https://news.yahoo.co.jp/pickup/6441663
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/338
"ゴッホの「ひまわり」にトマトスープ、環境団体が抗議で" というなかなかに衝撃的な見出しにそそられ、この環境団体について調べた。元々は、「額縁にボンドを手でくっつける」という抗議活動を行なっていたらしい。文化と政治は密接に繋がっている(らしい)ので、文化施設を抗議活動の主戦場として選んだようだ。その、恐らく過激派の環境団体の中でも、更に過激派が行ったのが今回のトマトスープ騒動だろう。
"アートのひまわりは大事にするのにリアルの(温暖化によって失われゆく)ひまわりは大事にしないのか"というこの団体の主張は、私個人として極めて面白く感じる。その通りだと思う。ただ、主張する相手(もの)が違うのではと思うが。
ボンドで手をくっつけるパフォーマンスの際に、実行している環境団体メンバーと美術館のスタッフが心を通わせた、という文が下のニュースに書いてある。
額縁だって木から作られているわけだからある種自然の産物と言えると思うのだが、それはボンドで傷をつけても良いのだな、と思った。あと美術館のスタッフも、額縁は傷つけられても、そこまで痛手に思わないんだなと思った。
つまり両者にとって額縁はモノであるのに対して、絵画はモノではない。
同じように、環境団体にとって環境はモノではない。守るべき大切なものであって、だからこそ抗議活動をしている。然し多くの人、或いは政治家にとって環境はモノ、言い換えればリソースである。
環境という一つのものに対する解釈の差で、こういう騒動が生まれているのかなと個人的に思った。
こうした解釈の差、あるいは考え方の差を埋めるためには、対話が必要であり、その過程で共通前提を作る必要がある。つまり、ここまでは認識が同じで、ここからは認識が違う、という思考における線引きが求められる。
環境団体と政治家に必要なのは対話であり、器物を損壊する事ではなかった。イギリスの環境団体はあの手この手で、なんとか社会的なムーブメントを作ろうとしていた訳だが、どうにも空回りで終わってしまうのかなという感がある。
ウィットが効いているのな、で終わっているのかも