うだるような暑さの、盆の夜である。
駅中にあるバイト先のパン屋は、帰省ラッシュの異常な忙しさの一日を終えようとしていた。
列車の時間に合わせてお客は押し寄せては退いてを繰り返し、気が付いたら私は閉店作業の掃除をしていた。
とにかく疲れた。
早く帰りたいのに頭が働かない。
手だけは動かし、イートイン席のテーブルを拭いているが、もはや世界と自分の境界が分からず、
それは眠りにつく直前のようだった。
別のスタッフが掃き掃除を終えた床に向かって「50倍液」と書かれたスプレーを吹きかけ、雑巾で磨く。
この50倍液は、強力な洗剤を水で50倍に薄めたもので、汚れを削るように落とす代物である。
50倍に薄めたこの液でさえ素手で触らせたくないからゴム手袋は必ず着けてね、と教わった当時、店長が言っていた。
押し寄せては退いていく今日のお客の事を考えながら、汚れた箇所にスプレーしては磨くを機械のように繰り返していた。
ふと少し先を見ると、1センチくらいの黒い汚れがあった。
チョコの欠片が落ちていると思ったが、それは虫だった。
ちまちまと歩きながら私を横切っていく姿をしばらく見ていた。
私は手に持っていたスプレーを、虫に向かって吹き付けた。
50倍液を浴びた虫は急ぎ足で逃げていく。
また私は虫に向かって吹き付ける。
逃げていく虫を追いかけては吹き付ける。
何も考えてはいない。押し寄せては退いていくお客達の事以外は。
やがて虫が動かなくなるまで、私の手は止まらなかった。
洗剤で溺れ死んだのか、洗剤による成分で死んだのか、さっきまでよりも小さくなった虫を見て、私はゆっくりと立ち上がった。
振り返ると、50倍液で出来た長い道が出来ていた。
虫が生きようとした道である。
ここで私は言い難い後悔に襲われ、虫を箒でチリトリに入れた。
ガコンというチリトリの蓋が大きく響く。
私は50倍液を急いで拭き取った。
昔、家の中に現れた蜂に殺虫剤を吹きかけ、殺したはずだったのに、数時間後に飛び回っているのを見た事がある。
当時の私は再び殺虫剤を掴み、構えたのだが、
それは幻覚だったのか、羽音もなく一瞬でいなくなってしまったのだった。
「いやー、お疲れ」
最近レジ締めを任され、慣れない作業をした為かかなり疲れたらしい。
しばらく彼と話しながらも私は考える。
チリトリの中にいる虫は、
ゴミに埋もれながら傷を癒して、数時間後にまた動き出すのだろうか。
いや、もう死んでいるはずなのだ。
私が殺したのだ。
「あ、行こうか」
と言う彼と一緒にホールへ向かう。
「あ」
先に歩く彼が何も知らずにそれを踏んだ瞬間、私は肩をびくっと震わせ、
そして深いところにまで突き落とされた気分になった。
何とも言えない最悪の気分で、私は従業員の輪に入る。
こんな気持ちは二度とごめんだった。
最後に見たあの小さな汚れは何だったのか分からないが、ずっと私は深いところから戻れずにいる。
うだるような暑さの、盆の夜である。