2015-04-01

まっとうな努力のできる人間が憎い

努力するのは楽しい

夢に向かって努力することほど、この世に素晴らしいことはない。


わかる。その感覚を俺も知っている。

でもそれは俺にとって、極地に訪れる短い夏のようなものだ。

努力することは尊くて、努力する人間は眩しくて、けれど短い夏が終わればそれも氷に閉ざされる。

やり遂げた達成感とか、できあがった満足感とか、何もかも感じなくなる。意思危機感で縛り上げでもしないかぎり、まともな日常生活すら送れなくなる。

自分より上手い人間を見て燃やした闘志もほめてもらって舞い上がる気持ちも靄のかかった壁の向こうにいってしまう。

自分がどうして夢中になっていたのか、なんのために努力しているのか、何がそんなにうれしかったのか楽しかったのか分からなくなる。

自分には夢や目標があるのを知っているのに、それにどんな価値があるのかこれっぽっちも理解できなくなる。


ひとつ手に付かないどんよりとした気分が何日も何週間も何ヶ月も続いて、ある日ようやく雲の切れ間みたいに光が差す。

努力するのに理由なんていらなくなって、意味がなくても生きていられるようになって、上達するのが楽しくて、やり遂げるのが誇らしくなる。

魔法がかかったように、自分の好きなことを胸を張って好きだといえる。魔法が切れるまで。


がむしゃらに努力なんてできるわけがない。邪道だと言われてもずるいと言われても、一番手間と負担のかからないやり方でやるしかない。

そんなんじゃ本当の実力は身に付かないと言われたって、それしか選択肢がない。

それなのに、年がら年中努力してられるような恵まれ人間はあまり無理解で、そのくせ倫理的に高い位置にふんぞりかえっている。こともなく俺を倫理的糾弾する。

お前は努力ができないクズだ、と。


違う。これが俺の努力だ。

それは怪我や障害で普通に歩けなくて、それでも努力の末になんとか歩いている人間にお前は歩けないからクズだというのと何が違うのだ。

だってできることならお前らと同じように歩きたい。

歩きたくて歩きたくて歩きたくて気が狂いそうで、足掻いて足掻いてそれでも無理だったから、自分にもできる歩き方で前に進むと決めた。


歩き方が変だと笑いたければ笑え。俺だってそんなことは承知の上だ。

こんな歩き方じゃいつかどこかに不都合が出る。知ってる。その程度で前に進めるなら安いものだ。

どんなに笑われても、馬鹿にされても、遅くとも、我慢できる。


けれど、歩き方が変だからお前は人間的にクズだと、そんな言い草だけはどうしても許せない。

クズだと言われるのは慣れてる。

自分でもそうじゃないかと思うときはいくらでもある。

他人に誇れるほど立派な人間をやってるつもりはない。

けれど、それは歩き方が変だからという理由じゃ決してない。

役立たずのクズから歩き方が変だというなら、ここまで怒りはしない。


しかに俺はごくつぶしで、役立たずで、足りてない人間かもしれない。足りてるお前から見ればそう見えるのは当然だろう。

けれど、その変な歩き方は、不具たる自分の、それでも前に進もうという意思だ。

足りない人間が足りないなりに、駄目な奴が駄目ななりに、それを補おうと必死で足掻いて積み上げてきたものだ。

不出来な俺が長い時間をかけて、苦しみもがき挫折しながら、ようやく手に入れたものだ。

人の努力人格をいっぺんに否定するその言葉が、態度が、俺にしろお前にしろ、人の命を奪いかねないものだということを、よく覚えておけ。










おなかいっぱいカニたべたい

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