2017-06-03

伊藤計劃虐殺器官』の感想への感想なんだが

ネット雑誌わず虐殺器官』の感想でよくあるのが、「虐殺言語」(文法だっけ? 忘れた)とは何か解らなかった、もう少し内実に言及があったほうが良かった、というものだ。

だが私は、これに対しては反対の意見で、それはなぜかと言うと、「虐殺言語」的なモノは世の中に結構溢れていると思うからだ。


王様のブランチを今視てるんだけど、映画さらに見たり、テレビさらに見たり、本をさらに見たり、美味しいものを紹介したり、面白い施設を廻ったり。

人々の欲望を刺激して「これ面白そうだな」「これ見てみたいな」「やってみたいな」という気持ちを惹起させる。これは直接ではないにせよ「虐殺言語」の変奏に他ならない。

世の中の商品アニメ漫画映画)は、人間思考属性に訴えかけるようなものが少なからず含まれている。そうしないと売れない。あるいは見てもらえない。または、楽しんでもらえない。

巧みに「言語」が含まれ作品は、多くの人が語ったり意見を戦わせて、やがては名作と言われるかもしれない。

まりに「言語」が解りやすい(例えば、「腐女子向け」「サブカル厨向け」みたいな)と、「言語」外に属する人々からは避けられ「テンプレ作品」などと言われ蔑まれるかもしれない。


とにかく、世の中には流行の基底にある、人々の心情を揺り動かす「コード」というか「公約数」的なものがある。

たとえば秋元康は、この「コード」をかなり正確に掴んだからこそ、世代を超えてあんなに売れ筋を生みだすことができるのだろう。

秋元康はジョンポールなのだ

そうした社会様態表現したのが「虐殺言語」だったのであり、それは世の中に色んな形式で実際に偏在している。だから作品中での「虐殺言語」がどうであるかは問題にはならないと思う。

虐殺言語はいつもXで色んなものが代入されうる。まずはXなるものがある、ということを意識するべきなのだろう。

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