十年以上前、部屋に初めて水槽を置いた。40センチ水槽だった。
底に砂利を敷いて、ペットショップで買ってきた何種類かの水草を、
鉛スポンジで束ねたままの状態で砂利に植えた。外掛けフィルターを付けた。
メダカを飼う予定だったが、その前に本やネットで学んだ「水作り」をやろうと思って、
近所の池でヌマチチブの子供を二、三匹捕まえてきて水槽に入ってもらった。
自分の部屋の机の上に水の空間があること、その中で魚たちが動き回っていること、
その異質感、非日常性にすごくわくわくした。魚の姿形の不思議さや美しさにも惹きこまれた。
小さなヌマチチブたちが底を這っているだけの水槽を、暇さえあれば眺めていた。
ただ、水槽の非日常性にわくわくするのも、実際はほんの少しの間だけだ。
経験を重ね、知識が増えることで、アクアリウムの楽しみ方もどんどん変わってくる。
希少価値の高い魚が欲しくなったり、魚よりも水草のほうが好きになってきたり、
水草レイアウトのパーツとして魚を選ぶようになったり、様々な器具を試すのが楽しくなったり。
水槽の非日常性がもたらす興奮は、やはり初心者だけが味わえるものだろう。
“アクア上級者”として登場した人物が、アクアリウムをやっている理由を聞かれた際に
「自分の部屋に水の空間があるという非日常性にすごく興奮するんだよ」
他の部分でどれだけそれっぽい描写がなされたとしても、決してリカバリーできない。
こういうのは、「作品のけれん味を出すためにあえて」だとしてもやってはいけないレベルのことなのだ。
特定のジャンルを描く作品は、そのジャンルについてのリアリティを守る責任がある。
ヒカルの碁の緒方九段がアクアリスト(小中型魚と水草)なのだが、アクアショップで店員に
「いつものエサを少し多めに」という頼み方をした。これはアクアリストからすると
不自然なやり取りに見えてしまうが、ヒカルの碁は囲碁の漫画だから、大した問題にはならない。
うろ覚えだが柴門ふみの漫画で、合コンで女性陣をうんざりさせたAVマニアの男が、