2012-05-01

ニコニコ超会議で考えたこと

当初あまり興味はなくて、目当てのものを買えたら潮風に当たりながら散歩して帰ろうと思っていたのに、気がついたら終了時間までいた。

しかったしいろいろ考えた。ツイッターでの連投は気が引けるけどブログも持ってないので、ここに書いとく。

感じたこと。

ネットからリアルへのフィードバック

空間を楽しむイベント

ネットからリアルへの~について。

フィードバックという言葉適当かわかんないけど。

リアルの反映のはずなんだけど独自に発達して乖離しつつもあるネット内の文化を、リアルに反映させること。

最近テレビも見なくなって、世間で何が話題なのか知るのにネット経由というのが自分の中でも当たり前になってる。

リアルで感じるものよりネットの方が楽で有意義に感じがちで、現実って面倒くさいなあって思ってた、ここ一年くらい。

なんで、超会議も期待してなかったけど、意外に面白くて、誰かが大人の文化祭って言ってたけど、同じ事を感じた。

はいえ、来場者は10代の若い子も多かったんだけど。

すっかりネット世界のほうが日常的になってきた生活は、おそらくこの先、その傾向をもっと強めると思う。それによって有益なこともあれば弊害もある。

その中で、ネット抑制でなく、より完璧バーチャル世界の構築でもなく、ネットリアルをつなぐようなイベントって実は重要なんじゃないかと思った。

普段、ネット内で深めてきた文化や文脈を現実へ反映させていく作業。

やっぱりリアル楽しいはいいなと思った。どうやっても人はリアルに属するのだし、体で感じるということは、人を前向きにさせる気がする。

もうひとつのこと。空間を楽しむということ。

それぞれ多彩で濃いイベントなのに、はっきりした仕切りがなくて、すごく雑多な感じがした。

けれどあの雑多な感じがよかったんだろうなあと思う。

踊ってみたやのど自慢の異様な盛り上がりをよそに、ニコニコ学会JAXA展、超鉄道、と散策を楽しんでると小室ライブに行き当たる。

しばらく眺めてたら、後ろを兄貴とその取り巻き達が押し潰さんばかりの勢いで通り、人波からなんとか離脱したその先で、囲碁フリー対戦と将棋コンピューター対戦やってた。

なんだか茫然として、さらに先へ行くと言論コロシアム東浩紀ひろゆき対談やってる。壁にはニコ生を見てる人のコメントがずっと流れてる。

小さな祭りが幾多にも重なって大きな祭りになっている。その間をゆるゆる歩いて、気がつくと別の祭り空間に迷い込んでいる。その感じがすごく日本的な気がした。

西洋空間感覚は、私的空間と公的空間の区切りがはっきりしていて、「私」=「個」だし、「公」はオープンものである。また、空間の内側にランドマークを有し、自分の位置がいつでも分かる。

一方、日本空間感覚は、「私」と「公」の隔てが緩やかである。「私」は完全な「個」ではなく、他者との結びつきを許容している。

例えば、昔ながらの家屋の部屋の区切りは障子で家族がどこにいても気配を感じられる造りだし、一人部屋ができたのも近年のことだ。

「私」の集合体もまた半分閉じられながら半分は開かれて繋がって、それらが寄り集まる場が「公」である。縁側、路地などは、その「私」の集合体どうしを緩やかにつなぐ機能をもつ。

その閉じられつつも開かれた空間を遷移する楽しさが日本空間面白みでもある。

まさに超会議ではその空間遷移の楽しさがあった。

これって海外の人が来ても、あの独特な雰囲気は新鮮さをもって楽しめるんじゃないだろうか。

私的空間...各コミュニティコンテンツ、があり、個々はすごく濃い。それらを渡り歩く感覚

その空間に何があってどうなってるのか知るのに俯瞰的な手段はとれなくて、自ら内側に入らないと分からない。

からこそそこに入り込んだ人に濃密な体感を与える。

これから先、超会議が開催されるのか、だとしたらどういう方向にいくのか分からないけれど、こういう特性は感じられるようなつくりであってほしいと思う。

ただぼんやり歩いてても人だかりがあって、立ち止まって賑わっているのを見る。それだけでも楽しい

それゆえに願わくばエリアをもう少しゆとりを持って設けてほしいなあと思った。

あ、あとニコニコ学会や超鉄道みたいなのを引き続き充実させて大人の文化祭であり続けてほしい。

初日も行けばよかったなあ。

  • ただぼんやり歩いてても人だかりがあって、立ち止まって賑わっているのを見る。それだけでも楽しい。 俺はネコ耳以外に何も興味をもたずにいったんだけど、ほんとうにこんな感じ...

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