2018-04-22

悪意なき嫌味を吐ける女性記者と私

A新聞記者として働く学生時代の先輩がいる。彼女は今、アメリカ留学中で、昨今のセクハラ騒ぎを一昨日、知ったという。

同業他社女性記者が受けたセクハラ被害に対し、思う事をFBに書き綴っていた。

先輩もまた、女性記者として今まで受けたセクハラを受けていた。

しかし、私は正直な所、彼女が受けたセクハラ被害を読んで、「この程度の事がセクハラになるなら、私なんてもっと最悪なケースではないか。」と思う事ばかりであった。

私は、FBに「イイネ」や「酷いね」などのリアクションも出来ず、コメントも残せなかった。角の立たないコメントを書けなかったし、励ましたり同情する言葉が浮かばなかった。「女性の敵は女性」になっている自分が、嫌だった。

そうこうしているうちに、彼女FBに書き綴った内容の記事は大反響を呼び、改めて感謝の意や今後の抱負反省などで、彼女はこの話題を締めくくっていた。

私はその締めくくりの記事を読み、虐められていた時の自分と重なった。虐められていた理由は、

・偉そう

・高みの見物

・人を何だと思っているのか

・「ごめんなさい」と言えば許してもらえると思っている。

馬鹿にしているのが解る。

我慢している自分が偉いと思っている。

という理由だ。私は虐めを受けている当時は、全くわからなかった。謙虚低姿勢に、世間様と接しているのに、なぜ、その彼らにこの様な酷い罵声を浴びなければならないのだろう。

鼻につくという理由で、なぜ。

けれども、先輩の締めくくりの記事には、まるで当時の私そのものの様子が、書き綴られていた。それを読み私は思わず

「これじゃあ、風当たりが強いのも、無理はないな。」と思った。

反省している事、優等生の様な考え方、選民思想、そんな自分理不尽なことを耐えて「あげた」だけでも偉いのに何故。

その様な事が見え隠れするような、表向きの締めくくりの美しい文章に思わず勘違いした人間の間違った謙虚は、痛々しい」と感じてしまった。

ここで、先輩の文章を添付したりコピペする事は出来ないけれど、なぜ自分が虐めを受けてきたか、痛いほどよく解った。

虐めは悪い事だけれども、虐められる方も悪い。その理屈は近からず遠からずだと思った。少なくとも今の私だから自分の痛々しい優等生っぷりが公害であったと理解できる。これでは社会が受け入れてくれるはずがない(社会に馴染めるはずがない)し、邪険にされるのも良く解る。

具体的な話を書けず、抽象的な内容でゴメン。私が言いたかたことは、昔の私を引っ叩いて自分勘違い・自惚れ・思い上がりを先輩の記事を読ませて、不快感を通じて自分客観視させたいという事だ。

虐めの理由は、時がたてば突然、解るときが来るのかもしれない。そんなケースを私は身をもって体感した。

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