逆シャアでの、アムロに対するシャアの絡み方とかみてると、しみじみ、「シャアはさびしかったんだろうな…」と感じる。
ジョン・レノンがオノ・ヨーコに出会ったとき「俺より頭のおかしな奴がいる!」と喜んだ、という話がある。(うつくしい伝説かもしれないけど。)
ジョンも、きっとずっとさびしかったんだろうな…と、なんとなく思う。
ビートルズのジョン曲に「Strawberry Fields Forever」というのがあって、こういう歌詞がある。
No one I think is in my tree, I mean it must be high or low.
これは、孤独を「数えられる」人には、わからない感覚かもしれない。「あなたは、どんなときに孤独を感じますか?」という質問の意味がわかる人。白地に黒の水玉。
これがもし黒地に白の水玉なら、「黒」は数えようがない。「あなたは、どんなときに孤独でないと感じますか?」なら、わかる。
つまり、(少なくとも一面で)対等でなければ友達にはなれない。
(少なくとも一面で)その人と対等であれる人がいなければ、その人と友達になれる人はいない。どれだけ友達になってくれようとしても。どれだけ共に時間を過ごしたとしても。
実際、ガルマは坊やなんかじゃないんだけどね。シャアとは指向性が違うだけで。
ガルマ自身もシャアに対して「家族のない君にはわからない」的なことをいってる。
ガルマの木に、シャアはいない。シャアの木に、ガルマはいない。
どちらが高くてどちらが低い、とかいう問題ではなく。高いか、あるいは、低いか。両者じゃ指向性が違う。
No one(I think)is in my tree…孤独とは、そういうものではないだろうか。
同じベクトルで同じように背負うものがあったからこそ、ガルマとイセリナにはわかりあうものがあったのだろう。
同じベクトルで同じように抱えているものがあったからこそ、シャアとララァにはわかりあうものがあったのだろう。
アムロが実際シャアの友達になってくれるか、そしてシャア自身がそれを望んでいたかは別として、アムロはシャアの友達に「なれる」人だった。たぶん。
逆シャアのNew技術リークみたいなことも、そう考えるとものすごく腑に落ちる。対等でありたい。つまり、「友達になりたい」。
いや……「アムロにいてほしい。自分の孤独の木のなかに」。ただ、それだけだといったほうが適切かもしれない。
もちろん、一面では説明のつかない複雑な感情があったとは思う。ララァがらみの部分とか。
でも、アムロと戦っているとき、シャアは少なくとも「孤独」ではなかったんだろうな……と、ぼんやり思う。
私にガンダムを教えてくれた人が、私がガンダムにまんまとハマったのをみて、さりげなくバガボンドを紹介してくれた。
泣いた。