俺は交際している女性に、「私を一個の人間として見れていない」だとか、「内面を見てくれない」だとか、とそういったクレームを入れられてしまうことが多い。
思い当たる節はある。俺のコミュニケーションはカードゲーム方式だ。
相手がA属性の発言すれば、それに相応しいとされるB属性のカードを切る。相手がC属性の振る舞いをすれば、それに相応しいD属性のカードを切る。適切なコミュニケーションをとるために、相手の発言や振る舞いを相手のステータスと関連づけしながら、経験から得た知識を参照して適切なカードを選択する。そういうコミュニケーションの在り方は、悪く言って仕舞えば相手を一個の人間として見れていないということなのかもしれない。内面を見れていないのかもしれない。
とはいえ、そこになんの問題があるのかいまいちわからない。もちろん、相手を何のステータスというより一般化された何かと関連づけることなく一個の人間として見ることが、振る舞いや言葉からデータベースを参照することなく相手の内面を直に見ることができたなら、それはとても素晴らしいことなのかもしれない。すくなくとも、チョロいコミュニケーションではあると思う。だけれど、そんなことができるのは神様だけだ。人間にできる技ではないと思う。正直、『一個の人間』や『内面』なんていう当人の主観の中にしか存在しないフィクションの共有を他人に押し付ける行為が上等とは思えないし、はっきり言ってしまえば愚かだとも思う。
で、ここにきて恋愛工学批判だ。恋愛工学はナンパからセックスに持ち込むまでのプロセスを徹底的にメソッドに落とし込んでいる。セックスを得るために必死になっている人間は他人からするとかなり滑稽なので、俺もゆびをさして笑ってはいるが、彼らを真顔で非難するつもりはない。というか、非難する資格が俺にはないように思える。
俺だって女性との、というか他人とのコミュニケーションはメソッド化しているからだ。というか、そういうことをせずに無意識にコミュニケーションをとれる人間なんているのだろうか。いるとしたら、羨ましいし、彼ら彼女らには俺たちを非難するのではなく自分を誇るということを覚えていただきたい。その恵まれた才能に感謝をしていただきたい。
人間の内面を、一個の人間としての何かを、生身の人間が見て、愛することなんてできはしないと俺は考えている。そういう尊い愛が欲しいなら、有限の存在である人間に頼らず、素直に神にすがればいいと思う。