい。
得られた情報からでしか真偽を確かめることは出来ない。今でこそマイナスイオンは似非科学だと言われているけど当時の状況で適切な判断を下せる人はいたんだろうか。少なくともあのときの適切な行動は、マイナスイオンに興味を示さないことだと思う。そうすれば、不定期に後悔することもなかったのに。たまに思い出しては恥ずかしさがこみ上げてくる…。
そこで水伝とか出されると反応しちゃうな。
先ず、水伝だのスピリチュアルだのは、非科学というより似非科学、ニセ科学というべきです。あれらが悪いのは非科学である事ではなく、科学を装って人を騙すことです。そのあたりを忘れてはなりません。非科学が悪ではないのですから。
次に、「女が男に勝てないのは母性が原因」が非科学か、ですが、確かに科学的ではないかもしれません。勝つとはどういうことなのか、母性とは何なのか、原因と断じて良いのか、等〃あります。しかし、別に科学的な話をしているわけではないのでかまわないでしょう。さらに、この一節は、数多の文を増田が単純化に過ぎず、そもそも正しいのかが疑問ですから。
最後に、「性染色体が精神に影響を及ぼす」というのは間違いではないと思います。しかし、精神は後天的影響が大きいという部分もあります。そしてその両者を明確に区分することは困難ですし、区別をなくすことも困難です。したがって、性別も文化と同じく、相手と結果を見比べながらお互い尊重しあうしかないと思います。
随分前に図書館に行ったとき、おすすめ図書としておいてあったことをふと思い出した。
ああこれか!と思ったが、手にとるのも面倒だったのでスルーした。
ほとんど追ってないのだが、よくわからんの一言。
似非科学の例としてあまり適当でないなんて今ごろ気がつくほどのことか?
ブログで引用されたところしかしらないけど、がちでつっつくものでもないし、毛色が違いすぎる。
作者がガチで科学的だと信じているなら別だけど、たぶん違うだろう。
「明日は遠足の日です。明日晴れるように、おうちに帰ったらてるてる坊主を軒下につるしておきましょう!」
なんてのも似非科学だとは思うけど、つっこむのはあまりに無粋すぎる。そういうもんだと思っていたのだが。