実家を片付け終えたのは、秋の終わりだった。古い木造の家は、祖父母の代から使われてきたもので、四方に散らばった不用品とともに、人々の記憶も封じ込められていた。母が他界し、父も施設に入ったのを機に、私は決意した。「全部捨てよう」と。
ゴミ袋に詰め込むたびに、知らない誰かの写真や使われなくなった道具が次々と出てくる。最初は罪悪感もあったが、そのうち「片付ける」という行為が快感になってきた。どんどん軽くなる、どんどん自由になる。やがて家自体を売却し、空っぽの部屋を見たとき、私は思った。「これで、やっと終わったんだ」。
その後、墓も処分した。親戚に相談するまでもなく、私の中での家族の象徴はすでに消えつつあったからだ。何も持たず、何も背負わず、ただ身軽でいる。そんな生き方が、今の自分には最も心地よかった。
スマホとリュック一つを持って、旅に出ることにした。特に目的地は決めなかった。列車に乗り、降りた駅の周辺を歩き、たまに安宿に泊まる。それだけで十分だった。街の喧騒や自然の静けさ、出会った人々の笑顔。それらがすべて新鮮で、私にとっては贅沢だった。
しかし、数カ月もすると、旅に慣れてしまった自分に気づいた。どんな場所も「ただの景色」になり、人との出会いも通り過ぎるだけのものに変わった。そして、ある日気づいた。「何も片付けるものがない」と。
それまでの人生は片付けることの連続だった。実家を片付け、自分の過去を片付け、そして「独身でいること」という選択肢で未来までも整理した。残された空間は完全に空白だった。
ある夜、旅の途中で立ち寄った町の公園で、私は小さな池のほとりに腰を下ろした。周囲には誰もいない。ただ、月明かりが水面を照らしているだけだ。その光景を眺めながら、ふと自分に問いかけた。「これから、私は何を片付ければいいのだろう?」
答えはなかった。風が吹いて木々がざわめき、葉が一枚落ちる音だけが耳に届いた。
私は旅を続けた。しかし、行き先を決めずに歩き回るだけでは何も得られないことを知っていた。何かを捨てるのではなく、何かを手に入れる旅に切り替えるべきなのかもしれない、と薄々思い始めていた。
その「何か」が何なのかは、まだわからない。ただ、もう一度片付けるべきものが見つかるまで、私はこの空白の旅を続けるのだろう。