A新聞に記者として働く学生時代の先輩がいる。彼女は今、アメリカに留学中で、昨今のセクハラ騒ぎを一昨日、知ったという。
同業他社の女性記者が受けたセクハラ被害に対し、思う事をFBに書き綴っていた。
先輩もまた、女性記者として今まで受けたセクハラを受けていた。
しかし、私は正直な所、彼女が受けたセクハラ被害を読んで、「この程度の事がセクハラになるなら、私なんてもっと最悪なケースではないか。」と思う事ばかりであった。
私は、FBに「イイネ」や「酷いね」などのリアクションも出来ず、コメントも残せなかった。角の立たないコメントを書けなかったし、励ましたり同情する言葉が浮かばなかった。「女性の敵は女性」になっている自分が、嫌だった。
そうこうしているうちに、彼女のFBに書き綴った内容の記事は大反響を呼び、改めて感謝の意や今後の抱負・反省などで、彼女はこの話題を締めくくっていた。
私はその締めくくりの記事を読み、虐められていた時の自分と重なった。虐められていた理由は、
・偉そう
・高みの見物
・人を何だと思っているのか
・「ごめんなさい」と言えば許してもらえると思っている。
・馬鹿にしているのが解る。
という理由だ。私は虐めを受けている当時は、全くわからなかった。謙虚に低姿勢に、世間様と接しているのに、なぜ、その彼らにこの様な酷い罵声を浴びなければならないのだろう。
鼻につくという理由で、なぜ。
けれども、先輩の締めくくりの記事には、まるで当時の私そのものの様子が、書き綴られていた。それを読み私は思わず、
「これじゃあ、風当たりが強いのも、無理はないな。」と思った。
反省している事、優等生の様な考え方、選民思想、そんな自分が理不尽なことを耐えて「あげた」だけでも偉いのに何故。
その様な事が見え隠れするような、表向きの締めくくりの美しい文章に思わず「勘違いした人間の間違った謙虚は、痛々しい」と感じてしまった。
ここで、先輩の文章を添付したりコピペする事は出来ないけれど、なぜ自分が虐めを受けてきたか、痛いほどよく解った。
虐めは悪い事だけれども、虐められる方も悪い。その理屈は近からず遠からずだと思った。少なくとも今の私だから、自分の痛々しい優等生っぷりが公害であったと理解できる。これでは社会が受け入れてくれるはずがない(社会に馴染めるはずがない)し、邪険にされるのも良く解る。
具体的な話を書けず、抽象的な内容でゴメン。私が言いたかったことは、昔の私を引っ叩いて自分の勘違い・自惚れ・思い上がりを先輩の記事を読ませて、不快感を通じて自分を客観視させたいという事だ。