アカデミー賞の基準についに「多様性の確保」が盛り込まれることとなった。アカデミー賞の審査をするところは、映画芸術科学アカデミーという組織なのだが、この組織の構成員の割合もまた、同じような「多様性の確保」がなされている。
これは今年の映画芸術科学アカデミー会員への招待者リスト(https://www.oscars.org/news/academy-invites-819-membership)や会員の統計(https://www.oscars.org/newmembers2020/pdf/2020_new_members_overview.pdf)を見てみるとよくわかる。
とはいえ、こうした「多様性の確保」が、この組織だけの問題であるのかというわけではない。
例えば、2016年の記事「映画芸術科学アカデミー、メンバー加入打診で多様化意識」(https://www.afpbb.com/articles/-/3092334)を見てみると、
とあり、映画芸術アカデミーの内部的問題以上に欧米世界の問題であることがわかる。
この「多様性の確保」は、そもそも何を確保しようとしているのか。それは欧米世界における諸人種の公平化である。そして、これは逆説的に欧米世界において特定人種が不当に扱われてきたことを意味している。
そうした歴史は、ここで今更言うまでもないことであるが、日本国内にいる我々にとっては馴染みの薄いことである。(国内においても、様々に人種問題はあるが、ここでは議論しない。)
では、この「多様性」はどのような意味で「多様」であるのか。それは、まずは人種的な意味で「多様」であるということでしかない。
これは、優等人種と劣等人種という区別構造をそのまま保持しているという点で、レイシズムの裏返しや変奏であるとすらいえる。
そして、それは個々人を判断の基準にせずに、単に人種を判断の基準にするということである。
また、こうした「多様」の意味合いは障がい者やLGBTといったものを判断基準にすることもある。これは人種とは異なるものであるが、しかしこれにしても人種と同様なのである。
というのも、特定の属性をその個人の表象として扱い、それ以外のものを捨象しているという点で、その構図は同じであるからだ。
そして、そのように表象として個人を判断し、あまつさえ、その属性の代表として表象化されたその個人を活用するのだ。これを残酷と呼ばずになんと呼べばよいのか。
representation という英単語があるが、これは表象という意味と代表という意味がある。こうした「多様性」はまさに representation を基礎に据えて考えられた「多様性」なのである。