2022-03-30

模倣不可能性に価値がある時代

私たちは今、模倣不可能性に価値のある時代に生きている。

模倣不可能性とは他人コピーできないことだ。

  

時代とは模倣可能性に価値があった時代だった。

他人に教える、他人に同じことができるように資料を作る。

同じように感じることができる人間共感を生み、志が一つになることが流行を生んだからだ。

もちろん、ここには伝える者と伝えられる者という絶壁があるけど、価値のあることを模倣でき集団として成長することができていた。

  

月日がたち、模倣できるとインターネット上にばらまかれる時代になった。

同じようにやればお金が稼げる、人を集められる。

そしてそれはフラットになり、無価値になった。

伝える者と伝えられる者に模倣不可能性がなく、同じことを言っていれば究極的には誰でも教祖になれるわけだが

必ず、ねずみ講のように上がいる。

しか匿名性によってばらまかれた情報は伝える者と伝えられる者との関係を壊し

ねずみ講破壊した。

これによって情報は真の自由を得た。(匿名性"は誰によって"ということを徹底的に潰した。)

トップダウンから伝えられる情報は、ネットワーク図のように情報を得ることに変化した。

情報自由を得たが、情報メンテナンスする人はいなくなった。

伝えることと伝えられる者の差異は少なく、模倣可能性があるためだったが、

模倣可能性によって作られた低品質情報を取得し続けた人たちは、

模倣不可能性によって高められた質の高い情報を求めるようになったのだ。

  

そして、トップダウンから情報を伝えたい人たちは姿を変えた。

より閉じた場へ情報提供するようになった。

これは特に新しいことではない、閉鎖的な空間によって情報を閉じたカゴの中に入れたのだ。

本来の姿に戻ったと言っても良いだろう。

また別の観点から言えば、情報匿名性を破壊することによって

情報を紐で結んだのだ

また逆説的だが、情報匿名性を庇護する存在によって

情報匿名性を信仰する者たちが、庇護者の名(またはサイト名)によって情報を囲った。

  

おそらく、情報匿名性を信仰するも達にとって都合がよかったのだろうが(究極的には最悪だが)

情報匿名性を庇護するものたちは、自分庇護であることに気が付いていない。

まり簡単に辞めてしまうし、模倣不可能性という果実簡単に手を伸ばしてしまうだろう。

  

情報匿名性を庇護する者たちによって、支えられていた点を考えれば

(庇護することによって、模倣不可能性を得ていた点)

模倣可能性に価値のあった時代というのは、そもそも根本的に矛盾していておかしかったのかもしれない。

  

私はその時代を忘れることはないだろう。

  • 日本人が長時間働くのは、他社の模倣しかできず長時間労働でしか優位性が保てないというのは世界共通認識である

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