「辛いのはあなただけじゃない」「誰だってそのくらいの辛い思いはしてきた」
「もっと辛い思いをしている人はたくさんいる」
こう言われることが、何も解決しないし叫びを封印するのに有効な悪魔のセリフであることはいろんな人が主張してきた。
でも、もはやこれは暴力なのではないか、と考えるようになった。
私は、今1人の発達障害児と、もう1人の発達障害疑いの子を育てている。
私より辛い思いをしている人がいくらでもいることは知っている。
そういう認識は、そういった人たちを見下しているという批判を生みかねないことも理解している。
でも、私より辛い思いをしている人がいるから私はその心の叫びを封印しなければならないという理論は成立するんだろうか。
キャパシティは大きいに越したことは(表面的には)ないが、自分でコントロールできるものかというとそうではない。
知識を身につけたり、信仰を持ったり、ライフスタイルの改良を伴うものだと考える。
キャパシティを広げることも、それをあたかも必須であるように強制されればそれは暴力である。
暴力を受け続け、体力も気力もなくなったころに、暴力のおすそ分けを喰らうのは子どもかもしれない。
私は、それをしない。
と今は思っている。
辛いときに、辛いと叫ぶこと。
叫ぶことは何も解決しない。だが、「世の中にはもっと辛い思いをしてるひともいるのよ」という励まし(という顔をした暴力)よりはずっと精神を正常側に留まらせる力を持つ。
皮肉なことだが、「世の中にはもっと辛い思いをしてるひともいる」という人は、その「辛さ」=痛みを理解できない・共感出来ていない。
だからこそ、世界中で最も辛い思いをしている人間たった一人以外の人間の痛みに共感する能力を持たないのだ。
おまけに、「私の時なんてね、〜〜で〜〜〜で、もっと悲惨だったわよ」なんて発言ができる。
そういう人に「でも、世の中にはもっと辛い思いをしてたひともいますよね?」と言葉の暴力を振るうことができたらなあ、と思わないでもない。
それをしない弱さが、私を殺すのだろう。
人は分かり合えない。
宇宙人のような2人の子どもたちに、別れを告げなければならない。
せめて私が彼らに言えることは、
「他にもっと辛い思いをしている人がいたとしても、あなたの感じている痛みはあなたのもの。叫ぶも、抑えつけるも、前向きに考えて進むも、絶望するもあなたの自由である」
さて、どうしようか。
母は、絶望を選ぶことにした。
人を勝手に他人と比べて評価する奴はクソだから。 自分で他人と比べることも辛いから。 他人と自分を比べないでいいよ。 > 私より辛い思いをしている人がいるから私はその心の叫び...