一人は楽でいい死にたくなるけど死ぬ意味もないから一人なら死ななくて済むと思いませんか?私にとって死は復讐の手段でそれは多分自分が愛されているはずという傲慢な思い込みの上に成り立った醜い子供の妄想をここまで持ち続けてしまった私・という存在、自体が悲劇、という劇中劇の様相を呈し、らせん状に渦巻いてどこまででも降りていくような感触がします。
とはいえ、私は今日もみっともなく生きていて私と死んだ人たちとの違いは何か?というと私は死んだ人たち・死にたい人たちのことをすべからく軽蔑していて、憎くてしかたないような気すらする日があるというのが正直なところです。
死んだ人の方が死にたい人の方よりはずっとましです。声も上げず死んだ人はなおいいですが、狼少年が如くじわりじわりと死にじゃれつき近づき気が付いたら後戻りできぬほど脚を絡め取られていたような死に方はみっともなくてたまらないように思えます。
なおわるいのは生に抱かれすがりつきながら死の方を胡乱に見やる自分、その自分を見て欲しくてしょうがない人々、そういうものです。精神的に辛かろうが何だろうが知ったことはないです。この世に精神的に辛くないということがあるでしょうか。至福の夢の中ですら頭にひっそり醒めた光が差してしまうこと以上にふしあわせなことなどあるでしょうか。みんな自分が肝要と、思っておきさえすれば傷つかないのに、どこかでふっとこの人はおのれよりわたしを優先してはくれまいか?と期待する、それがために精神が辛いという例の膠着状態に陥るのです。
ああ私はお医者様になればよかったなあ!
ひとの外側はなおったなおらぬがわかりやすくて良いです。傷だらけの人間にこそ価値があるようなことが一目でわかる。
死ねばそれまでと認めて終えばいいのに、たましいの話何ぞ始めるからややこしくなってしまうのです。「でも・たましいには・価値がある」というような話は無意味です。たましいなど。
たましいにあいた穴を誰が塞げましょう。よしんば、穴の有無など誰が見分けられましょう。さらに言えば、相手が本当にたましいを持っているのか、如何やって判別しましょう。馬鹿げています。
私たちみんな、「みんながたましいをもっているといいなあ」という稚児のふやけた妄想の中を生きているようです。たましいがあるからこの世は苦しいと、この子はまだ知らない。教えてやらなくてはなるまいよ、と私は思います。