宇崎ちゃんの献血問題において、あれだけ炎上させておきながら、男性の半裸写真が公衆の場に貼り出されてもちっとも燃えないのは本当に不思議に思う。
一方を問題ありとし燃やして灰にしたならば、もう一方も同程度やれよ。
それが一切ないからダブスタだと言ってる(さらには非実在女性の着衣絵と、実在男性の半裸写真との比較である。程度問題であれば後者の方が大きい)。
もちろん自分はそんな何でもかんでも制限される息苦しい世の中は御免被りたいし、ここに挙げたもの双方を含め何事も表現の自由が許される範囲内では問題ないと思う。
ただ、炎上度合があまりに大きかったため、それなりの理由がある、あるいはそれなりの覚悟を持ってのことだろう。そこまでして世を変えたいものがある、こうも思っていた。
なのに今回出てくる言葉といえば、「ダブスタの意味がわからない」だとか「問題あると思うなら声を上げなよ」とかである。
一貫した理念を持つならば、たとえ相容れないとしてもそれは認められるべきであろう。
それができないなら初めから何も叩くなと。自分はあなたの領域を脅かさないし、あなたも自分の領域を脅かさない、それで良い。
しかし、以前の理屈から言えば同じ環境型セクハラでありながら、やはり一方は叩かれ一方は叩かれない現象が起きている。