はてなキーワード: 選挙カーとは
近所の十字路でやられて心底嫌になってやってしまったこと:
寝起きで半泣きのまま
「子どもがやっと寝たのにこの音のせいで起きちゃうんです・・・どうしてくれるんですか?」
と言ったら、謝られて退散してくれた
「夜勤終えて帰宅してやっと寝ようとした頃に活動するなんて・・・。選挙活動はそういった人たちの睡眠時間を邪魔するものですか?」
と言ったら、大体の住所をきかれ、そのあたりでは慎みます、と言ってくれ、しばらくは慎んでくれた
言ってみると良いと思う。
選挙活動、迷惑に思われたら向こうにとってもマイナスなはずだから多少はきいてくれると思う。
バイク乗ってるときに信号待ちなんかで選挙カーに遭遇したときの耳と頭の痛さといったらもうw
もっといい活動方法はないのかねぇ。
ふと思い出したこと。
歩道を歩いていると、選挙が近いらしく、選挙カーが止まっていた。
立候補者は聞き役に徹しており、おじいさんが熱心に話していた。
おじいさんは語り続ける。いかに日本がすばらしいか。日本人は凄いのだ。
立候補者は苦笑いしながら、うんうん、そうですね、と頷き続ける。
俺は、無関心に通り過ぎる。
やがて、話し声は聞こえなくなる。
しかし、年を取ると似たような行動パターンになるな。
新聞の投稿欄で、熱心に世を憂うのは老人ばかりだ。
ある講演の質問タイムに、大演説をして講演者を苦笑いさせたおじいさんも思い出す。
不幸な男はナショナリズムに、不幸な女はスピリチュアルに走るという。
では、基本的に、老人であることは不幸なことなのだろう。
身近なところで自分が必要とされない不安が、世間への憂いにつながっているのかも知れない。
しかし、個人主義的唯物論的左翼思想みたいなものを語る知識人やエリートもやはり、どこか変だ。
違和感の中心にある物が、彼らの自分達の幸福に対する無自覚さなのか、彼らが自分達の幸福を維持するために
地位を活かしてその思想を広げるスタンスなのか、その両方かはともかく、彼らが自らの地位を維持するということは、
エリートカーストの維持であり、自分達に従う人々を敗北者のままでいさせるということだと思う。
若者も良い。自分に無限の未来が広がっているという錯覚も重要だろうから。
でも、構造的に全員が自分のようになれないということを知りながら、その思想を押しつけるのは欺瞞だと思う。
じゃあ、全員が幸福になれる道ってないじゃん!とは、多分、その通りで、心のケアとしての
ナショナリズムやスピリチュアルをある程度、適量を保って、検証しながら活用しつつ、
なんとかかんとか皆で生きていくしかないのではないか・・・。
おそらく、政治を熱心に語るおじいさん達は、日本人に生まれたことを誇りに思いながら死にたいのではないだろうか?
線香の匂いを漂わせているおばあさん達は、何を思って仏壇を拝むのだろうか?
自分が失敗した人生を送った場合、どんな思いを抱いて死にたいか。
最悪の状態に自分が耐えられるかどうか考えつつ、社会を設計するみたいな考え方があったけれど、これから、
その辺りを考えることが流行るかもな-、と何となく思った。
一番はやはり自分の部屋なんだろうが,時々,選挙カーが走り回っていたり,
近くで家を建てていたり,工事していたりすると,神経質な私は集中できなくなってしまう.
ヘッドホン(私は耳が痛くなるからイヤホンだけれど)して音楽かけても,
それが気になって駄目.Jazz とか Classic ならともかく,歌を聞きながらは無理.
そうすると外に出ざるを得ないのだけれど,どこへ行けばいいだろう…
色々探してみたのだけれど,自分に会う場所がなかなか見つからない.
図書館は周囲が静か過ぎて,ページをめくる音やひそひそ声等が
逆に気になってしまう.時々,子どもが大声出すしな.ファーストフード・ファミレスは
お喋り目的の人たちが多くて無理.あとこれらは広すぎて駄目.小規模で隠れ家的な場所がいい.
喫茶店・カフェや夜はともかく日中はファミレスと同じでうるさい.
客の少ない飲食店は,かかっている曲が気にならなければ意外と落ち着けるけど,長居しづらい.
それに,あえて美味しくないもの食べに行くのもなんだかな.
電車の中は混雑時でなく,騒いでる学生がいなければ,かなり落ち着ける.
椅子のクッションも丁度いい硬さで,不思議とアナウンスとかが気にならない.
ただ,今の生活では滅多に利用しない.電車って.ある駅で次の駅までの切符かって
そのまま終点まで行って,改札に行かずにそのまま逆行の電車に乗換えて戻り,
切符を買った行き先の駅まで戻ったら,それで通ってしまうんだろうか?違反だよね.
廃車になる電車とかを読書空間として開放したら,いいのにと思ったことがある.
コインランドリーで洗濯や乾燥機使っている振りして本読んでいたらどうだろう?
場所によっては冷暖房かけてあるし,長時間開いてるからな.でも試したことがない.
あと車の中もいいな.大型スーパーやショッピングモールの駐車場の一番遠い所のに止めて
陽が陰るまで車内で読み続けるとか.そんな遠くに止める人はまずいないから
平日ならまず誰も来ないし,来ても誰かを迎えに来て待っているんだろうと思われる.
気分転換に場所変えてもいい.腹減ったら店内に飲食に行ける.ただし夏は暑いから厳禁.
今まで考えたり,やってみたのはそれぐらいか.
今のところ,車の中が一番だな.他にもっといい場所か方法ないだろうか?
別に全然勘違いしてないが?
それとも業界団体労働組合宗教団体の支持者はろくに考えてない人ばかりだけど、無党派はマスコミの報道やブームに流されずに考えて投票してる人ばかりだといいたいのか?
業界団体・労働組合・宗教団体の支持者はろくに考えてない馬鹿ばっかりだな。
「無党派」層とやらはどちらかといえばマスコミの報道やブームに『流される馬鹿』ばっかりじゃねーか?
違うのか?
少なくとも地元で選挙戦たたかってる議員の話を生で聞くくらいのことしないで「考えてる」って言えんのか?
それによく考えた上で棄権する人だっているはずだ。
でた。
オレはこれがイチバンだめだと思ってる考え方だ。「良心的棄権」論な。
こういうこと言う奴は、口を揃えて言うよな。「投票すべき政治家がいない/政党がない」「マスコミの情報はあてにならない」「不完全な情報で一票を投じることは踊らされて誰かの利益になるんじゃないか」「だから投票しないことがオレの良心に基づく唯一の選択だ」とな。
アホか。
まず「すべき政治家がいない、政党がない」というなら、立候補すべきだ。自分が一票を委ねるべき政治家が本当にいないと思うなら。それが議会制(代表制)民主主義における原則だ。だから基本的に立候補は広く開かれている。けど、まあそんなのはダダこねてるだけだろう?要は。そんなこと言う奴で、本当にいかなる候補者とも異なる画期的で素晴らしい政策を持ってる奴というのは、外山恒一以外では見たことがないな。まあ彼は立候補するわけで、その辺筋を通しているのは偉いと思う。まあ彼の場合は「選挙」という制度を利用して街宣活動の合法化をはかってるという部分もあるわけだが、その程度の小悪は選挙制度を尊重する彼の善の前ではかすむ。
次に「情報が不完全」云々の言い訳だが、「投票しない」なら無罪だと本気で思ってるから批判してるんだ。「投票しない」じゃなくて「棄権する」だ。それは一つの意志行動だ。それも「選挙を否定する」という意志行動だ。棄権することで「選挙を否定する」という選択と主張をしていることを自覚しろ、と、オレはただそう言ってるだけだ。そこに強く反発するのは、本当のところ自分でも分かっているからなんじゃないのか。自分らのやってることが反社会的な行動だということを。
投票しないこと、『組織票を有利にすることを否定』するのは、別に創価憎しという話じゃない。宗教団体に限らず労組系でもそうだし、そもそも自民についてもそれは問題な点だ。結局の所人員をかけて、選挙カーでやたら名前だけ連呼したり忙しい時間に電話かけまくるといった迷惑なだけの行為を『選挙活動』とかみなしてる馬鹿馬鹿しい風景全てが、とにかくオレは嫌で嫌で仕方ないんだ。考えずに投票する奴は勿論論外にダメだ。だが、考えずに投票しちゃう奴に「投票するな」というのは無理だ(そりゃ選挙妨害だし他人の権利を否定することになるからな)。だからせめて投票出来る奴は考えて投票しろ、と言ってる。一票の価値を相対的に下げるためにも、だ。
「迷惑だから投票しない」じゃない。「投票しないことこそが迷惑」なんだ。
いいか、無人島で考えてみるぞ。
漂着した10人がみんなで「選挙でリーダー決めてまとまって動こうぜ」と決めました。誰も特別すごい人がいない中で、でも誰か代表を決めないと何も決まらないと思ったからです。怪しい二人組が「自分たちは別にやらせて貰いたい」と言いましたが、『固まっていないとみんな助からない、だからまとまっていなくちゃ』という意見が多数を占めて、選挙することになったのです。
ところが一人が言いました「オレ今日熱っぽいし、考えるのメンドくせー、つーか別に誰がリーダーでもいいすわ」。周囲は、まあこういう奴だし仕方ないなと思いつつ9人の投票でリーダーを決めました。
ところが、彼は一人部屋にこもってグチグチ言っていたのです。「○○は暗いし××は顔が悪い、□□はリーダーって器じゃねーよなー」…それを聞いた仲間が言いました。「んじゃお前がリーダーやれって」彼は言います「それは無理」。
そのうち、彼は周りに言い始めます。「オレもオレなりに考えて投票とかしないわけよ。」それに賛同する人が一人、二人、と出始め、あるときの選挙は投票したのが4人になりました。Aに1票Bに1票、そしてたった二人で周囲と交わらなかった二人組の片方が二票を集めてリーダーになりました。彼は「俺たち二人は別でやる」案を主張し始めました。他の人は「なんだそれ」「つーか、こんな選挙意味ねーだろ!」とブチキレました。「だって投票したの4人だけだぜ!こいつら二人が組めばどーしよーもねーだろ。つーか投票しねえお前ら、何考えてんのよ?!」最初に投票をやめた彼を含めて、誰も何も言いません。『誰かなんとかしてくれるだろう』と思っていたから。
…結果、集団はバラバラになり、あっという間に全員遭難してしまいました。
(おしまい)
なあ、この話を読んで、それでも「良心的投票拒否」なんていうおとぎ話が存在しうると思うかい?
というわけで、関係大ありだ。
白い霊です。日本兵のようにも見えます。じっと立っています。日本兵ですから見張っているのかもしれません。あちこちに立っています。私の椅子の横にも立っていますが、私の部屋にはその一人しかいません。外は白い霊でいっぱいです。日本兵かもしれません。みんな手と足がありません。消えかかったまま立っています。しかし危険はありません。彼らは安全です。ただ立っているだけです。彼らがなにをしたいのかは私にはよくわかりませんが、兵士ですからたぶんなにかを見張っているのだと思います。天皇陛下も白い霊になってしまいました。しかし目だけ残りました。その目は私を見ています。見張っているのかもしれません。でも悪意は感じません。天皇皇后両陛下の目は私をじっと見ています。身体は白い霊になってしまいました。天皇陛下が白くなってしまったので、この国はもう白い日本です。地球も白くなってしまいました。恐ろしい白地球です。大変なことです。白地球をなんとかしなければなりません。でも私の力ではなんともできません。ごめんなさい。本当にごめんなさい。白地球は偽物なので早く本物の地球に戻さなければなりませんが、私にはそれはできません。オトタチが耳から入ってきます。オトタチが追いかけてくるので私はじっとしていなければならないのです。オトタチは私の周りをぐるぐると回っています。私を狙っているのです。オトタチが中に入ってきますが、オトタチには形がないので、パンクすることはありません。オトタチはぐるぐると回っているだけです。
http://anond.hatelabo.jp/20080404073011 の続きで、内田樹教授のプリンスホテル批判について。
http://blog.tatsuru.com/2008/04/03_1313.php
プリンスホテルの例にしても、靖国の映画の件にしても、言論の自由が脅かされたのは事実。
何故? 右翼だか国粋主義者だかが騒いで、それによって損害を蒙ることが予想されたから。
なぜヤクザまがいの連中の圧力を恐れなければならないか? 彼らが騒いでも警察が摘発できないからだ。
何故摘発できないか? 今の彼らの行動が現行法に照らして違法とはいえないから。
何故法整備をしない? 彼らの行動が政治活動として分類される(されうる)以上、その摘発には慎重を期さざるをえないからだ。
内容を聞いてれば分かる? そうは言っても警察が「政治活動」の内容を勝手に判断して差別できるわけがない。
言論の自由が脅かされたのは社会の問題だ。彼らの行動を掣肘できないのにはそれなりの訳があり、そのせいで日教組もプリンスホテルも迷惑している。で、そこでなんでプリンスホテルが非難されるのかがさっぱり分からない。いつから一営利企業は自らの損害も省みず言論やら集会やらの自由のために戦わないといけなくなったんだ?誰が、どんな資格で彼らにそれを強制できる?もし法人にそんな義務があるなら、我々個人も目の前で街宣車が軍歌を鳴らしていたら敢然と立ち向かわないといけないのか?
刃物を持ったバカが目の前に現れたら一目散に逃げるのが正解。もしかしたらそのせいで逃げ後れた別の人が怪我をしたり殺されたりするかもしれない。でも悪いのは逃げた彼じゃない。そういうバカを放置し、適切なタイミングで排除できなかった警察の責任。それが出来るだけの予算と権限を警察に与えなかった政府の責任。そしてそんな政府を選んだ我々の責任だ。それを、"刃物を持ったバカを放置してはいけません。社会のために敢然と立ち向かいましょう"などと臆面もなくいえる人間の神経は理解を超える。
前から思ってたけど、日本人は社会の問題を一個人(法人)に還元し過ぎる。そうして社会問題への対処がどんどん遅れていく。医療崩壊なんていい例だろ?明らかに個人の努力で解決可能な水準を越えてしまっているのに、この後に及んでも"医者がもっと頑張らないといけない"などと言っている人間がどれだけいるか。そうやって社会全体のマクロな問題から目をそらし続けるから、問題がどんどん悪化するんだろうが。
今社会問題として考えなければならないのは、声ばかり大きくておつむの小さい国粋主義者のせいで日本全体の言論の自由が脅かされているという問題をどう解決するか、だ。主義主張にかかわらず、騒音を出す輩はまとめてブタ箱、でいいのか?(選挙カーや辻立ちの政治家だって例外じゃない。個人的には、日本の政治家一般の出す騒音は他国と比べて度を越して大きいので、この際一律規制しろと思うのだが)。それとも、警察が恣意的に"いい騒音と悪い騒音"を判別して良いのか?バカを速やかに確保できるだけの警察予算、そのための増税を甘受できるのか?
社会にはバカが一定数混ざる。それをすべて取り除こうとすればさまざまなコストがかかる(犯罪者を確実にとらえようとすれば、監視カメラを随所に設置する必要だって出てくるし、監視カメラがいやならマンパワーに頼らないといけない=人件費ウナギ登り)。今問題とすべきは、言論の自由を守るために"我々が"どれだけのコストを呑めるか、であって、プリンスホテルがどれだけの頑張るべきか、じゃない。プリンスホテルを非難して事足れりとしている人間が入るなら、自分の行為がただの責任転嫁に過ぎないことを自覚すべきだ。
「選挙カーちゃん」の場合
恋人を作る気がない男友達をぶつける。
「選挙カーちゃん。ちがうの。実は……あなたの事相談されてたの……」
男友達と買い物を装い選挙カーさんとばったり。そして、そこに彼がばったり。
「おまえ……どういう関係だ?」「ちっ、ちがうの」
二人の前で口論する二人。しかし、ないて謝るあなたに彼も涙して許す。
……、あれだな、エロゲのやりすぎだな。
好きでトラブル呼んでるんじゃないよぉ。人生に退屈しないように生きてるだけだよ。うわー痛い。
楽しいからもうちょっとひっかきまわしてみるか。
自分、いま21で大学三年なんだけどさ。
どっちもオタクだし欲しいものはコミケか秋葉原かにあるんだよね。で、ふたりで秋葉原行くじゃん。
ラジオ会館(私の趣味)とか裏通りのパソコン屋(恋人の趣味)とかふらふらしたあと、
お気に入りのメイド喫茶とか行くわけ。
「秋葉原にカップルで来るんじゃない」とか言われても、好きでオタクやってるんだから仕方ないじゃん。
で。
「どうせてめぇアキバいきてぇんだろ来いやwwwwwwwww」みたいなノリで、男女問わずオタクをばんばん召還する。
で、先日男友達(共通の友達)とふたりで秋葉原に行ってたのが、恋人の知り合いに見られたらしいんだよね。
ここから話の展開は超分かりやすくなって、そいつが選挙カーよろしく
「あのふたり浮気してるんだって」みたいなバカ丸出しのこと広めて仲間内では微塵も相手されなくて、
(ちょっとごたごたがあって「私(これ書いてる人のこと)をできるだけひとりにしないようにしよう」という流れがある)
で、しょうがなくその選挙カーは私と恋人が付き合っていることを知ってるだけのほかの人にも
そのことを広め始めたんだよね。
で、順調に噂は広まってる。
どうしたらいいんだろう。別にどうする気もないんだけどさ。
でも秋葉原行くときにひとりだとウザオタに声かけられるし(うるせぇ私は海洋堂の造形を堪能したいんだ)
最悪秋葉原出るまでついてこられるし(ピカチュウバージョンのピカチュウかおのれは)、
女の子二人連れだと似たような結果を生むし(秋葉原は趣味の街なんだから女とかどうでもいいはずのところだろうが。てめぇ趣味に対してどんだけ不誠実なんだ殺すぞ。)
どちにしろ居るだけでいいからボディガードと荷物もちは必要なんだよね。
選挙カーはシメたけど噂は広まるし、何よりふたりで出かけた男友達の恋路…… あるのかないのか分からんが間男呼ばわりはかわいそうだ。
どうしたらいいんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20071006044748
この国は政治家が率先して騒音振りまいてるんだからお手上げですよ。
と書いたところで逆に思ったんだけど、まず選挙カーにノーと言うところから始めれば、あとは連鎖的に静かになっていくんじゃ?
五十万トンのマンモス・タンカーだって、瞼を閉じるだけで消してしまえるが、一匹の蚊の羽音からはなかなか逃げ切れない。
安部公房「密会」より
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071005it01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071005it01.htm
このブックマークのコメント欄を読んでいてとても不安になったので、ちょっと書きます。
なにが不安なのか?
音にまつわることに関して、良いとか悪い以前に問題ですらない、そんなことを問題にするのは異常だと一部で思われていそうなことが不安。
ちょっとオーバーに書くとこんな所だろうか。
「なにが悪いの?」
「こんなことで文句いうなんて頭おかしいんじゃないの?」
「神経質。きちがい。」
「子供たちがせっかく楽しく遊んでいるのにその音が良いとか悪いとか問うこと自体が異常。」
「がまんしろバカ。」
「出て行け!引っ越せ!!」
ぼくはこの新聞記事を読んで正直言ってとてもホッとした。
数年前、呉智英氏が防災無線から流れる音楽によって、静かな生活を送る権利を侵害されたと地元の自治体に放送の差し止めを求めた訴訟を起こしたのだが、
あっさり敗訴してしまった。
予想された判決とはいえ、その事があってから、もうこの日本で少しでも静かな生活を求めるのは不可能に近い事だと思い知ったからだ。
防災無線から流れる音楽というのは、毎日夕方になるとドボルザークの曲(遠き山に日は落ちて)を大音響の電子音で流す例のあれだ。
おそらく日本中のあちこちで曲目こそ違えど、同じことが起こっているだろう。
この音楽は子供たちの安全のために帰宅時間を知らせる大切な役割を担っているそうである。
そう「子供たちのため」だ。
「子供たちのため」「防災のため」と言われれば誰だってとても反対しにくい。
言う方は善い事をしているつもりなのでまさか自分の正義を疑われるなど許される事ではない。
だが、ある人にとって心地よい音楽が、大きな音量だと他人にとって騒音になるのと同様、子供たちのかわいい歓声も度を超せば当然騒音になりうる。
冷静に考えれば、場合によっては子供たちの歓声も音の暴力となりうるという事は、それほど理解が得られにくいという事は無いだろう。
(もちろんこの記事のケースが本当に耐えられないほどの騒音であったかどうかは現場を知る人にしか分からない事なのだが。)
しかし実は「子供のため」という事と「音」の問題は、切り離して考えなければいけないだろう。
もはやこの東京では不可能に近い、青臭い理想論で申し訳ないが、やはり子供たちの遊び場の確保はきちんとした都市計画によって解決するべきで、
子供たちの遊び場を守る事、と、近隣住民の静かな生活を守る事は、本来両立できるように努力するべき事だからだ。
ましてや防災無線のドボルザークなど、呉氏の件でも指摘されていたように子供たちが遅くまで塾に通う昨今にあってはなんの意味も無いし、
情操教育上、悪影響すら与えかねないだろう。
では「音」に関して。
ある音に対してそれがうるさいと思うかどうかを論じるのは難しい。
同じ音でも人によって感じ方が違うのは当然であるし、場合によっては同じ人物でも状況によっては全く同じ音が快にも不快にもなってしまうものだからだ。
しかも、ともすれば
「おれは貴様ら田舎者と違って音に対して敏感なんだよ。もっと気を使えよこのアホ愚民ども。」
「へぇへぇ、どうせあっしらは音に対して鈍感ですよ。ご立派なこったい。そんな気になるんなら、あんた様ここから出ていっちゃどうだい?」
などという不毛なやり取りになってしまいかねず、らちがあかない。
ではそんな面倒な事そもそも話題にするなよ、なぜことさら取り上げなきゃいけないのか、というとひとえに「音からは逃げられない」からだ。
冒頭の引用の通りである。
耳栓は緊急避難としてはもってこいかもしれない。しかし常時耳に詰め物をするのはつらいだろうし、強力な耳栓だと必要な音も聞こえなくなってしまう。
ちゃんとした効果のある防音工事というのはとても費用がかかり、おいそれとできるものではない。(それでも深刻な場合は考えるべきだろうが。)
このような消極的な対策よりは、何か音を発する前に、その音が本当に必要なのかどうかをまず良く考える事が大切ではないだろうか。
音を鳴らすか鳴らさないかどちらか選択肢がある場合に、迷わず音を鳴らす方を、少なくとも今の日本では選択しがちなのではないか。
などなど
これらの音は多数の人にとって騒音と認められる。対策をとれるかとれないかは別として、苦情申し立てをしても不審がられる事は無いだろう。
ほとんどが個人の力では解決不可能な問題であり、自治体など全体で取り組まなければ解決しない問題だ。
これらの音は相手が善意で行っている「悪意の無い音の暴力」。
これらの音を本当に発する必要があるのかどうか、ぼくたちは個人個人もっと真剣に考えなければいけないのではないだろうか。
さて、問題提起ばかりグチグチしていても仕方が無い。
ほんの少しでも音に注意を払うようになるにはどうすれば良いだろうか。
彼はランドスケープ(風景)に対して「サウンド・スケープ(音の風景)」という概念を提唱している。
これは我々をとりまく音の環境を、景観問題などと同じくきちんと観察、考察し、デザインしていこうというものだ。
彼は子供の音楽教育についての著書もあって、その中にこのようなゲームがある。
「しばらくの間、静かに目を閉じ、周りの音を聴く、そして聴こえた音を紙に書き出す。書いたものを友達と見せ合いっこする。」
とてもシンプルなゲームだが、周りの音に注意を向ける訓練にはもってこいだと思う。
例えば電車を待っている間、仕事の合間にできた手持ち無沙汰なちょっとした空き時間などにこのゲームを試してみよう。
もちろん一人でやっていいし、紙に書き出さなくてもいろいろな音が聴こえる事を確認するだけでもいいと思う。
子供さんのいる方はぜひ一緒にやってみてほしい。
そのうちそんなに意識しなくてもふっと周りの音を聴く習慣ができればしめたものだ。
こんな事で騒音問題は解決するわけないが、少しでも音に対して注意深くなるためには、まず身の周りの音を聴く事から始めるしかないだろう。
10年後に日本はどんな国?って聞かれたら「音のない国」と言われそうだ
というコメントがあったが、安心していいと思う。この音のあふれかえる日本が静かになることなど、少なくとも近い将来絶対にないだろう。
このコメントを書いた方はとても静かな場所に住んでおられるのだろうか。皮肉などではなく素直に本当にうらやましいと思う。
ぼくは科学博物館に行くのが好きなのだが、先日まで行われていた「インカ・マヤ・アステカ」展では展示に合わせて効果音や民族音楽の類が館内に流されていた。
どれもとってつけたような音や音楽で、展示物に比較して余りに稚拙な効果音やBGMには苦笑するしかなかった。このような乱暴な音の演出は今回の展示に限った事ではない。
だが国立のこのような施設でも音に対しての感覚は田舎のひどい観光地と基本的に変わらないのではないかと思う。
美術館でもこのようなひどい例がある。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1051714554/967-
通常、静かにすべきと言っても不審がられないであろう美術館や博物館ですら、このように音であふれている。
その音が本当に必要かどうか、もし必要無かったら出さない努力をどうかお願いできないか。減らす努力はできないか。
繰り返しになるが、音からは容易に逃げられないのだ。
さてキモい新聞の社説を下手糞にしたような文章を長々と書いて申し訳ない。なんだかとりとめのない内容になってしまった。
これを読んでくれた方が、もしほんの少しでも今まで気にしていなかった音を気にしてくれるようになったら、ぼくはとてもうれしいです。
そして今、悪意の無い音の暴力に苦しんでいる人へ。
「あきらめろ。この問題は絶対解決なんかしない。文句があるならとっとと日本から出ていけ!!」
自分の名前をひたすら連呼する候補者には投票したくないという人を見るけれど、
じゃあその人たち以外のどの人に投票するんだろう。まだまだ沢山候補者はいるしなあ。
ということを考えていると、昨日行き帰りに面白い候補者を見かけた。
一人目は、電車に乗った時に見た候補者。駅前で「行ってらっしゃいませ!!」ではなく、電車の中。
もちろん電車の中に候補者がいるわけがなく、どうしてたかというと、電車に手を振って見送ってた。
まだ電車の速度の遅い駅近くで、工事現場の白い鉄板の壁をバックにして、ただ淡々と手を振っていた。
選挙カーも、支援者も、のぼりすら回りに見当たらない。たすきだけが、彼を候補者だと言っていた。
たった一人で手を振って、ほどなく視界から消えていった。恐らく後ろの方の車両からは見えもしない。
俺のいた車両でもほとんど気づかれていない様子だった。そんな候補者を見た。
二人目は、駅から出る時に見た候補者。彼は、駅前で「おかえりなさいませ!!」の定番パターンだった。
だが、時間は既に夜の10時前。当然マイクを使えるはずも無く、肉声。
駅の出口はシネコンと直結している歩道橋で、利用者がとても多いため広い。
彼はその広い出口の隅っこでおかえりなさいませと言い続け、メトロノームのように頭を上げ下げしていた。
声はとっくに枯れてしまった様子で、彼にも支援者は一人もついていなかった。
その枯れた声は小さく、駅の出口は広いため、彼に気づかずに素通りした人も多いだろう。そんな候補者を見た。
彼らのそれは戦略だったのかもしれない。どうせ電車の中には声は届かないのだから、
支援者はたくさんついていても意味が無いかもしれないし、枯れた声は演技だったりするかもしれない。
情に訴えかけるような部分は計算づくなのだろうとは俺も思うし、そもそもこういう手法自体、
しかし、彼らがたった一人でそこに立ち、うるさくない方法で有権者に訴えかけたのは事実だ。
たすきの氏名を読み取ろうと思ったときにはすでに彼が後方遥か彼方だったり、
あまりに声が枯れているため彼の名前がよく聞き取れなかったりしたことを少し悔やんだ。