はてなキーワード: さらとは
あ、追加の質問ね。いいよ、答えるよ。ビッグマックの片手に頑張る!
リオで初めて「ボサノバ」と認識される音楽を演奏したのは、ジョアン・ジルベルトっていうギタリストなんだ。彼が1950年代後半に、リオデジャネイロのクラブや小さなバーでギターを弾きながら歌い始めたのがきっかけだったんだよ。
ジョアン・ジルベルトのスタイルは、すごく独特で、サンバのリズムをもっと静かで控えめな感じにしたものだったんだ。これが「ボサノバ」のリズムって感じになって、みんなに広まっていったの。
彼の演奏スタイルは「バチーダ」とか「スウィング」って呼ばれることもあって、ギターのストロークとリズムがすごく特徴的なんだよね。このスタイルが新鮮で、多くの若いミュージシャンたちに影響を与えたんだ。
それと、ジョアン・ジルベルトの歌い方もすごく重要だったの。彼の声は、サンバの伝統的なパワフルな歌い方とは違って、もっと柔らかくて控えめで、まるで囁いてるみたいだったんだ。このスタイルが「ボサノバ」の歌唱スタイルとして定着したんだよ。
だから、ジョアン・ジルベルトは「ボサノバの父」って呼ばれていて、彼の演奏がボサノバの始まりとされているんだ。彼の影響でアントニオ・カルロス・ジョビンとか、ヴィニシウス・ヂ・モライスとか、他の才能あるミュージシャンたちがボサノバをさらに発展させていったんだよ。
そういうわけで、リオで初めて「ボサノバ」と認識される音楽を演奏したのは、ジョアン・ジルベルトなんだ。じゃ、今度こそビッグマック食べるね!
芦品先生は、自身の作品がドラマ化される際に発生した問題について、SNS上で声明を発表しました。しかし、その声明が予想外の反応を引き起こし、ドラマの脚本家が中傷されるという事態に発展してしまいました。このような展開は芦品先生の本意ではなく、「攻撃するつもりはなかった」と慌てて投稿したことからも、自分の言葉が誤解され、意図しない方向に事態が進んでしまったことに動揺していたのでしょう。
- 責任感と罪悪感:芦品先生は、自身の声明がきっかけで脚本家が中傷されていることに責任を感じ、罪悪感に苛まれた可能性があります。特に、創作業界では「表現の自由」と「表現による影響」のバランスが常に議論されるテーマであり、先生は表現者としての責任を重く感じたのかもしれません。
- 予想外の事態に対する恐怖:SNSは時に予想外の方向に世論を動かします。芦品先生は、自分の言葉がこれほど大きな反響を呼び、攻撃的な行動に繋がるとは予想していなかったでしょう。この想定外の事態に恐怖を感じ、パニック状態に陥った可能性があります。
- 創作者のプライド:芦品先生は漫画家として、自身の作品に強い思い入れがありました。その作品が自身の意図しない形でドラマ化され、さらにその問題を指摘した声明がさらなる問題を生んでしまったことに、創作者のプライドが深く傷つけられた可能性もあります。
- 孤立感と絶望感:SNS上で騒動が起きたとき、芦品先生はひとりで対応していたのでしょうか。所属する出版社やテレビ局などのサポートがあったのかは不明ですが、騒動の渦中で孤立感を感じていた可能性はあります。さらに、テレビ局側が何らかの対応をする前に先生が亡くなってしまったことから、事態の収束や解決への道筋が見えず、絶望感を深めたとも考えられます。
これらの要因が絡み合い、芦品先生は自殺という選択をしてしまったのかもしれません。創作者の表現は、時に思わぬ影響を及ぼすことがあります。この悲劇をきっかけに、SNS上での発言の重みや創作者の責任などについて、改めて考える必要があるでしょう。
小学生の時ちょっと好きだった子がいて、中学高校でお互いなんとなく変わったせいか恋愛感情はなくなって、大学は別の地域に進学して疎遠になって、最近連絡があって、相手の近況を聞いてまたちょっと気になり始めてしまった
とはいえ一度は変わったと思って恋愛感情を失ったわけだし、その人の前で他の人を好きになって狂ったようになったこともあって、今更好きとか嫌いとかいう仲ではないのだ
15歳の時の気持ちを25歳になって否定する?その気持ちは簡単に覆るものなのか、そんなに簡単にひっくり返るなら、またさらにひっくり返るのも簡単じゃないのか、こんな気持ち嘘じゃないか
人としてはこの上なく信頼している。子供の頃から知っていて、一方的ながら。親友というにはこちらが疎遠にしすぎたけれども
なんだか自分が浅ましい。あーいやだいやだ
「相手を人間として尊重しろ」「とにかく数を打て」ってブコメされてるけど、「女性と接するのが怖い」みたいな所に触れてる人がほとんどいないような気がする。異性と接することにトラウマを抱えている人はどうしたらいいの?
私は中学入学直後に、「階段で女子のスカートを覗いている」という根も葉もない噂を立てられた。女子からは露骨にキモがられてバイ菌扱い、カースト上位の男子には殴られるし蹴られるし暴言を投げつけられ、肉体的にも精神的にも辛かった。自分自身がキモいことを受け止め、誰にも加害しないように教室の隅でじっと本を読んでいても、向こうから突っかかって来るから、逃げ場はなかった。
すると、女性に嫌われる=社会的に死んで逃げ場すら無くなる、という思考回路が出来上がる。辛い思いを二度としたくないので、中学時代は徹底して女子から距離を取ってしのいだ。私からは絶対に話しかけない、目を合わせない、とにかく徹底して女子を避け距離を取る。今思えば逆効果だとも思うが、イジメられている状況では距離を取る以外に自衛のしようが無かった。
中学時代、私は異性から人間扱いされずバイ菌扱い、苦痛以外何一つ与えてくれなかった。だから、異性に対して尊重するとは?異性に何を与えればいい?私がしたことを、素直に喜んでくれる異性なんているの???
幸い、高校では男女問わず良い友人に恵まれたのだが、「相手を異性として尊重する」は全く分からないまま。友人として仲良くすることはできても、好きになった女子にどうやってアプローチしたら良いのかが全くわからない。大学も同じく、何をすればよいのか分からないまま、何も起きずに終わってしまった。
とにかく当たって砕けろ、数こなせと思われるかもしれないが、それだけは恐ろしくてできない。私には分からない理由で女子に拒絶され、また根も葉もない噂が立つかもしれない。辛いイジメに遭って、死ぬほど苦しい思いをするかもしれない。そんな生理的に強いブレーキが掛かるので、こんな風に誘えばいいとか、ネットにはこう書いてあったとか、頭で一生懸命考えたりしても、どうにも解決できない。
そうこうしている間に、時間がどんどん過ぎる。回りの友人は当たり前のように彼女を作る。自分だけが取り残される。さらに辛くなる。私のように彼女ができなくてしんどくなってる増田がボロクソに叩かれ、「まさに見た目より中身だよなという感じ。」とかコメントされているのを見て、私も中身がダメダメなんだろうなと思い、自己肯定感は更に低くなる。
「女性に嫌われても大したことは起きない」という体験を得るしかないのだろうか。アレルギーと同じで、摂取しなければ一生治らない。だが、少しでも摂取しすぎればショック死する。ショック死しない微妙な量を、少しづづ我慢しながら経験するしかない。しかし、それは意識的にできるものではないし。
だから、「相手のことを尊重しろ」とか、「自分のことばかり考えるな」とか、「とりまマチアプで数をこなせ」とか有り難いアドバイスを頂いても、やるせなく思うだけで終わってしまう。
日本語学習者を支援するボランティアの講習会(全3回、1回でも休むと参加資格なし)(3回しかないけど)に参加した。
特に資格は持ってないけど、外国人との交流が好きだったし、日本語を学ぶ人を通して私も学べることがあるはず!と思って、引っ越したばかりで娘の保育園も決まってないけど、義母や義姉に見てもらって、時間を作って行ってきた。
2回目までは楽しかった。資格がある教師と資格がない支援ボランティアとの違いを学んだり、「やさしい日本語」を使って実際に外国人と話したり…ディスカッションでアイデアを練ったり、「資格がなくてもあなたの気持ちがあれば日本語を教えられる!」という言葉で、資格がない私でもできるかも!って思った。誰でもできるっていう言葉を信じてワクワクしてた。
ボランティア団体の紹介をしてもらえたんだけど、だいたいどこのボランティアも参加するのに年会費が必要と。えっ、ボランティアって無償の施しだとは思っていたけど、むしろこちらが費用を負担するの?しかも高いところで年に7000円?ちなみに支援を受ける側の費用の負担は無い。えっ、無いの?あなたたちの使う会場やテキスト、その他諸々の費用も私たちが負担するってことなの?
様々なバックグラウンドの人が平等に勉強する場を設けたいというのはわかる。それに対してお金のかからないボランティアを募るというのもわかる。でも、自ら来日してきた人に対してマンツーマンで教えてあげる上にこちらが費用も負担って…それって私たちがしてあげる必要ある?
さらにはここへきて、日本語教育に関しての資格などがないと厳しいと。興味ある人はブースへお立ち寄りくださいって言われて、のこのこ行ったら無資格の方は必要ないかな…みたいな顔されて、恥ずかしかったわ。交通費かけて行って3時間みっちり講習を受けて、最後の最後で、資格がない人はちょっと…みたいな、酷くない?2回までの「気持ちでなんとかなる」みたいな講習、なんだったの。
費用も負担してくれる有資格者のボランティアを募集って、多くを求めすぎでは?
ボランティアをしたことがないんだけど、そういうものなのかな。
誰かの助けになりたくて、周りに協力してもらって子供預けて参加して、これから活動するなら定期的に見てもらえるところ探さなきゃなー!とかワクワクしてたのにな。
まあどれもこれも参加しなかったらいいだけど話なんだけど。そういう慈善活動は余裕がある人とか、誰かに施したいやりたい人がやればいいし。それはわかってるんだけど。
折角、頑張って参加したのにな。うまく言葉にできないけど、全部、蔑ろにされて無駄になった気分、なんだか泣ける。
子供連れて動物園行ったら、マイルドヤンキーめちゃくちゃいてビビった。そして彼らの言動に更にびっくりした。
フードコートではかき氷をとりあう兄妹に向かって「イジクソ汚いことすんな!」ってお母さんが叱ってた。「意地汚い」だけでも充分に汚いのに、さらに汚い言葉にできる言語環境やばすぎん?
アラサーを迎えて振り返ってみると、リアルはもちろんネットの世界でも友達と呼べる人が皆無な事に気が付く。
仕事の人間関係はあるが、ここには自己を開示できるような関係は無い。
それは自分自身、仕事は自己とビジネスを切り離してきたのもあるし、同僚もそのように考えている人がほとんどなので、押し売りのような事を避けたいからというのもある。
孤独には耐性がある方だとは思っていて、死ぬまで一人でも耐えられるかなとは思っていた。
しかし、それはそれとしてせっかく生きるなら楽しめた方が良いとは思う。
友達がいれば自分の好きなものを共有できるし、自分の知らない世界を見せてくれることもあるだろうし、それはきっと幸せなことなんだろうと思う。
白状すると、わいわいVC繋いでオンラインゲーム楽しんだり、そういうものに憧れがある。それを体験せずに死ぬのもなんだか損な気がしてくる。
こういう問題意識というか、あるいは下心によって、年齢や環境的に既に手遅れかもしれないが友達を作ろうと考えてみる。すると、思考を深めるほどに私には友達の作り方がわからないことが分かる。
結局のところすべての人間関係はギブアンドテイクで成り立つものなんだと思う。
人が友達を作るのは、自分の話したい事柄について1話すと10返ってくるような、そんな知識量があったり、あるいは私もそういうのを期待している通り知らない世界に連れ出してくれるのも嬉しいだろう。
または、ルックスに優れていて関わっているだけで楽しくなったり、趣味に合う創作物があったり……つまり、与えられるものがあるから友人になりたいと思うし、思われるのだろうと。
逆にこれを満たせない人間とは関わりたくないものだろうと。そんなものだと思う。
では自身を顧みるとどうか?私にはいくつか趣味や好きなものがあるが、ミーハー気質で幅は多分あるものの底は浅め。
ただ、それ以上に私の好むコンテンツというのがどれもメジャーではないような、人を選んでしまうようなサブカルばかりなので、多くの人と共有できる話題をほとんど持たない。
何かしら創作を通じて自己表現ができればと苦悩はするものの、将来への不安から金につながる短期的なことばかり、例えば仕事関連の事に時間を割いてしまい、人に見せられるようなものはさらさらできずじまい。
本当は金の事に苦心する生き方なんて反吐が出るほどしたくないのに。人と会話するための話題が不足してしまうのも、こういうのが原因なんだろう。
更に内向的な性格なのでそもそも人と関わること自体が苦手。それはそれとして寂しさは感じるからめんどくさい人間だと思う。
少し愚痴っぽくなってしまったが、こんな人間なので人に提供できるものなんて無いんだろうと思う。
要するに現代においては私よりもよっぽど時間を割くべき価値ある人々で溢れている。SNSを通じてそういう人々とつながることができる。ゲームだって下手くそよりは上手い人としたいだろう。
なんだったら大抵の場合ChatAIとでも話してたほうがずっと楽しいし有意義なんだろうと思う。
実際私自身も仕事の悩みやスキルアップのメンターのお願い、あるいはこういう人生の悩みの相談をChatGPTにしてもらうことが多々ある。きっとAIがなければ人に投げかけたはずの話題を機械で解消してしまう。
だから、人に声をかけるところまで至れない。友達を作るための最初の一歩を踏み出すことが出来ない。
出来ないと分かりきっていることに時間を割くほど私も暇ではないし、恐らくスパム扱いされるようなリプライを他人に投げかけて時間を無駄にさせてしまうことも申し訳なくなる。
とはいえ、結局自分自身の悩みの原因は自分自身のギブアンドテイクではない人間関係を想定できない狭い世界観とそれに裏打ちされた行動によって縛られているからなんだろうとは思う。
では、世界のすべての人は世界一の人だったり優れた人間とのみ繋がっていれば良いではないか、ということになるものの、実際にはそうはならない。
世の中には明らかに問題のあるような人ですら多くの友人に恵まれているというのを多々見るので、このような砂漠のような人間観に対する反証はいくらでも思い浮かぶ。
きっと世界は自分が思ってるほど厳しさに満ちたものではなく、恐らくもう少し優しさを内包しているんじゃないかなと。
今は「友達が欲しい」という、まだ自分の中では深刻でない悩みとして表出しているものの、他人を頼れないから嫌でもお金を優先して生きなきゃいけないと思いこんでいたり、そういう更に切実な問題に繋がっている気がしないでもない。
閑話休題、だからこそ、私にはわからない、ギブアンドテイクではない友達というのはどうしたら作れるのか?きっと存在するはずのその疑問の答えを見つけたい。
そんなものが本当に成立し得るのか全くわからないし、こういう問題はAIにも答えられないだろう。でも、これを解決しない限りは私は他人に対して希望を見いだせないと思う。
色々詰め込みすぎてしまって長くなってしまって申し訳ないです。こんな長文をここまで読んでくださった稀有な方で、さらにもしも友達に恵まれている方、あるいは同様の問題を抱えていたものの解決できた人がいれば、この哀れで孤独な人間に少しの同情心を持っていただき、その心得を少しでも分けていただきたいです。
都市と田舎の文化資本の格差について話題になるとき、そこで一番問題とされているのは、要するに「何かの道に進もうとしたとき、それに対してどれだけ可能性が開かれているか」という点だと思う。
その点において、俺はやはり都市と田舎には大きな格差があると思うのだが、地域に根差したコミュニティに着目すると、その格差をうまく説明できる気がした。
まず、俺が育ったのは野山と田畑に囲まれた僻地の農村で、鉄道も通っておらず、産業といえば農業と林業ぐらいしかない、田舎の中でもさらに田舎の方だ。
その俺が上京して15年経つが、田舎と東京の違いは、何よりもコミュニティの多様性にあると思っている。
東京という括り全体でいえば、東京には本物の富豪が住むような豪邸エリアから、町工場が並ぶ下町エリアまで何でもある。
あらゆる社会階層の人が東京に暮らしていて、それぞれの階層ごとにコミュニティを形成している。
学校や職場も一種のコミュニティで、東大からFラン校まで、大企業から零細企業までなんでもありだ。
人口が圧倒的に多いので、マイナーな分野でもそこそこの人が集まり、その分野でのコミュニティの形成が可能になる。
人口流入はほとんどないのでコミュニティのメンバーは何十年もあまり変わらず、同じ小学校を出た人同士が50年経っても固まっている。
地元の名士や地方議員のような人もいるが、社会階層が明らかに違うような人はレアキャラだ。
大きな会社は存在せず、大学も存在せず、高校はあっても底辺校ぐらいしかない。
大学進学でも目指すとなると、必然的に田舎を離れることになり、多くの人はそのまま帰って来ない。
一言でいうと、東京には「上」から「下」まで何でもあるのに対し、田舎には「上」がない。
「上」を目指そうと思うなら、同じく「上」の人々が集まるコミュニティに所属しないのは不利だ。
受験勉強にしても、周囲の大人に受験経験者が少なく受験への理解がない、同年代の受験生仲間が少ない、といった形で田舎の受験生は不利を強いられる。
東京でも育った環境によっては似たような状況になるかもしれないが、そこから這い上がるための地理的制約の有無が、田舎との差だ。
もっとマイナーな分野、たとえば現代美術とかセパタクローとかで「上」を目指そうとしたら、田舎にはコミュニティどころかそれを教えられる人もほぼ存在しない。
なので、田舎に生まれた子供がそれを目指そうとすること自体が稀なことなのだが、何かのきっかけでそれを目指す子供が生まれた時に、格差に直面することになる。
田舎に美術館がないというのも、そういう人にとってこそ致命的な問題となる。
そういう点で、田舎で暮らすと何かの道に進もうとしたとき、その可能性が大きく限定されてしまい、それこそが都市と田舎の格差なのではないかと思う。
俺が想定したレベルの田舎ではない、もう少し大きな地方都市であっても、程度の大小はあれ、似たような傾向なのではないかと思う。
ゲーム画面見られて「何その露出度高めのナリしてる娘!?成長期の子供にそんな格好させるなんて発想の源が狂ってる!」ってドン引きされた
「全年齢対象だから!エロゲじゃないよ!」って言い訳したけど「あまりにさらけ出された猥褻さが酷く…大人びたスタイルなんてアンバランスな…!思慮が足んないよ!涙止まんないよ!」ってギスギスしてる最悪の空気になっちゃって
俺はロリコンじゃないって説明したけど「ガッカリだよもういいよ…何万回言われても同じこと…」って聞く耳持たないからこっちも「もう無理だよ…」ってなって別れた…😢
もっと具体的に言えば、統計を「平均」のことだと思い込んで、「分散」を考慮に入れて議論することができないから。
個々のデータと平均値の差の2乗の平均のこと。分散が大きいとデータのバラツキが大きい。
分散の平方根を「標準偏差」という。平均値を50とし、標準偏差を10とするようにスケールし直したデータをおなじみ「偏差値」と呼ぶ。
分布が正規分布に近い場合、凡そ68%が偏差値40〜60の間に収まる。また95%が30〜70の間に収まる。
もともとの日本の「一億総中流」のような、多様性を否定する信仰がさらに「平均以外に意味はない」というバイアスを強めている可能性がある。
日本人にはもともと「普通」を定義しその中に収まるという強い欲求があるために、たとえ義務教育で統計の基礎を学んでいても、その中から「平均」という普通の定義だけを学び、「分散」という多様性の定義を学ばない心理的取捨選択があるということだ。
増田自身、男女の能力差に関して「統計的に考えろ」とここに書いたら、「女は男より(平均で)下だと統計が言ってるんだ」と騒ぐやつばかりで話にならなかったことがある。
統計的に言えば、「普通」と言うのは、例えば偏差値40〜60のように平均以上以下に幅を持って定義しなければ意味がない。平均の周囲どれだけに何%が収まるのかという分散の発想なしに「普通」は本来定義できない。
「生活保護基準」と「相対的貧困ライン」は、それぞれ別の定義で、別の目的で作られた概念だが、結局は同じ層だよねってなることが学術的に知られている。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853651279758080
相対的貧困ラインは「可処分所得(手取り)」が中央値の半分を下回る水準であり、これは収入格差が大きいほど当然拡大する。
欧州などは10%程度に抑えられているが、日本のように16%もの相対的貧困層がいる場合、「生活保護の本当に必要な人」は1000万人〜2000万人は見積もる必要があると統計を理解していれば必ずわかるのだ。
ずっと余命ブログ案件だと思ってたが、実はこっちのほうが先だし近い気がする。
1. 時は遡り、約15年前、2008年に日本ユニセフが「なくそう!子どもポルノ」キャンペーンを開始。児童ポルノ好きのネット民が表現規制だと怒りだす。
ttps://www.unicef.or.jp/special/0705/backnum/080328.html
2. さらに日本ユニセフ協会大使であるアグネス・チャンの画像からネット上で日本ユニセフ叩きが始まる。
ttps://news.yahoo.co.jp/expert/articles/584adbe7e1338fc10c9cc261af9d10d3d6b75aa5
3. 釣られて、ブログで日本ユニセフを誹謗中傷した結果、訴えられるブログユーザー。(2010-10-09)
https://web.archive.org/web/20190527102956/https://kitaharak.exblog.jp/15259056/
4. 西村博之が「アグネス・チャンさんへの公開質問状」と難癖に乗っかる。(2013-11-14)
https://megalodon.jp/2013-1118-2152-15/hiro.asks.jp/90907.html
5. 虚構新聞もなぜか乗っかり 「日本ユニセフ、寄付金の流れ透明化へ」記事を公開。(2013-11-18)
なお、削除依頼が来て削除するが、有料メルマガではそのまま全文公開している。
https://web.archive.org/web/20131125152811/https://ch.nicovideo.jp/kyoko-np/blomaga/ar395555
削除までの経緯:https://web.archive.org/web/20231117184604/https://kyoko-np.net/kenkai1311.html
6. 削除するが、削除したことをネタにして茶化す。これが2024年の今でも残ったままである。
https://kyoko-np.net/2013111801.html
なお、ブコメ見る限り、2013年当時のブクマカもドン引きである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kyoko-np.net/2013111801.html
だ。それなのにやたら女を「自分達とは別の存在」にして救われようとしたり、逆に蔑んで性欲や承認のサンドバッグにしようとするのダルい。
中身変わんねえよ〜男と。ただのボディタイプ2だよ。心が女とかねえし、スカートと長髪は女かどうかと一切関係ない。家ではチーズ牛丼食べて鼻ほじってウンコしてあいつぶっ56すとか言ってるよ。毛は処理しなければモサモサさ。夢見んなよめんどくせえな。
アイドル2次元AV…その辺の女を模った商売道具、そっちを女だと思われると迷惑だから、一部の女はことさらそういうのが嫌いだ。そういう都合よく作られた幻想を、ちょっと身体が違うだけで社会的要請に応じて毎日女装してるだけの人間に求められても困るんだよ。
女女女誰でも良いやらせてくれハアハアってしてる男ちょっと哀れすぎる。言い方酷いけど女、って脂肪付きの良いケツアナ開発済みおじさんとそんな変わんないのに、勝手に価値つけてそれにモテたいとか苦しんでる。可哀想。ただの人間だよ〜。
マックのJK曰く、労働者の権利を守るためには、まず団結せねばならぬ。曰く、「団結すれば力となり、分かれれば力を失う」。まさに、ユナイトという言葉にその意を見出す。
シェイク飲むJK、うなずきて曰く、そは真なり。曰く、「人権とは与えられるものにあらず、戦い取りしものなり」と。かつ、ルーサー・キングもまた「自由は押し付けられるものにあらず、求めて得るものなり」と説きたり。
マックのJK、さらに言い添えて曰く、適切なる賃金と労働環境を得るには、声を上げねばならぬ。曰く、「沈黙は常に暴力の味方なり」。声を上げることこそ、権利を守る道なり。
シェイク飲むJK、同意して曰く、そは確かに。曰く、「不正を見過ごすことは、不正を助けることなり」。われら、正義を求める者として、不正に立ち向かう覚悟を持つべしと。
かくして、両JKは語り合い、労働者の権利を守るための道を探りしなり。団結と声を上げることこそ、労働者の権利を守るための第一歩なりと心得たり。
正しいんじゃなく外面だけを気にしてるだけ。身内の扱いをおざなりにして外の評価を上げているだけ。電車とか街中のエピソードばっかで家庭内の話がまったくねーじゃん。親を旅行に連れていったとか、親にプレゼント上げるとかさ。普通あるでしょ
典型的な内弁慶。周りからどう見られているかがものすごく大事だから、疲れ切ってる彼女を立たせてもなんとも思わないし、彼女が寂しい思いをしていても何も感じないだけ。
彼氏にとって身内の評価なんて上げても、外的評価につながらない。価値が低い。
イベントで彼女と楽しい時間を過ごして彼女から好かれるよりも、店の中で泣きわめいて注目を集めてるガキに整理券を渡して注目を集めたほうがよりたくさんの人から良い人だと思われるじゃん。でもお前なんかに気を使って集められる好感度はお前ひとり。それって俺にとってなんか得になんの?
彼女に対して善性を要求してるのではなく、彼氏の外的評価を上げるためにお前も我慢しろ。さらに言えば俺の評価がもっと上がるようにお前も自分を犠牲にして、他人に奉仕しろ、でも俺がお前に尽くすことにはリソース避けられないからって言ってるだけ。
そう言う男は人から見られてない空間だと人に対して冷酷。人から評価されることが全てで他人に普段身を削って尽くしている分、家庭とか身内に対してはすごくセコくなる。外面が良い男ほど過程では経済DVしたり暴力振るうってのはよくある話。
「私たちは東京藝術大学に、イスラエルの国立美術学校、ベツァルエル美術デザインアカデミーとの国際交流協定の打ち切りを求めます。
イスラエルのベツァルエル美術デザインアカデミーは2023年10月9日、イスラエル軍がパレスチナ被占領地ガザ地区への侵攻に備える増派のため予備役36万人に大量動員をかけた際、軍服や装備品の大量不足を補う目的で、関係者の主導により臨時の縫製作業所を構内に設置。特に同月中旬からは朝8時から夜21時まで約80人のボランティアを働かせて、スタイリッシュかつ機能的な軍服や装備を生産していました。
美をジェノサイドに役立てる学術機関と国際交流を続けても害しかありません。実際このために、ノルウェーのベルゲン大学(2月)、オランダのハーグ王立美術学院(4月)および同国のアイントホーフェン・デザインアカデミー(5月)が、現時点までに提携解消または交流凍結を発表しています。このほか、米ニューヨーク州のクーパーユニオン美術デザイン学校、米ロードアイランド州のロードアイランドデザイン学校、米イリノイ州のシカゴ美術館付属美術大学、ドイツのベルリン芸術大学でも学生や卒業生から提携打ち切りを求める声が強まっており、時間が経つにつれて提携打ち切りはさらに広がる見込みです。
東京藝術大学は日本国における美術および音楽の最高学府として、イスラエル軍によるこの歴史的な戦争犯罪と人道に対する罪を前に決して沈黙したままでいることなく、これらを明確に非難する声明を出した上で、これらに加担したベツァルエル美術デザインアカデミーとの国際交流協定を速やかに打ち切ってください。」
ガザ大虐殺への加担を許さない東京藝術大学の在校生・卒業生および市民有志一同
このわけわからん理屈で、性犯罪者を女子刑務所に入れてさらに強姦させるとか、女子スポーツや女子ボクシングに男性参戦がまかり通ってんだから、世界が狂った感がすごい。
ノベルスがライトノベルか否かって言われたら雑なノベルス語りをしたくなってきたぜ!!!!!
ということでしていきます
そもそも「ライトノベル」と「ノベルス」を分ける定義の人たちってのは昔から連綿と存在していて、例えばノベルスって言うとどういうものかっていうと以下のようなレーベルです
等々……
さて、ライトノベルとどう違うの?と言われると、ものすごい簡単にいうと「文庫か新書か」という分け方になる
ライトノベルは主に「文庫」で書かれているレーベルを指すことが多く、ノベルスは「ノベルス版(新書版)」と呼ばれるちょっと細長い感じの本で二段組で書かれているものを指す。
違いはそれだけか?と言われるとまあそれだけなんだが、もうちょい踏み込むにはノベルスの歴史を知る必要がある
1950年代ごろだと、そもそも日本における新書サイズの本と呼ばれるものは「岩波新書」に代表されるお堅い学術書が主だったもので、それに対して光文社が「大衆向けのもうちょいわかりやすい教養レーベルを作りたい」として作ったのが「カッパ・ブックス」と呼ばれるレーベルになる
(余談だが著者近影という文化を始めたのもこのレーベルが初らしい)
で、そこから姉妹レーベルとしてフィクションや物語を扱う「カッパ・ノベルス」が創刊された。
カッパ・ノベルスは松本清張や西村京太郎、小松右京など書いた日本のミステリやSF等エンターテイメント小説に多大な影響がある作品を出して大ヒットを飛ばした。
それを見た他の出版社もこぞってノベルスレーベルを立ち上げてそれぞれのレーベルで作品を発表していった。
これが大体1960年から1980年くらいにかけてのものすごい大雑把な流れで、ライトノベルより早い段階で日本のエンターテイメント小説にノベルスは多大な影響を及ぼした
特に、ミステリやファンタジージャンルに関してはこのノベルスの影響度が尋常じゃないほど高く、ミステリだとカッパ・ノベルスや講談社ノベルス、ファンタジーに関してはC★NOVELSなどで有名作品が数多く存在する
じゃあ、なんでライトノベル定義論でノベルス含む含まない論争になるかというと、ここからは若干雰囲気ベースになるが「出自のターゲット層」じゃないかというところになる。
ノベルスは刊行されているものを見てみるとわかるが結構ターゲットの年齢層が高い。ぶっちゃけサラリーマンとかそっちくらい向けの作品群が多いのだ
この辺りはレーベルの当初から社会派ミステリの松本清張などを使っていることからも伺えるだろう
内容としてもハードボイルドや伝綺小説などが多く、いわゆるエンターテイメントの中でも硬派でおじさん主人公のものも結構多い
対してライトノベルというものは、ジュブナイル小説と呼ばれるいわゆる青少年向けの文化に影響を強めに受けていて、ターゲット層的にも青少年ないし大学生くらいが主だったターゲット層になる
この辺りの歴史的経緯から来る文化圏の違いみたいなものが、「含まない」という人たちが多い理由のひとつだろう
では逆に、「含む」派閥がなぜいるのか。というと、そもそもノベルスの歴史を見てもカッパ・ブックスの成り立ちからして、「大衆向け」でありエンターテイメント小説の土壌としてあったのはここまで話した通り
で、ライトノベルも言ったらエンターテイメント小説の集合の一部なわけで、まあ内容的に近しい作品が多いからだ
この辺り、時代を経るにつれライトノベルとノベルスというのは似た成長を遂げた経緯を歩んだところがある
ライトノベルは様々な近傍の文化(漫画やアニメ、ゲーム、ジュブナイル小説)をごった煮でまとめていったというのだけれども、
ノベルスは時代が経るにつれて対象である「大人たち」の変化を受けて、アニメや美少女ゲームの文化、さらにその近傍の文化を取り入れていき、ライトノベルと似たような変遷を辿っていった
特にこれらを取り入れていったのが、講談社ノベルス(及び講談社BOX)とC★NOVELSである
講談社ノベルス(BOX)で言うと、西尾維新や奈須きのこ、佐藤友哉など
上記の作家たちは、ご存知の通り小説もさることながら、アニメやゲーム、漫画などにも多大な影響を与えていった(というか奈須とかに関してはゲームがそもそも出自ではある)
これらの作品群は内容的にライトノベルでも出ていてもおかしくない作風のものもあれど、ノベルス刊行になっている
また、ライトノベルにおいても、「C★NOVELSで出てそう」「講談社ノベルスで出てそう」みたいな作品は結構ある
(個人的には紅玉いづきさんとかはわりとC★NOVELS風味かなと思ったりもする)
実際「ブギーポップ」シリーズの上遠野浩平は講談社ノベルスで「殺竜事件」等の「戦地調停士シリーズ」を書いているし、ラノベ出身の作家がノベルスレーベルで書いている例も多い
こういった経緯で位置としてはめちゃくちゃ近い位置にあれど、しかし、ノベルスをラノベに入れるか?みたいなのがとても別れやすい、という妙な性質がこの二つにはある
個人的には、まあ歴史的経緯もあるし、レーベル史観でいいんじゃね?という意見なのでノベルスはノベルス、ライトノベルはライトノベルでいいかなあと思っている
ただここまでの歴史的経緯を踏まえても、現状似ている作品群も多いというのはあるので、含める気持ちもわかる
なので、もし今後議論する際には内容派閥かレーベル史観派閥かの宣言くらいはしてもいいんじゃねえかなあと思う
ただそれはそれとして、ノベルス、ライトノベル双方に面白い作品はたくさんある
ノベルスが好きな人も、ライトノベルが好きな人もそれぞれお互いに合う作品は結構あるので探してみるのもいいのではないだろうか
24/06/01
指摘があった「ノベルス」と「ノベルズ」の表記ゆれを修正。ちなみに表記は「novels」を日本語読みしたものなのでどっちもあるっぽく、出版社によっても呼び方に揺れがある。(トクマノベルズはズ、講談社ノベルスはス)。自分もなんかノベルスっていったりノベルズと混ざっていってしまうので癖です……
親切にも人間をほどよく剪定して、地球環境と人類文明を持続可能にしてくれようとしたありがたい益獣。
どう考えても歯向かう意味はなかった。
不幸にも『人間化』してしまったようだが、新種が現れることを祈るほかない。
鬼が残存していれば日帝は侵略どころではなくなり、東アジア地域の平和は保たれていたことだろう。
さらに鬼のいる地域にわざわざ侵略する国もないだろうから日本の安全保障にもなっていた。
9-10年ぶりのPCとしてMacBook Air買ったけど、USB4.0っていうのになってて、今までずっと使ってたUSBが挿せなくなってた。
なのでマルチハブ? ドッキングステーション? 買った。エレコムのDST-C05BKってやつ。公式サイトだと16,280円って書いてあるけど、近所のノジマで6600円だった。さらにエポスカードで10%OFF期間だったので6000円。
ヨドバシ.comでUSB4.0のマルチハブって探すとなんか高いのしか出てこなかったけど、近所に安く売っててよかった。
てか、ヨドバシだとDST-C05BKは12,840円になってる。ノジマは期間限定のセールか何かだったのかな? ノジマオンライン見ると11,169円って書いてある。
これで従来のUSB、HDMI、SDカード、LANとか使えるようになった。
MacBook Airは電源つけるところとUSB4.0が2個とイヤホンの穴しかないので、すごくシンプルですっきりしたデザイン。
MacBook ProはSDカードスロットとかもついててAirのシンプルさと比較すると結構ごちゃごちゃしてる。
今Proは高くて買えないし、以前はPro買ってた人も今はAir買うんじゃないかな。
10年前はProが16万くらいだった気がするけど、今はAirが16万くらいするんだよー。
今回買ったのはM3チップで、メモリ16GB、ストレージ512GBのやつ。色はシルバー。22万した。
また10年使う予定。
あ、前回のMacBook Proはトラックパッドが2年経たずに壊れてずっとマウス使ってたんだけど、今回は壊れないでほしいなあ。
仮に誕生日やクリスマスで1万円の物を相手に贈っていて、自分は欲しい物ないからと5千円で済ませていたとする
すると彼に対して年間1万円は貯蓄が生まれるよね
さらにほんとは「欲しいものがない」そうなので今後はプレゼントなしと仮定すると年間2万円の貯蓄になる
年間2万なら50年で100万だ
等価交換できるだろう
なんで今後もずっと家族になろうとしている相手に「すぐ」同額のお返しをしなきゃいけないんだよ
[B! togetter] 夫が上司(既婚者女性)に相談してたらしく100万オーバーの婚約指輪をねだるヤバい奴認定されてしまった話→ 5年後でも10年後でも何かの節目や記念日に貰うことに