ネットや雑誌問わず『虐殺器官』の感想でよくあるのが、「虐殺の言語」(文法だっけ? 忘れた)とは何か解らなかった、もう少し内実に言及があったほうが良かった、というものだ。
だが私は、これに対しては反対の意見で、それはなぜかと言うと、「虐殺の言語」的なモノは世の中に結構溢れていると思うからだ。
王様のブランチを今視てるんだけど、映画をさらに見たり、テレビをさらに見たり、本をさらに見たり、美味しいものを紹介したり、面白い施設を廻ったり。
人々の欲望を刺激して「これ面白そうだな」「これ見てみたいな」「やってみたいな」という気持ちを惹起させる。これは直接ではないにせよ「虐殺の言語」の変奏に他ならない。
世の中の商品(アニメや漫画や映画)は、人間の思考や属性に訴えかけるようなものが少なからず含まれている。そうしないと売れない。あるいは見てもらえない。または、楽しんでもらえない。
巧みに「言語」が含まれる作品は、多くの人が語ったり意見を戦わせて、やがては名作と言われるかもしれない。
あまりに「言語」が解りやすい(例えば、「腐女子向け」「サブカル厨向け」みたいな)と、「言語」外に属する人々からは避けられ「テンプレ作品」などと言われ蔑まれるかもしれない。
とにかく、世の中には流行の基底にある、人々の心情を揺り動かす「コード」というか「公約数」的なものがある。
たとえば秋元康は、この「コード」をかなり正確に掴んだからこそ、世代を超えてあんなに売れ筋を生みだすことができるのだろう。
そうした社会の様態を表現したのが「虐殺の言語」だったのであり、それは世の中に色んな形式で実際に偏在している。だから作品中での「虐殺の言語」がどうであるかは問題にはならないと思う。
でもその当然のことをわざわざ虐殺の言語の変奏とか言う必要はないんだよね~。
私も「増田の文法」を用いてトラバやブクマをしてもらうという寸法だ 当然だが、もちろんありがとう