2008-11-19

議論の出口がみつからない。

科学似非科学の議論はそもそも論点が定まっていない。」ということに問題があると思う。

俺は科学は実用上では「真理」として十分に認める価値があると思う。

しかし一方で、科学を「正しい」と決めるのが人間である限り、この世の「真理」、いうなれば絶対的真理(文法的にはおかしく見えるがニュアンスをつかんでほしい)とはなりえないのではないかという疑念をいつも持っている。

科学実験結果を認識する人の認識の問題まで考え始めると、まさに宗教や文化的な考え方を完全には無視できなくなるだろう。なぜなら人の「クオリア」の問題は、いまだにこれらの哲学的な考え方を排除できていないのだから。そして、似非科学批判の批判(あくまで似非科学批判の批判であって、似非科学擁護ではない点に注意)がされるときはよく、この「絶対性・真理性」が話題に上る。

いっぽうで俺の視点からすると、似非科学批判者は、実用上での「真理」が問題だと考えているように思う。こういった論客たちは、おそらく科学の問題に哲学的な考えを導入する必要はない、似非科学を使って悪用しようとする人間が排除されればいいと考えているのかもしれない。

結局この問題は共有した論点が設定しにくい、というよりほんのわずかにしか見えない少しの溝が、世界をまったく分けてしまっているのではないかと思う。

似非科学批判者にはどうかわかってほしい。

俺のような似非科学批判の批判をするようなものは、一見敵対してるが、本当はまったく違う話をしているのだ。

おそらくはてなにいる論客たちの多くは、どちらの立場にせよ、似非科学によるまやかしを憎んでいる。

ただ、俺のように、科学哲学的な目線から見て考える、哲学者もどきみたいなやつもいる。

それは科学を「真理」ととるか、とらないかの違いである。それはある種、工学者と理学者の違いのように、学問の「深さ」に対する考え方の差であり、じつはお互いを必要としあう関係なのかもしれない。だから、そろそろお互いがののしりあうのはやめよう。お互いの違いを認めるのも時には大切なことだ。

追記

もし似非科学批判の人で、俺のあなたに対する見方が違ったらごめん。似非科学批判を批判する人でもそういう人がいたらごめん。

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