めちゃくちゃベタに言えば昔はさ、誰でも何か悩んでることがあるから強そうに見える人でも強がってるだけだったりとかそういう相手にたいする余白的眼差しみたいなものがあったと思うんだけどネットにはほとんどないよね。
いや現実でも形式的人間観で喋る人いるから個々人の問題なんだけどネットは特にそういう形式に物事をあてはめて喋る人が多いなって印象を受けるな。
そもそもさ、ブログとかで心情を吐露するでもないツイッターとかはてブの短文反射コメントでその人の人格を決めるのって無理があると思うんだよね。言語なんて所詮言語でしかなくてもっとノンバーバルな態度にこそ人格は宿るしむしろそっちのほうが重要だと思うんだけど
すこし前に誰が言ったかより何を言ったか論争ってあったけど誰が何を言ったかって本当はどうでもよくて誰がどんな雰囲気で言ったかってことのほうがむしろその人を理解するのに役にたつと思う。別に言語を軽視しているわけじゃないけどさ、言葉ってけっこうミスが多いものだから過誤や誤解を生みやすいと思うんだよね。特にネットのように言葉だけでコミュニケーションするとそういう現実の人格と乖離してその人を認識するってことがたぶんにあると思う。
その人がどういう人物なのか知るのにネットに何を書いたかって要素としてはほとんど意味がないんじゃないかなあと最近思ってきた。コミュニケーションの様相が「過言語化」してきているのを感じる。もっと非言語的なものにこそ人を知るのには重要なものがあると思うしその点でインターネットってたぶん人を知ることに関してはほとんど無意味・・・とまではいかないけど未熟なツールであると思うな。
メザシって漁のときに目を串刺しにしてたからメザシっていうんだってな 知らんけど
電子計算機という形態そのものがそういう言語の言語性、感情のフワフワ感、人間を動物として地質学的時間にわたって繁栄させてきた生物の本質からの決別でありその宣言なんだよね ...