数年前の夜。
信号待ちをしていた僕と、別方向に行く信号待ちをしていたおじさん以外に周囲に人影はいない交差点。
「トサ」という音がした気がして振り向いたら、おじさんの少し後ろに財布らしき四角いものが落ちていた。
状況的にはもう99%このおじさんの財布なんだろうなー、と思いつつ、
それでも、落ちた瞬間を見たわけじゃないので、実は全然知らない財布なのに、
「落としませんでしたか?」と聞いたときに「おや、ありがとう」とおじさんがウソをついて、
財布を持って行ってしまう可能性を考えてしまって、どうしてもその場から動けなかった。
この場で声をかけて、「念のため」と言って内容物や名前なんかを質問してから返すのが一番スマートかな?とも一瞬思ったけれど、
ほろ酔いのようにも見えるおじさんが、もし無礼な態度の若者に激高して、突き飛ばされた僕が通りかかった車に轢かれて死んでしまったりしたら……。
僕は死にたくないし、不幸なドライバーが交通刑務所行きになってしまうのも嫌だ。
おじさんにだってできれば殺人者にはなって欲しくない。そう思うと、やはり動けなかった。
僕は信号が変わって、おじさんがその場を立ち去るのを待ってから、財布らしきものに接近した。やっぱり財布だ。
口金やボタンでとめない長財布だったので、拾うときにチラッと中身が見えた。
一瞬見えた内容物は、免許証、クレジットカード、少なくない量の紙幣。
これだけあれば確実に持ち主のところへ戻るだろうから安心だな、と思いながら、僕は財布の端をつまんで近くの交番へ向かった。
途中、内容物を警官が机に広げていくが、明らかに失くしたら物凄く困るタイプの財布の中身だった。
多分、持ち主はあのおじさんなのだろう。
机の上に並べられた免許証の写真の風貌はさっきのおじさんと同一人物のようにも見えた。
警官が「おそらく持ち主のところにちゃんと戻りますが、現金だけで7万円以上入っているし、お礼をしたいと言われると思うけど、連絡先を教えてもいいですか?」と聞いてきたので、
「いえ、お礼とかは結構です。」と言って書類の権利放棄のところにサインし、僕は交番を後にした。
おじさんを信用できず、頭の中では「衝動的に殺人を犯す人間かも」とまで想定した自分が、何も知らないおじさんから感謝の言葉をもらうような資格はないのだ。