カギカッコを使うかはノリで決める。使いすぎると逆に分かりづらくなる諸刃の刃。
(インターネットでは文章量が多くなると読まれなくなるため、生まれた工夫のひとつなのだろうと推測する)
ここでいう「分かってる」感とは「自作品をどれだけ把握しているか?」というような意味である。
面白いとされる作品は「作品のこの部分は、これこれこういう理由でこうなっている」という理屈が膨大にある。
それは例えば「影響を受けた過去作品」「最近の風潮」などを含むが、それに限定されない。
そもそも現代では「お約束」に頼った作品は言うほど支持は得られていない。
つぎはぎだらけのキメラじみた作品はITの普及した今の時代では成立しないのだろう。
なぜって希釈された偽者よりも本物を探すことができるのだから。
創作の背景をイメージしてみると「試行回数」のようなものが浮かんでくる。
一般的には「完成後に一通り見てみると矛盾や気になる点が見つかる」ものだろう(もしかしたら最初から完全な作品もあるのかもしれないが)。
理想論を言えば作品が一通り完成した後、それは捨ててリメイクするのが妥当ではあるはずだ。
「試行回数の不足を感じさせる」のを「詰めが甘い」と言い換えることもできるだろう。
(ただし実際の試行回数は分からないため、視聴者・読者の印象の話になってくるが)
現実では試行回数を多く取ることは時間の問題などから難しいようだ。
なので例えば「プロットで仮想的に試行回数を増やす」や「過去の経験・ノウハウなどから補完する」というテクニックの話になってくるのだろう。
もちろん適切な回答は時と場合、あるいは各個人の政治的立ち位置によって決まるんだろう。 私は幼少期にろくに漫画アニメのたぐいに接してこなかったからか、そういう暗黙知が未だ...
一言で言えば「分かってる」のが面白い漫画アニメだろう。逆に面白くないアニメは詰めが甘い。
「分かってる」ですか…わざわざカギカッコしたということは、特定の文脈が暗喩されているかとお見受けします。 (フランス語圏思想界隈でいうところの「大文字の…」みたいな?こ...
カギカッコを使うかはノリで決める。使いすぎると逆に分かりづらくなる諸刃の刃。 (インターネットでは文章量が多くなると読まれなくなるため、生まれた工夫のひとつなのだろうと推...