はてなキーワード: かわいとは
「彼氏に捨てられたくないから、それが怖くてヤラせてあげてるかわいそうな女」は、結構多い
と結構チープな物語とかでもよく見かけるが、実際はその逆も多いと思う。
ちんこでつながりを保とうとしている、哀れな男たち。ああ、俺だよ。
週に一度くらいの割合で乗る電車が一緒になる女の人がいる。
ちょっと、気になる。
見た目は派手じゃないんだけれど、オシャレ好きなんだろうなーという雰囲気があって、電車内では必ず何かの本を読んでいる。
俺も本を読んでるっちゃ読んでるんだけれど、かわいい女の子の絵が表紙のラノベ。向こうはなんか「本格的」っぽい本を読んでる。
意識するようになったきっかけってなんだろう、知り合いに似てるからとかそんな感じだっけ。
通勤先の駅でも同じ出口なので、俺が乗ってる車両に彼女が乗ってくると「おっ」と思う。
そんな理由もあって、ちょっと仕事辞めるのをためらっちゃってる。
声をかけようだなんて思わないのは、むしろラノベの読みすぎだからかな。
なんとかはなる。
が、子供がもし才能のある人間だった場合、少しかわいそうなことにはなる。
ハッキリ言って東大行けるような頭脳を持っている人間が、情弱で「大学とか駅弁でいいや」と
地元の大学に通ったりして、死ぬほど後悔してるやつは、案外多い。
ガマンできる範囲ではあるが、一定以上トシをとると隣人がめんどくさくなるけどね。
まったくわけわからん。
年収200万代って、率直に言えばフリーターに毛が生えてるような職業かなぁと。
単純作業的なのは今度外人がやるようになるよって話。きみが言っているのが、見当違いな職種であるならすまない。
昨今、大学の運営費を削減する政策のおかげで国立大では先生を減らしている。
海外の大学での教員一人当たりの生徒の数とどんどん乖離していっているのに。
それはまっとうな大学ではないところの先生たちも、泥舟から脱出すべく虎視眈々と"まっとうな大学"のポジションを狙っている。
なので、私は提案したい。
"まっとうではない大学"をつぶして、その運営費や補助金を"まっとうな大学"の運営費にして
Fランの先生たちは、国立大や有力私大へと転職したくてうずうずしている。
うちの地元にもあるけどxxx国際大学とかFランの大学はいますぐつぶせばいいと思う。
(つぶすのは忍びないなら、完全通信制にしてしまってネットで配信して,単位認定を厳しくして
設備とか、Fランの"学生管理"のコストをもっと圧縮すべきだ)
(タバコのすいがらをなすりつけたあととかゴミはちらかりっぱなしとかある)
4年間、バイトと遊びに時間を費やすためにやってきている人たちばかりだ。
(しかし、彼らが大卒になったところで入社できる企業はあまりかわらないのが実情。)
一部のそうでない人たちはそもそも"まっとうな大学"へ入れた人たちなので心配はいらない。
(彼らは不幸にも、推薦入試という高校に対するリベートの枠に落とされたかわいそうな人たちだ)
"まっとうな大学"へ転職して、研究に専念したいと思っている。
誰もそこにいたいと思ってない。
反論されそうだから先にかいておくと
介護/看護/教員系などの資格系統の学科は、"大学"にはせずに”高度な”専門学校とすればいい。
(同じ大学を名乗るのでも、きちんと分類すべきだ)
資格取得のために受験勉強で教養とかやってる暇ないんだから大学って言わなくてもいい。
だいたい、地方だと、国立大や公立大があるくらいのレベルで十分ニーズは満たされている。
誰もが高校に行くべきではあるご時世かもしれないが
勉強したい人だけが入れる数に圧縮して
というより「死んでほしい」と思うような相手とわざわざ一緒にならなくても一人で生きていけるってかんじか……男ならたとえ貧乏でも。もしかしてホームレスになったとしても。
それにしても、ネタにマジレスおつと言われるのかもしれないが、あまり笑えなかった。
なぜか男がかわいそうみたいな話の流れになっているけど、これそのまま受けとるとどう考えても女が悲惨だよな。
真面目な話、やっぱり経済的にまだまだ自立しにくいから、男から離れたくても離れられないんだろうか?特に子供がいたりしたら大変そうだし。
それとも小さな時から受けている、女は(男女は)こうじゃなければならないみたいな呪縛が、無意識にのしかかって動けなくなってるのか?
ほんの少しずつでも女が解放される方向に時代が流れてると思いたいんだが実際はまだまだ駄目なんだろうか。
現在の状況を考えると、男の終身雇用で家族を養ってくというモデルが崩れて、いやおうなしに男女のあり方変わっていく方が先に来るのかもしれないが。
なんだかありきたりの事しか言えないが、それだけ現状女の窮屈さはあまり昔と変わってないと少なくとも私には感じられるという事なのかなぁ。
レズではないが、かわいい/綺麗な女性を見るのは好きである。自分で自分の顔は(鏡や写真以外では)見る機会が少ないので、現実に直面する機会も少ない。一方、日常的に目に入ってくる他人のキレイな顔を見るというのは楽しいものだ。
「どうして同じ人類かつ性別にかかわらず、こうも違うのか?」と遺伝子に憤りを感じたりすることも、正直、あることはある。男性陣をはじめ、周りからの扱いが格段と違うときなどは特に。
とはいえ美容方面の努力が苦手であるため、相変わらずこうしたステキ顔からはほど遠いままである。
改善案として、美女ではなくともにこにこ顔が印象的といった好感度の高いタイプの人もいる。これを目指せばよいだろう。だが、残念なことに増田は性格も悪いのである。持って産まれた性質に加え、性格の悪さが加わるとこんな顔になってしまうのだろう。
可愛くはなりたい、とか愛されキャラとやらになってみたいな、とか思うことは思うのだが。
上野千鶴子が苦手だ。
以前、どこだかの新聞のweb版で連載していた長編小説(連載コラムだったか?)を読んで以来苦手になってしまった。
そして誰も幸せになれなかった。
アンハッピーエンドものや不条理ものは結構好きなはずだったのだけど、こればかりは駄目だった。
全ての男は例外なく腑抜けで欲の塊だとして描かれていたように感じたし、
そして全ての女は例外なく、そういう男や、男にてなづけられた哀れな女の
食い物にされたかわいそうな人間として描かれていたように思う。
それはおまえの読解力が足りないからそう見えるのだ、といわれてしまえばそれまでなのだけど。
たとえば全ての女はビッチとして描かれ、
全ての男はそんな女に食い物にされる男だというような論を見たときの違和感に近いというか。
それ以来上野千鶴子が苦手だ。
誰も幸せではなく、物語の中の登場人物が幸せになれる解への道は果てしなく非現実的。
おひとりさまの老後をタイトルにつられてパラ見してみたけど、論調が彼女の負け惜しみに思えてしまって駄目だった。
そんなことをふと思い出したので書いた。
俺個人が勝手に感じている事なので違うかもしれないけれど、
福満は妻に対して以前のような情熱はすでに持っていないと思う。
欲目にみても妻がかわいくない。
「小規模な生活」は漫画家の裏話と鬱話を楽しみつつドメスティックな美人妻にニヤニヤする大好きな漫画だ。
お世辞にも福満しげゆきの絵は技巧的に上手いとはいえない。
癖の強い、万人受けする絵ではないだろう。
だが、魅力がある。あの絵は福満にしか描けない。
『もちゃもちゃっとしたカワイコちゃん』
これは「小規模な生活」の1巻で妻を形容した一文だが、正にこれを具現するために有るような絵柄だった。
以前の福満の絵はもっとありきたりな表現だが切れないナイフのような感じだった。
特に「小規模な失敗」「まだ旅だってもいないのに」ではガリガリと細く陰鬱な陰がつきまとっている。
だが皆気付いているであろう、結婚を境に絵柄に変化が訪れる。
折れた木の枝のような絵はふっくらとやわらかく、可愛らしいと思うものは可愛らしく描かれるようになってくる。
きっとこのもちゃっとした部分は、妻と結婚し福満の闇の部分がそれこそもちゃもちゃっと柔らかくなってきたことによって
福満の理想とする妻のかわいさが素直に表現されるようになったんだなあ、とありていなことを考えてしまった。
しかしこの理論を素直に当てはめてしまうと、今の福満の心情はどうなんだ、っていうことになる。
どうしても今の絵は手癖だけで描いてしまい妻を可愛く描こうという気持ちが見えない。
お互い出産という大仕事を終え、だんだんと安定してくるだろうか。
個人的に「小規模な生活」の1巻あたらりがベストもちゃもちゃ妻だったんだがいかがだろうか。
お願いだ、せっかく子供もできたんだし、妻と子供だけで良い。可愛く描こうと努力してくれ。
っていうか、この絵を妻に見せても何もいわれないんだろうか。
明らかにご自分、劣化させられてますぜ、奥さん。
色々、本を読んだり、試したりしているが、難しい。
今までやってきた方法論と考え方をある程度、整理するために、自分の考えを書きながらまとめていこうと思う。
議論はしたくないが(ハイ、チキンです)、ご意見をいただけると嬉しい。
正直、純文学は俺自身よく分かっていないので、エンタメ小説の話という事を前提に読んでいただければ、と思う。
まず、物語のパターンに対する有名な言説として、『村上龍の「穴に落ちた主人公が、穴から這い上がる」「 穴に落ちた主人公が、穴の中で野たれ死ぬ」の2つしかない』というのがある。おそらく、これはエンタメ小説の基本形だと思う。「そもそも穴はどうしてできたのか?」「主人公は本当に穴の中にいるのか?」「そもそも主人公はなぜ主人公なのか?」のようなことを延々と逡巡するのが純文学かも知れない(純文学は読まないので、間違っていたらごめんなさい)。純文学は、(面白い/鋭い/ビビットな/より本質的な)問題提起自体が重要であって、それを読者に考えさせることが主題である……様な気がする。ただ、純文学の作者にせよ、物語の基本を踏まえたうえで、あえて外すからサマになるのであろう、とは思うが。
話を元に戻すと、エンタメ小説の基本を俺なりにさらに単純化させると、「主人公が問題を解決するか/しないか」であると思う(以前、増田の「5分で物語を作れるにようになるコツ(p://anond.hatelabo.jp/20091002081424)」が話題になっていたが、この増田の考え方はそれほど間違っていないと思う)。ただし、エンタメ小説は、エンターテイメントである以上、読者を楽しませなければいけない。問題が解決するにせよ、しないにせよ、きちんと納得の行くオチにすべきであろう。そうしないと、読者は満足感を得られないだろうし、満足度が低い店に行かなくなるように、ファンもまた離れていくと思う。
もちろん、将来のファン離れを心配する前に、やる事があるのではないのか?というのはごもっともな意見だと思うが、やはり、自分でも読んでいて面白い物語を書きたいし、途中まで書いていて、自分でも面白くないなあ、と思った事がたびたびあるのでその辺を考えていきたい。
では、面白さとは何か、という話になる訳だが、「主人公が問題を解決するか/しないか」に絞って下に挙げてみよう。
(1)基本的に、読者は「主人公が問題を解決するか/しないか」分からないから、ハラハラドキドキする。サスペンス性(→suspense 不安感。特に、映画や小説などで、観客や読者が危機的な場面にはらはらする感情)。あるいは、大抵のエンタメ小説の場合、「主人公が問題を解決してしまう(読者も基本的には楽しむために読むので、ハッピーエンドも望んでいるはず)」ので、どのように解決するのかという点が重要。
(2)問題設定の面白さ(舞台設定/キャラクター設定/問題の大きさと主人公の能力のバランスなど)。”奇(変わっている事)”であり、”妙(巧妙さ。全体のバランスも含めた緻密な設定)”なほど、評価が高いのではないか?ジャンルがSFやミステリの場合、いかに凝った問題設定と解法を用意するかがキモになると思われる。ただし、あまりにもぶっ飛びすぎていると、読者が感情移入できなくなる問題も発生するような。
(3)間口の広い感情移入の仕組み。感情移入できない主人公の小説というのは、エンタメ小説の”てい”をなしていないのではないだろうか。主人公に感情移入出来なければ、他人事と捉えられてしまい、熱中して読んでもらえなくなる。想定している読者になんらかの”共感”を持たせるような主人公を用意すべきではないだろうか?(例えば、何らかのコンプレックスを持たせる)
(4)展開のドラマチック性。(1)の”サスペンス性”にもつながってくる話だが、「読者が想定している期待度を超えるという意味で、予想を裏切る」展開が重要になるのではないか。展開が二転三転して、劇的な勝利(問題解決)をするというのが理想かも知れない。もちろん、より読者にドラマにのめり込んでもらうためには、(3)の”間口の広い感情移入の仕組み”が必要でないかと思われる。
つまり、教養小説(ビルドゥングスロマン)的側面。通過儀礼(イニシエーション)としての小説。これこれこういう理由で、彼は”強く””大人に”なったのさ、というお話としてのエンタメ小説。
また、面白さとは何か、を追求していくと、以下のような視点も考えられはしないだろうか?
(1)読者の想像力を喚起させる事
例えば、文章レベルで言えば、情景が浮かんでくること。読者に、痛み/恥ずかしさ/快感などの感覚を想起させ、リアリティを持って受け止めさせ、疑似体験させる事。”体験的なもの”として、読者に受け取ってもらえるか。文脈レベルで言えば、展開の読めない”不安”感、手に汗を握る”緊張”感、問題解決による”達成”感などを過去の展開の蓄積により実現しているか?
(2)読者の欲望を刺激する事
例えば、女の子の描画。ポルノでも萌えでも女の子のかわいらしさをどういう風に表現し、読者の想像力を喚起させるか。あるいは、食べ物の描画。うまそうな食べ物をうまそうに(文章で)描画できるか。カッコイ戦闘機をどう格好良く(文章で)描画できるか。外には、ファッションなど。粋なファッションを粋に表現できるか。読者が関心がある事柄に対して、いかに”幻想”を抱かせ、”欲望”を感じさせるか、という点。
(3)教養としての側面
さりげなく、”うんちく”を混ぜる。例えば、中世ファンタジー物だったら、朝食は貴族しか取れなかった事を説明しながら、朝食を要求する元貴族の商人の心理を読者に想像させるなど(ライトノベル「狼と香辛料」にそんなネタがあったはず)。個人的には、少々苦手。資料用に読んだ本で気に入った設定はメモっておくなどしているのだろうか?
(4)虚構と現実の境界性
例えば、伝奇ものの面白さ。現実の実在の人物(や場所?)がファンタジーで出てくるというハイブリット感。あるいは、2chのどこまでネタか分からない感というか。
(5)比喩表現の面白さ
暗喩と直喩。村上春樹は独特の比喩表現で有名になった訳だが。(1)の”読者の想像力を喚起させる事”や(2)の”読者の欲望を刺激する事”に密接に関わってくる。例えば、「彼女の組んだ腕の上には双丘が気持ちよさそうに並んでいる」の様な表現などはどうだろうか。
(6)気の利いた会話
最近流行りの会話劇だが、コントや漫才、ネット上のやりとりなど、トレンドの文脈をある程度押さえつつも(気に入ったネタはストックしておくべきか)、表面だけの真似に留まらないために、自分の言葉による体験的要素も問われるのではないか。
(7)説得力のある説教
ガンダムの富野氏の説教くらいに説得力がありつつ、面白い説教するためには、独自の価値観を持っている必要がある。大抵の人は人生経験を積めば、それなりの一言を持っているはず。一人の人間としての成熟性が問われる、のかも知れない。
(8)笑いの要素
ギャグ/ユーモア/パロディ/言葉遊びなど。個人的に苦手な要素である。自分の場合は、どうも野暮ったくなってしまう。センスや基礎教養が問われるからかも知れない。とにかく面白いと思う話を大量に読み、小話を書いたりして、自分にあったやり方を発見するしかないのではないか。自分の場合は、実にどうでも良い事を真剣に議論していく話がウケが良いようだ。
(9)恐怖の要素
笑いと恐怖は近いものがある、と言われている。(8)の”笑いの要素”がうまく書ける人は、恐怖もうまく書けるのではないか。これも個人的には苦手な要素だ。ホラー映画も苦手だし。単に読者のトラウマを刺激しても、嫌われるだけだろうし……。ただ、最近のトレンドにはこの要素が絡んでくる作品も多いのではないか。また、サスペンス性を上げるという面でも重要な要素であろう(ジェットコースターのようなスリルと快感の関係というか)。それから、演出技法としては(1)の”読者の想像力を喚起させる事”と関連性が高いと思う。スティーブン・キングなどを読んで勉強すべきかも。
(10)恋愛的な要素
いわゆる一つの萌え要素、と言う訳でもないが(ほら、スベった)、自分の中にある理想のヒロイン像を具現化して駆け引きを思考実験するという意味では、裸になって踊るようなものだと思う。慣れれば快感になるのかも知れない。ただ、個人的には最近、食傷気味。
(11)バイオレンス
闘争本能を刺激する要素。”読者の想像力を喚起”させ、重みのあるリアリティとして受け取ってもらえないと、単なる茶番になるような気がする。
……ひたすら要素を羅列してきたが、要するに、”読者の感情や価値観を揺さぶる”という点が重要なのかも知れない、と思った。
(文字による心理操作によって衝撃を与える、という意味では、詐欺師に近いものがあるというか。嘘をつくのがうまい人間がお話を作るのが上手、というのも頷ける。本来、エンターテイナーというのはそういうものなのかも知れないが。ヤクザな業界というか。現在最強の任天堂さえ。というか、任天堂こそが勝つべくして勝っている”名博打打ち”なのではないか。そもそも、経営という概念自体が(ry)
あと、話題になっている、うまい=面白いでない、という件について。
テクニックは描いた量に比例する(作品の)魅力は考えた量に比例する
物語の中だるみについて。
途中からなんだか間延びしている、なんだか乗れない、と感じたとき、物語の推進力が低下している。
主人公を追い込んだり、障害を増幅したりして、推進力を高める必要がある。すなわち障害やクリア条件を上げていくのである。
主人公は最後のゴールに簡単に到達してはいけない。ハードルが最初よりも下がってはいけない。敵が最初よりも弱くなってはいけない。
考えてみれば、続刊の出ない、あの小説やあの小説も、すでに、主人公を危機に陥れる「強い敵(難しい問題)」が取り除かれてしまったのではないか。あとは、シミュレーションゲームの終盤局面のように力押しで何とかなる状態というか。主人公がリアルに死ぬ/臨死体験するくらいの危機が常にある状態で、最後の最後で、”おおかた”の問題が片付くのが理想かも知れない。
文章力の磨き方。
基本かも知れないが、自分の好きな作家の文章を写す(タイプする)。良さが理解できない作家の文章を写しても多分、意味は無いと思う。文章を写すだけのヒマがない場合は、ラインを引きながら読むだけでも違うような気がした。逆に思ったのだが、好きな作家の文章をラインを引きながら読んでいると、作者の認識力の限界を見切る事がたまにある(例えば、そもそもの問題設定の矛盾とか、作者のルーツ(根源)はどこにあるとか)。その辺が大切なのではないか。また、好きな作家は最低二回読むべきかも知れない。
(Webより引用)
正しく見るためには二度見よ。
美しく見るためには一度しか見るな。
実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。
例えば医者コントってテーマを決めたら、オーソドックスな医者コントを、だーっと全部考える。
それだけでも充分おもしろいっていうネタにしておきつつ、更に松本がやった作業って言うのは、 部分部分で、どれだけ予想できる笑いを裏切るかって作業。確かにこれでもおもしろいけど、ここはこうやったらもっとおもしろい、こうやったらもっと裏切ってる…そういうのを延々繰り返していって、どれが一番ベストな裏切りかなぁってことを積み上げて、ネタを磨き上げていくんだって。
例えば、小説の創作手法にシミュレーション的手法を取り入れるということなのかも知れない。つまり、何回も思考実験を繰り返して、ドラマチックな展開のものだけを商品化する、という考え方。確かに、小説は元々、思考実験的な物を含んでいると思う。
その他。
「最初からフルスクラッチすると、効率が悪すぎる(1から作るのは大変であり、ベーマガのプログラムを改造しながらプログラミングを覚えていったように、まず改造する)」「問題を小さく切り刻む」「リファクタリング」的な要素を考えると、二次創作のSSをとにかく大量に書き、慣れてきたら、規模を増大させていく、徐々に設定も作り込んでいく、の様な方向になるのではないか。
まだよく分かっていない事。
あかほりさとるの新書に、「見たいシーンを書け」と書いてあったが、全く別のWeb上の指摘で、「最近のドラマは、脚本家が見たいシーンだけ繋げていった感じで、物語的な山場や整合性が軽視されているのではないか?」のようなものがあった。その辺の解決法。
文章の勉強以外であまり再読をした事がないので、よく分からない。
何かを創り出そうというタイプの人間には多かれ少なかれ、精神的な「欠損」があります。
その欠損を埋めようとするところから、何かをクリエイトしたいという欲望や欲求が生まれてくることが多いのです。
もちろんそれだけじゃないけど、そういうケースはしばしば見受けられます。
問題はその欠損をどこまで「普遍的なもの」にまで高めていけるかということだと思うんです。
中にはその欠損の欠損性にいつまでも拘泥しているという人もいます。
それでは本当の芸術にはなりませんよね。そのためには、人はもっと広く世界を見なくてはなりません。
人生は長期戦ですから、ゆっくりとしっかり息をしながら、前に進んでいってください。
まとまらないけど、以上。
補足。
(1)確かに、とりあえず、稚拙でも一作書き上げるという考えもありかも知れない。試してみるか……。
(2)色々本の紹介、ありがとうございます。
(3)Webからの引用元を書かないのに、他意はありません。面白いと思った文章は個人的にスクラップしているのですが(ローカルのメモ帳にコピペするだけ、のようなもの)、URLまでは保存していませんでした。申し訳ないです。
(4)確かに、あるパターンの繰り返しや場面転換の組み合わせというのは、あまり考えた事がなかったですね。なるほど。……少し見通しが立った感じです。ミクロレベルとマクロレベルの視点を重視しすぎて、中規模レベルのパターン認識がうまくいっていなかったようです。皆さん、ご意見ありがとうございました。(さらに追記すると、これは上に書いたあかほりさとるの新書の話にも繋がってきますね。それなりに問題意識を持っていたけれど、もう一押し足りませんでしたね>自分)
タイトルについて考えたのは、大学生になって友人によく人からなめられるがどうしたらいいか、と相談を受けたことがきっかけだった。
彼女は面白い人なので私は好きだが、いくつか欠点のようなものがあるのでいくつかアドバイスをした。
しかし、彼女にあなたは美人だから私の苦労は分からないと言われてしまった。彼女はブスでもなく美人でもないのだが。
それを聞いてなぜかものすごく腹が立ったのでその後いろいろと分析した。
私はもともと一人が好きなタイプだ。中高生の時に成績はいいが根暗と思われ嫌がらせを受けた経験からなめられないこと、軽んじられないことについて考えていた時期があっり、私は普段から身だしなみやあいさつ、まじめに結果を出すことを意識している。
当たり前のことばかりだが一人行動が多いとそれだけで根暗とかわけわからない人とか思われるので結構大事だったりする。
今はできるクールな人と思われている(と思う)。
つまり私は今まで自分がちゃんとしているから変な扱いを受けずに済んでいると思っていた。
しかし彼女はそれを私の顔のせい(おかげ?)にしているのである。
私は肌が弱く化粧があまりできないので顔はむしろハンデだと思っていた。かわいいもブスといわれたことはなく、褒められるときはなぜか整っている、というよくわからない表現をされる。
で、「容姿がいいから丁重に扱われるのか、能力が高いから丁重に扱われるのか」である。
私は後者だと思っていたが、彼女いわく前者である。これは周りの人間にしか分からないことだ。
もしかしたら私は前者であるかもしれないと考えると少しむなしくなってしまった。
私にとって誇れるものは努力した結果である能力であって、顔ではない。顔をほめられるのはいいが、顔は私の一部分でしかない。
結論としては、自分の努力の結果を生まれつきのもののおかげとされることはものすごくくやしいことだということ。
なんだか自分を全否定された気になってしまった。ひどくむなしい。
追記
予想以上にたくさん返事をもらえて驚きました。ありがとうございます。
彼女とは中学生の時に知り合い大学生になった今でもとても仲よくしています。この時非常に忙しく疲れていたのもあってかなりダメージを受けましたが、今回はただの逆切れだから気にしない、と思うことにしました。次があったらその時はちゃんと言えるようになりたいと思います。
コメントをくれた人が書いているように、努力は認められたり必ず成功するものではないとわかってはいるけども、主体的な判断を否定されるのは嫌なものです。仲のいい友達だと余計に嫌です。