2016-11-10

背中を掻きたい

背中かゆい。かゆくならないという人も居るけれど、むしろ自分は周りより少しかゆみが強い方かと思う。

ここに孫の手があったら、どんなに気持ちいいだろうか。

嗚呼、孫の手。背中を思う存分に掻ける幸せは、生きる意味の一端を担っているのかもしれない。

から、巷では孫の手の話題は尽きない。

やれどこ産の竹が素敵だとか、やっぱり長さは重要だとか、掻きかたへのこだわりだとか。どうやらそれが普通らしい。

そんななかで、何故だかそういう話題に興味を持てない自分がいる。

しろ背中。何時からだとか、何故だとか訊かれたって、知らないし分からない。だけど気付けば、背中を目で追ってしまう。

あわよくば、掻きたい。爪なんてほとんど切ってしまって丸っこいから、竹や木でできた孫の手ほど気持ちよくはないだろうけど。

気持ちとしては、そう思ってる。

ここまではいい。

我々は、社会に生きている。

そして、社会に生きる大多数は、背中を孫の手で掻くのだ。

教科書だってそう書いてある。

背中は孫の手を選び、孫の手もまた背中を選ぶ。選び選ばれた背中と孫の手には、手厚い保証制度だってある。

こうして社会は成り立っているのだ。

そんな社会なかに自分は生まれしまった。

背中を掻きたい。その感情に気付いたのは高校生の頃だった。

そういう人もいる、という知識は持っていた。だからこれも、そんなに変わったことではない。そう思って母に相談した。これまで愛情たっぷりに育ててくれた母に。

母は、絶望していた。

未だにあれ以上、ひとが絶望した、という顔は見たことがない。乏しい語彙力ではこんな表現になってしまうが、とかくこのような結末であった。

あれから五年以上経った。成人式も終えた。

さて、どのように生きるべきか、そろそろ真面目に考えねばならない。

掻くべき背中を探すのはどうだろう。

まったく残念なことに、掻いてもよい背中にはさして特徴はない。事実自分背中だってそうである

そしてこれまた残念なことに、「背中を掻きたい」とは公言しにくい社会である

それを探すためには、何らかの仮面舞踏会へ行くことが手っ取り早い、というより他の方法など殆どない。

そこへ行く今一歩の勇気が、未だに出せていないのだ。

おまけに、自分はすっかり、背中を掻きたいことをオープンにしてしまっていた。

案外この世には同胞は多く、自分も恐らく沢山出会っていたとも思う。

さて、では隠していたいひとは、万 が 一 興味を持ってくれたとしても、自分に声をかけるだろうか? 考えるまでもない。

前提として、冒頭で述べたとおり、自分かて背中かゆい

から、孫の手を受け入れること、それ自体にはきっと何の問題もないのだ。

しろ背中を掻くためのあの素材あのフォルムである

受け入れさえすれば、たぶん気持ちいいのであろう。

実際に背中にあてて動かせば、自分のまだ知らない魅力に気付くこともあるかもしれない。

社会的にも大正解だろう。

ペアへの保証制度が手厚いことは前述の通り。

また、オープンであるとは言ったが、未だに親戚筋には打ち明けられていないのだ。

かつて、この症状は病気と考えられており、そのため一定以上の年齢層はこの話を拒絶しがちである

加えて、初孫の将来への期待はずいぶんと大きく、それを裏切ることともなってしまう。

無事にペアを組むことが出来れば、こんな懸念も吹き飛ぶのである

ただし、そんな気持ちで選ばれた孫の手はたまったもんじゃないだろう。

背中、孫の手。どちらの魅力も理解出来る(後者については微妙なところだが)。

たまにお得と言われるこの特性を持ち生きるということは、あくまで一例ではある(重要)が、こんな感じである

さて。

などと考えてみたが、どちらにせよ自分最初にしなければいけないことをしていない。

自分磨きアピールである

自分理想うつつをぬかし、「相手からまれ背中になる」という視点をすっかり欠いてしまっている。

ぎくりとなった背中・孫の手諸君、共に頑張ろう。

まずは見た目に少し気を使ってみるか……なんて思いながら、今日自分は、必死に手を伸ばして、自分背中を掻くのである。ぽりぽり。

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