私が界隈にハマり始めた頃あらゆる支援をしてくれた先達は、気付いた時にはSNSにすら現れなくなっていた。
現場で仲良くなり私の見識を広げてくれた友人は、オタク同士のゴタゴタで界隈を離れざるを得なくなった。
そして今度は同じ目標を目指して駆け抜けた同志が、趣味にもリアルにも疲れて立ち止まりそうになっている。
そんな時も私はただ好きなものを好きだと言って好き勝手しているだけだった。
嫌だ、寂しい、戻ってきてくれとは言えなかった。
私達が大好きなコンテンツが終わる前に、私達の大好きな気持ちが続かなくなる日が来る可能性を、私は普段感じることが少ない。
多分不遇とか違和感とか不満への感受性が人一倍鈍い。同じような生活水準で生きる人の中で比べると日々はきっと幸せで、しかし先の事(特に手数の必要な事)を考えるのが苦手なのが、片付かない部屋や何となく伸ばしてしまった髪や飲み切れていない薬に表れている。
コンテンツのこんな現状に悲しくなったことがないわけじゃない。
ただそれを表に出して、周りに悲しみが広がっていくのを見るのは趣味じゃないから、いつも通り好きなものを拾い上げて好きだと言うに徹してきた。
我慢はしていないと思う。
厳密にはお会いしたことのない方もいるけど、音信を重ねれば職場ですれ違うだけの人などより親しく思うのが人の情だろう。
問題は、この音信が基本的に独り言の一方的な受信であったことを忘れがちだということで。
好きなことを通じて人とゆるく繋がるのは驚くほど簡単だけど、好きを違えてしまった時、離れてしまった後でその繋がりがあまりに簡素だったことに気付くのを、私はこのSNSソーシャルで繰り返している。
それでは、情が生まれた人ひとりひとりに緊急連絡先を聞いておくのがいいのだろうか?
同じSNSでもよりインフラに近い緑のアレとか、ビジネス的にaddressとか、場合によっては文字通りの音信とか。
それも違うよなあ。
結局は、好きなものという共通事項がなくなった時に、その人との繋がりを維持する自信がないのだ。
私への興味を維持するに足る何かを提供しながら、何も提供してくれないかも知れない貴方への興味を維持していく自信が。
こうして考えていくうちに、普段考えないようにしていたネガティブが噴出するから、またその目を塞いでしまう。
好きなものは好き、それでいいんじゃないかなってなって終わってしまう。
私の好きが続くうちは、近くにいてくれると嬉しいです。
もし貴方が先に好きでなくなってしまう時も私は引き留めることが出来ませんが、別のどこかでまた好きを共有することを密かに願っています。
うんち
それでいいんじゃないか。ちょっとした偶然で気持ちを共有できる仲間がいること。それ自体が素晴らしいことだと思うし、寂しさを抱えていても歩みを止めなければ、いつかは自然に...
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