同じように感じることができる人間が共感を生み、志が一つになることが流行を生んだからだ。
もちろん、ここには伝える者と伝えられる者という絶壁があるけど、価値のあることを模倣でき集団として成長することができていた。
月日がたち、模倣できるとインターネット上にばらまかれる時代になった。
同じようにやればお金が稼げる、人を集められる。
伝える者と伝えられる者に模倣不可能性がなく、同じことを言っていれば究極的には誰でも教祖になれるわけだが
必ず、ねずみ講のように上がいる。
しかし匿名性によってばらまかれた情報は伝える者と伝えられる者との関係を壊し
これによって情報は真の自由を得た。(匿名性"は誰によって"ということを徹底的に潰した。)
トップダウンから伝えられる情報は、ネットワーク図のように情報を得ることに変化した。
情報は自由を得たが、情報をメンテナンスする人はいなくなった。
伝えることと伝えられる者の差異は少なく、模倣可能性があるためだったが、
模倣可能性によって作られた低品質な情報を取得し続けた人たちは、
模倣不可能性によって高められた質の高い情報を求めるようになったのだ。
これは特に新しいことではない、閉鎖的な空間によって情報を閉じたカゴの中に入れたのだ。
本来の姿に戻ったと言っても良いだろう。
情報を紐で結んだのだ
情報の匿名性を信仰する者たちが、庇護者の名(またはサイト名)によって情報を囲った。
おそらく、情報の匿名性を信仰するも達にとって都合がよかったのだろうが(究極的には最悪だが)
情報の匿名性を庇護するものたちは、自分が庇護者であることに気が付いていない。
つまり簡単に辞めてしまうし、模倣不可能性という果実に簡単に手を伸ばしてしまうだろう。
情報の匿名性を庇護する者たちによって、支えられていた点を考えれば
模倣可能性に価値のあった時代というのは、そもそもが根本的に矛盾していておかしかったのかもしれない。
私はその時代を忘れることはないだろう。
日本人が長時間働くのは、他社の模倣しかできず長時間労働でしか優位性が保てないというのは世界共通認識である