はてなキーワード: 朝鮮とは
パチンコ屋さんの前には自転車や車が何台も止まっていて、大学生なのかフリーターなのか分からない青年や、「会社どうしたの?」というサラリーマン、年金暮らしであろうと思われるおじいちゃん・おばあちゃんなど、沢山の人が通い詰めているのを見掛けます。
僕が社会人になりたての頃、友達に誘われてパチンコを始めました。
何回かやっている内に味を締めたのか、起きたらパチンコ屋にいた…というような末期に近い状態に。
何を言ってるのか分からないかと思いますが、これはノンフィクション・事実であり…それほどにハマっていたのです。
・調子が悪いと¥5,000が10分で溶ける、スロットなら更に加速
・友人からの『勝ったら奢る』という謎の押し付け
・友人が給料・ボーナスを突っ込んでいるにも関わらず負け続けている
・負けが込むとストレスが溜まり、顔が歪む
・タバコの煙が凄く、空調・清掃が追いついていない為、気持ち悪くなる・臭い
・他人の当たりを嫉み、心が荒んでゆくのがハッキリと感じ取れる
暇潰しにもなるし、トータルで20万ぐらいは儲かっていたのですが、これらの要素で僕は辞めることに至った訳です。
今考えると、何故ハマっていたのか…?
派手な演出・当たった時の爽快感など思い当たる節はありますが、あそこまで熱中していた理由は明確には思い出せません。
でも、ハマるってことは楽しいと感じてたってことなんですよね。
仕事では上司やお客さんとのコミュニケーションに疲れ、東京には友達はおらず、特に趣味も無く、相思相愛な相手もいない為、今の生活にはさほど刺激がありません。
目から生気が消えてるような、頬が数年つりあがってないかのような、気がします。
皆、何して毎日過ごしてるのでしょうか?
水商売やクラブなど、夜遊びの刺激に逃げるのは、この年になったらダメと思ってるのですが(そもそも先立つものが無い)、どうして良いか分かりません。
没頭できる何かが欲しい。
でも他の国にもいい所はいっぱいあるわけだよ。嫌いな韓国や中国でもさ。
それを嫌うだけで認めないっていうのは、どーも格好悪いっつーか…建設的じゃないと思うんだ。
そういう人たちは、認めない、とは言わない。そこがプライドなのだろうか。
でも嫌いな国のいい部分、そういうものを認識しようとしない。
相手の悪い所は悪い、いい所は認めて吸収する。そういうの、なくなっちゃったの?
そういうのが日本人のいい所というか…少なくとも俺は教えられなくともそうあるべきと育ってきた。
むしろムカツクからこそ、いい所を見つけてよりよいものを提示してやる、
というのが日本なりの仕返しの仕方だと思うんだよ。
いやま、そういう人、一握りなのかもしんない。2ch見すぎたのかも。
どーも視野狭窄というか…脊髄反射で否定してる奴とか目に付くようになって。
他の国のこと、パクリパクリ言うけどさ。いやパクリはよくねーけど。
でも昔は日本も猿真似ってよく言われてたの、今の若い人は知らないんだろな…
何が言いたいかって言うとさ。
他人を蔑んだり、認めないままでいて、気がついたら追い抜かれてたなんてのはイヤだなってこと。
よくも悪くも、真似することは技術を身につける上で近道だもの。
中国の高速鉄道とかをみてると、うかうかしてられないぞって思う。
gingin1234さん、何を言いたいのかよくわからないよ!w
俺はゲイでもホモでもないし、ましてや肛門愛者などでは全くないのだが、それでも日本に置ける『アナル』という言葉の浸透具合には正直非常に興味がある。『anal』とは英語で『肛門の』『けつの穴の』という意味の言葉で形容詞だ。名詞などではない。『肛門』を意味する名詞は『anus』つまり『アヌス』という言葉だが、こちらよりも『アナル』の方を使っている肛門愛者の方が多い。例えば『アナルセックス』という言葉はそのまま『肛門の性交』という意味で通るのだが、『アナル最高!』という文章は『けつの穴の最高!』という文章になってしまい意味が通らない。文法的には全くおかしいはずの使われ方をされているのだが、その違和感を指摘する人間はあまりいない。その理由は、『アヌス』よりも『アナル』という言葉の方が、日本語の語幹的に非常に使いやすいからだろう。まず『アナル』という発音の中に『穴』という、肛門を如実に連想させる文字が含まれているということ。次に『アナル』という言葉の響きが、日本語の動詞に比較的多い『○○る』の形になっていること。次に肛門愛者にとって『穴』+動詞の形が、『穴に対して何かをやる』という意味を連想させて非常に使いやすかったということがあげられるだろう。対して『アヌス』という言葉は、『アナル』に置ける活用語尾の『~~る』の部分が『~~す』になっており、旧文体のような印象を受ける。「我、致す!」みたいな。「我、主(ヌス)の穴に致す(ス)!」みたいな。非常にとっつきにくい。そのようなイメージもあってだろうか、名詞の『アヌス』よりも、形容動詞の『アナル』が市民権を獲得してしまうという珍現象が起こってしまったのだ。しかし考えてみれば、日本だけではない。確かに日本は『マシン』を『ミシン』にしてしまったが、形の良さに惹かれて『朝鮮』という漢字をタトゥーを入れてしまったアメリカ人もいる。こういったクレオール文化はどこの国にもあるんだろうね、きっと。しかし何で僕はこんなに肛門のことが気になるのか。肛門性格だからかな?
って事になるだろ。
俺自身も二十歳で若者の部類だが、15歳くらいで既に国の情勢について調べ尽くしてたよ。
とんだ中二病だな。
ネットで見ただけ、新聞読んだだけで、「調べ尽くしてた。」かよ。
そのうち、「コミンテルの陰謀が」とか田母神見たいなこと言い出すの?
最近では新潟を中国領にすることをアホな市民の概が賛成してるとか何とか。
奴らもラストスパートを掛けてきた。もう如何することも出来ない。
既に言い出してたな。スマン。
ここと2chを見ていれば、自分の住んでる国に一切の興味が無いことが解るな。
「こうこうこうすれば国が良い方向に傾く」という発言に対して、若者は真逆の左翼発言ばかり。
どういう年齢層なのかは言動を見れば解る。
俺自身も二十歳で若者の部類だが、15歳くらいで既に国の情勢について調べ尽くしてたよ。
その上で政治問題を議論してたが、若者から一切まともな発言を受けたことが無い。
手当たり次第にネトウヨネトウヨとだけ言われて話にならなかった。
とりあえずそう言っておけば合理的な発言をしなくても論破になると思い込んでいたんだろう。
右翼の意味も知らないで、ネットで良く使われているからという理由で煽りに使い出したんだろう。
ゆとりという言葉に過剰反応する輩は自分が使う言葉の意味すら調べないからな。
そんなのが俺と同じ年代、俺よりも上の年代で凄く恥ずかしく思う。
初めは「この歳でこんなこと言ってるのか?」と愕然とした。
国の情勢なんか一切見ようとしないでネットで遊んで、合間に中傷活動をしてるだけだなんてな。
そりゃあ庶民アピールしてるだけのアホを支持しちゃうわけだ。
小沢(創価)がやってきたこと、やろうとしてることすら知らないで暢気に遊んでるんだろう。
国民も国造りに参加しているという自覚がまるで無い。
そんな若者ばかりで国が良い方向に傾くわけが無い。
言うのも恥ずかしいくらいの必然だろう。
俺達はいつまでも何も知らないガキのままじゃ居られないんだよ。
これから奴らが生み落としていった最悪の塊を背負って生きて行かなきゃならない。
俺らの世代が緩和して、次の世代にバトンタッチしなくちゃならない。
だがもう遅い。国の為に一切思考をしようとしない若者が概を占めている現状、既に手遅れだ。
ネット、アニメ、漫画、ゲームで楽しいものばかりを沢山見て、親に人生のレールに乗せてもらってる時点で現実なんか見られるわけがない。
最近では新潟を中国領にすることをアホな市民の概が賛成してるとか何とか。
奴らもラストスパートを掛けてきた。もう如何することも出来ない。
現を抜かしてないで全員が国の為に動いていたら日本を取り戻せていたかも知れないな。
それで自分の居場所を失えば理不尽な発言をまた繰り返すんだろう。
当然の報いだ。文句を垂れる資格は無い。
横から失礼します。
異国で外人ムラを作ると、ムラの中で安息を得られる代わりに
ムラ自体が土着のコミュニティと乖離してしまい、軋轢や衝突を産みます。
これは日本だけの話じゃないでしょう。
その国に同化しないで小ユダヤやチャイナタウンを作りたがるからだし
外国で日本人だけ固まってれば、日本人だって外人から嫌われます。
要するに、「同じ国に住む」って前提が間違ってるんですよ。
国籍を捨てず、別の言語で教育して、そいつ等だけで寄り集まってる状態は、
文化的には別の国に住んでるのと同じです。
文化圏が違う以上、衝突は常にあるでしょう。
そして、少数派と多数派が衝突すれば、概ね少数派が負けます。
負ければ不利益が生まれます。その不利益は受け入れてください。
他所者のアイデンティティを守ってあげる為に、受け入れ先の方が不利益を被る道理は無いのです。
いわんや、中国・韓国・朝鮮なんて、あからさまに日本を敵視してるじゃないですか。
そこの文化をひきずっておいて、差別だ何だと言うのは、甘いにもほどがある。
特に日中関係の緊張が高まっている昨今、あからさまな廃絶運動が始まってもおかしくないですよ。
そんな中での暮らしを強いられて無いだけでも随分優遇されてると思いますがね。
中間走者として自分がいる。
■転送歓迎■ H20.07.13 ■ 38,373 Copies ■ 2,891,505 Views■
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/
秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22
伊藤博文は併合反対の大きな勢力だったわけで、それを暗殺しておいて、更に暗殺者を英雄扱いしておいて、当時は朝鮮は併合を望んでなかったというのは支離滅裂だよなと思うわけですよ
どこがどう違うのか言わず、相手の思想の批判だけって。それじゃあんたが嘘つきだろ。
ちゃんとどこがどう違うのか指摘しなきゃ駄目だろ。
・伊藤博文は日朝併合反対派の先鋭
この辺、今じゃ常識だよね。あんたも否定してない。だって事実だもん。それを「違う」って言ったらあんたが嘘つきだよね?
だから、ちゃんとどこが正しくてどこが間違ってるって言う必要があるのに、あんたみたいなのは100%、絶対に、どこがどう正しくてどこがどう間違ってるのかは言わないんだよ。
在日、と言ったときに誰のことを指すのか考えてみよう。
単純に在日外国人を排斥したいのならば、韓国人のみが特定して攻撃される理由はないはずだ。
だが在日差別されていると声を挙げるのは韓国人以外に見たことがない。
ならばこれは在日の問題ではなく、日本と韓国の問題ではないかと思う。
ではなぜ日本人が韓国人を攻撃するのか、答えは韓国は反日だからである。
嫌われるから嫌う。
順番を間違えてはいけない。
実際に日本、日本人に害をなしているのは中国人がほとんど、次点でブラジル、韓国が入ってくる程度である。(外国人犯罪資料より)
日本人が日本に害をなす者を嫌うならば在日中国人こそ排斥されていておかしくない。
しかしあの有名な在特会が攻撃するのは主に在日朝鮮・韓国人だ。
日本人は、害をなされるより、嫌われることが嫌いなのだ。
韓国が日本を嫌い、日本が韓国を嫌う、この構図が出来上がったとき、在日差別は顕在化した。
実際には、国民同士のけんかである。
日本という国の中に差別があるのではなく、日本人対韓国人のけんかが日本国内でも起こっているだけである。
しかし日本国内にいる少数の韓国人からしてみれば、不当に差別を受けているように見えるわけだ。
それは多数決の問題であって、多数対少数になる事項では常に起こりえる。
この差別のように見える問題を解決するのは簡単だ。