「音を立てるほど勢いよく啜るのは、麺に汁が絡んだ状態で口に運ぶためだ。物事には理由がある。その理由を無視して、従来のやり方を抑え込む方が愚かだ」
「えー、でもそれを気にする人がいるってのは分かるでしょ」
「個人の気にする気にしないレベルで是非を求めたら社会は回らん。何が正しいか間違ってるかも分からず何もできなくなる」
こういった法律に縛られない、慣習的な何かを俺たちは漠然と“かくあるべき”と思っている。
だからこそ、その“かくあるべき”を常識だとか文化だとか、作法という言葉で簡潔にまとめられるんだ。
「理屈が伴っているかどうかが重要なんだよ。米を炊く時だって、研ぐ段階から軟水を使うだろ」
「え? 米を洗う時にも市販水って勿体なくないすか」
「米は洗ったり研いだりする際にも水を吸うだろ。本当に勿体ないと思っているなら、最初から最後まで水道水を使えばいい」
「あー、なるほど」
「お前アレだろ? 座って用を足せと周りに言うくせに、流す時に蓋しないタイプだろ」
「逆だ、逆」
しかし、こういったルールの“延長線”を誰がどのように引いているのか、そして妥当なのか。
実際には誰も把握していなくて、共有できているかも怪しかった。
なので話を掘り下げようとするほど墓穴にハマりやすく、誰も出られなくなってしまうわけだ。
それでも概ね見解は一致していたから、さして険悪にはならなかった。
「そりゃあ似非マナーとか、古臭いルールは無くなってもいいさ。でも、全てがそうじゃないだろう。箸の持ち方だって変わらない」
だけど話題が箸の持ち方になった時、なんだか雲行きが怪しくなってきた。
切り出したのは俺だったが、これは七面倒なことになると言ってから気づいた。
この時、ラーメンを食べている彼らの手元は三者三様だったんだ。
「えー、箸の持ち方くらい自由でいいじゃん」
「そりゃあ、まあ、ちゃんと持てた方が行儀は良いかも知れないけどさ」
「箸の持ち方ひとつで窮屈になる社会が良いとは、とても我は思えん」
「オイラ、この持ち方でも支障ないし」
「お前の持ち方は、さすがにクセがありすぎる」
「えー! “箸の持ち方くらい自由でいい”って、さっき言ったじゃん」
俺みたいにちゃんと持つべき派、多少なら構わない派、どんな持ち方でもOK派……
それを直すべきか、指摘するべきか等など。
皆その持ち方で、食事を数え切れないほど行ってきたんだ。
つまり、この議論は人生の一部をかけているに等しいといえ、それ故にみんな必死だった。
≪ 前 今にして思えば、きっかけは何気ないものだ。 よく連れ立つ仲間達と、自宅で軽い昼食を摂っている時だった。 「袋麺を作るだけで、妙に自信満々だった時点で怪しく思うべき...
昔々、どのくらい昔かっていうと、フォークが二又しかなかった時代。 この頃のフォークは使い勝手が悪く、上流階級の人々すら未だ手づかみが基本だった。 手づかみで食べる方がマ...
≪ 前 「この持ち方が正しいのは箸が食べ物を掴む食器としての役割があるからだ。その持ち方で支障ないって言ってるが、それじゃあゴマや小豆をつまめないだろ」 「そのあたりは掬...
≪ 前 そして結局の所は、俺自身この件について心根ではどうでもいいと思っていたりする。 どうせ、このやり取りも今日だけで終わるんだ。 よくある仲間内での些細な諍い、日常茶...
≪ 前 そして、これも弟たちだけの話では終わらない。 このやり取りを学級内でやっているということは、教員達の耳にも必然的に届いた。 つまり、今度は教員の間で箸の持ち方談義...
≪ 前 こうして、弟の学校で箸の持ち方が徹底的に教えられることに。 「まず、一本目の箸を鉛筆を持つ時みたいにして。この部分が動かないよう固定させるのがベスト」 「鉛筆の持...
≪ 前 この授業での様子は市内の新聞でも取り上げられた。 俺はそのことを、行きつけの喫茶店で知った。 まさか、あの時の会話を弟が聞いていたのかと推理したのも、この時になっ...
≪ 前 箸の持ち方を授業で徹底的に教えるというニュースは市内に轟き、そして他の学校も見切り発車気味に真似しだしたんだ。 そして広がりを見せると授業内容は最適化されていき、...
≪ 前 「市長、こちらの書類にサインと判を」 「はー、やれやれ。ある意味で尤も重要なのに、尤も簡単な仕事なんですよね。政治システムのバグだと思うんですよ。放置せずデバッグ...
≪ 前 この場における、市長の認可は通例的なものにすぎなかった。 既に各役所で審査は終わっており、市長の考えうる懸案事項は通過済みだからだ。 市長が七面倒な人格者でも町が...
≪ 前 昼飯を買ったが、未だ結論ではない。 このまま帰れば、何となく判を押して終わりだろう。 最後の抵抗とばかりに、イートインコーナーで昼食を済ませることにした。 「いた...
≪ 前 「ほぅ、マイ箸ですか」 市長は思わず声をかけた。 別に彼から箸の矯正について意見を仰ぐつもりではない。 ただ箸を綺麗に持つ者として、その“趣”を知りたかったんだ。 ...