2010-08-21

工業社会を捨てよ」論に対する疑問

 「日本工業社会を捨てよ。産業構造を転換してサービス立国を目指そう」と何の留保もなく主張する野口悠紀雄のナイーブさに思いのほか虚脱感に襲われている自分がいる。唖然としている。ダッチワイフのジェニファーちゃんぐらい開いた口が塞がらない。いったいどんな神経が、こんな大きなことをこんな不用意に言わせるのか。

 まず、まったく不確かのままに留まっている論点として、今の工業中心の産業構造を転換しろという主張が経済学的にいってどのようなことを意味するのかが、わからない。私たちは政策金利最低賃金の引き上げについて、そのありうる帰結についてかなり多様な議論を戦わせることができる。しかし、「脱工業化を進めよ」と言った場合どうなるのか、その政策を実行したときに、それが経済社会雇用経済成長に実証的にどのような効果・影響を与えるのかは、びっくりするほど整理されていない。

 そもそも、脱工業化という経済現象自体、よくわからない。一般的に、どんな経済的条件下において、どんなドライバーによって、どのようなステップでそれは促進されるものなのか。そのメカニズムが不明だ。たとえば、産業革命以後の西欧の中でも、イギリスのようにあっけなく工業が衰退した国がある一方、ドイツのように競争力のある工業基盤を普通に維持できている国があるのか。

 加えて、脱工業化する国がたどる道は、ざっとどのような種類のルートに分けられるのかも、よくわからない。1つの手がかりは40年前から指摘されている「知識社会」への移行だが、それは必ずしも金融サービス産業への一本道とどまるものではない。例えば日本メーカーが出すプラズマクラスター空気清浄機や年々進化するホームベーカリーは完全に「製造業」の枠組みながら、十分に「知識社会」としての産物になっているような気がする。この辺もっと詳しくカテゴライズしてほしい

 また、各ルートに一定の基準によって優劣を付けられるとしたルート選択は極めて重要な判断になるが、そのフラグ発生条件はどのようなものなのか。いやもっと根本的な点として、脱工業化において政策がどれだけの役割を果たせるのかもよく分からない。もし国の政策が、脱工業化の推進もしくは阻止、あるいは方向性に誘導することについて、無力にとどまるのならば(おそらくこっちの方が自然な想定だが)、野口悠紀雄のように「べき論」で脱工業化を主張する意味はない。ていうか税金無駄だ。

 つまり、指し示した指の先は真っ暗闇なのである。脱工業化への産業構造転換というのはなんなのか。そもそも政策として意味があるものなのか。YESならば、そうでない場合と比べてどのようなプラスマイナスをもたらすのか。そもそも日本イギリスのように脱工業化が要請される条件下にある国なのか。

 もちろん、日本製造業の閉塞感は確かだし、日本はこのままじゃまずいっていう点はわかるよ。共感する。だからって、僕たちをいったいどこへ導こうとしているの?教えてエライ人。

http://twitter.com/zaway/status/21684114111

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