はてなキーワード: 評価とは
例が雑ゥ!
社員全員がインド人のインドの会社に日本人を就労させても、インド主体でインドのやり方に日本人はあくまで従うだけになる
仮にインドの会社に日本人が就職したなら、インドの流儀に日本人が合わせて当たり前では???
となると、会社を日本とインドの両方を主体にしなければならないが、そのためには無理やり日本人を多く起用するしかないし、過去の評価も体制も破壊して日本向けに変化させる必要がある
何で??? インドの会社に就職したんだから、インドの流儀に合わせるのは当たり前でしょ???
中国人が大勢日本で就職してるから、従来の日本の会社組織を破壊する! ってなったらおかしいでしょ??? 中国人が日本の流儀に合わせるべきでしょ???
アファーマティヴ・アクションがある程度正当化されるのは、
場合に限られるべきだろう。
アメリカで黒人がアファーマティヴ・アクションの対象になるのはわかる。彼らは、望んでアメリカに来たのではなく、無理やりアメリカに連れてこられた(かつ、奴隷化された)人々の子孫であるからだ(逆に言えば、オバマのような、望んでアメリカに来たケニヤ移民の子供は、一切、そのような優遇措置の対象になるべきではない。彼らには「差別されない権利」があれば十分だ)。
仮に日本でやるとして、アイヌ民族へのアファーマティヴ・アクションは賛成できる。彼らは軍事力によって無理やり日本の一部にされた側なのだから、特別な配慮を享受する資格がある。
あるいは女性のアファーマティヴ・アクションもいいだろう。女性は元からこの社会にいるのだから、、特別な配慮を要求してもよいかもしれない。
しかし、例として挙げられた「インド系企業での日本人のアファーマティヴ・アクション」なんてありえない。インドにおいて日本人は先住民でも何でもないんだから、日本人がインドに合わせて当然だ。それは、日本に来たインド人が日本のやり方に合わせるべきなのと同じだ。
歴史的に男性の方が当選しやすい環境があらゆるレベルで作られてるから、そこを男女同数にするには積極的是正措置に頼らざるを得ない
という話
社員全員がインド人のインドの会社に日本人を就労させても、インド主体でインドのやり方に日本人はあくまで従うだけになる
あらゆる制度もインド人向けだし宗教観もインド人を想定してるし評価もインド向け
偉い人はほとんどがインド人か、インドに同化しまくった少数の日本人にしかなりえない
となると、会社を日本とインドの両方を主体にしなければならないが、そのためには無理やり日本人を多く起用するしかないし、過去の評価も体制も破壊して日本向けに変化させる必要がある
「ありのままの自分を受け入れて欲しい」「受け身でも構って欲しい」なんて言うとたいていは批判に晒される
弱者男性にも良いところはあるはずなんだよ
それが見た目や態度によって「即チェンジ」されるから恋愛まで発展しない
弱者男性が取るべき戦略は多くの男女が行う短期決戦ではなく、長期持久戦
サークルや趣味の集いなど「強制的に関わらないといけない」場に参加して「即チェンジ」を無効化する
それがスタート
あとは徐々に弱者男性の良いところに気づいてもらえることを待つ
ひたすら待つ
もちろん会話はしないといけないぞ?告白とかアプローチはせずに待つという意味だ
相手に彼氏ができようが我慢だ。どうせ元彼は存在する。同じ同じ
あとはこの長期持久戦をできるだけ多い場所で実行する
それを覆すために見た目を整えたり、学歴つけたり、資格取ったりして評価を上げようとする
「他人は自分のことなんて見てない」ってのは違和感を持たれない存在であることが前提であって
コミュニティの人間は、まともに話したことがなくても主に経験則やノンバーバルコミュニケーションを通して、人柄や価値観を測ってる
情報共有も早いから増田のそれはバレバレで、男女を問わず「地雷」で評価が固定化しているように思う
だから手っ取り早くいくなら同世代の「女の子」は諦めて、マーケット・インの思考で親くらい年上の人とか、自分がアドとれる全くステージの違うとこ行くしかない
お金があるならプロのスタイリストに「フィードバック」してもらうのが一番いいのでは
この手の人は「俺にはこれしかない」的な独りよがりなスタイルに走りがちだけど
あなたは自分のちゃんとした評価が知りたいと思ってるのに何かもったいない
学校のランク分からないけどB3からカースト逆転狙うよりは就活頑張った方がいい
正しいんじゃなく外面だけを気にしてるだけ。身内の扱いをおざなりにして外の評価を上げているだけ。電車とか街中のエピソードばっかで家庭内の話がまったくねーじゃん。親を旅行に連れていったとか、親にプレゼント上げるとかさ。普通あるでしょ
典型的な内弁慶。周りからどう見られているかがものすごく大事だから、疲れ切ってる彼女を立たせてもなんとも思わないし、彼女が寂しい思いをしていても何も感じないだけ。
彼氏にとって身内の評価なんて上げても、外的評価につながらない。価値が低い。
イベントで彼女と楽しい時間を過ごして彼女から好かれるよりも、店の中で泣きわめいて注目を集めてるガキに整理券を渡して注目を集めたほうがよりたくさんの人から良い人だと思われるじゃん。でもお前なんかに気を使って集められる好感度はお前ひとり。それって俺にとってなんか得になんの?
彼女に対して善性を要求してるのではなく、彼氏の外的評価を上げるためにお前も我慢しろ。さらに言えば俺の評価がもっと上がるようにお前も自分を犠牲にして、他人に奉仕しろ、でも俺がお前に尽くすことにはリソース避けられないからって言ってるだけ。
そう言う男は人から見られてない空間だと人に対して冷酷。人から評価されることが全てで他人に普段身を削って尽くしている分、家庭とか身内に対してはすごくセコくなる。外面が良い男ほど過程では経済DVしたり暴力振るうってのはよくある話。
イリヤの空、UFOの夏はそもそも当時でも好きな人は好きかもねくらいの評価だったし
カブトムシみたいに美しくなりたい。
カブトムシの角や光沢、見た目の力強さと儚さのコントラストは、実際に手に取ってみないと分からないものだ。その美しさは、表面的なものだけではなく、存在そのものにあるのだと思う。私はそんな内面から滲み出る美しさを手に入れたいと願っている。(美談)
日常生活の中で、私たちはどうしても見た目や表面的な部分に囚われがちだ。スマホのカメラに収まる範囲で自分を評価しがちだが、実際にはそこに写らない部分こそが本当の価値を持つ。人間関係も同じだ。見た目や表面的なやり取りだけでなく、その奥にある感情や思いが重要なのだ。でしょ?
多くの場合、人は自分の価値観や考え方が正しいと信じてる。でも、正しさだけで人を惹きつけることはできない。むしろ、完璧すぎる正しさは、時として距離を生む原因にもなる。人間らしい弱さや不完全さが、逆に魅力となることもあるから。そう、カブトムシみたいに。(?)
過去の恋愛を振り返るとき、私は彼の正しさに圧倒され、息苦しさを感じることがあった。それは、彼が悪いというわけではなく、私がその正しさに対して自分を見失ってしまったからだ。カブトムシのような自然な美しさとは、無理に完璧を目指すのではなく、自分らしくいることにあるのだろう。どや?
日々の中で、自分を偽らず、本当の自分でいることの難しさを感じることもある。それでも、自分自身を大切にし、自分らしく生きることが、最終的には最も美しい生き方だと信じている。写真に写らない美しさを追求すること、それが私の目指すべき道だ。
なんか一部で名付けで「萌」を「も」と読んだり、「翔」を「と」と読んだりするのはおかしいというような風潮があるが、理由がよくわからない。
これらは普通にある訓読みなので名付けの読みで使ってもなんらおかしいことはない。
「萌える」も「翔ぶ」もどちらも漢和辞典に載っている読みである。
歴史的にも、
壬生忠見(みぶのただみ)の「見」
など、名前の読みで訓読みの送り仮名を省略して使う事例は多々ある。
確かに萌歌とか勇翔とかは最近出てきた使い方かもしれないが、漢字の読みの原則としては上記の歴史的な例と使われ方に違いはない。
これが例えば「星」を「ほ」と読ませるようなのはさすがに若干キラキラ感が出てくるとも思うが、訓読みの送り仮名の省略は伝統的にも普通に使われてきたとしか評価しようがない気がする。
男は進学でも昇進でも常に女より有利
男子よりも少しでも有利になるために学歴をつけようと必死に受験勉強してその勝負の日である
普段から女が性被害を訴えるとバカにしてくる男が道端で親切にして「俺かっこいい」とか言ってるのは気色悪い以外ないじゃん
その場で俺かっこいいしたいだけで
それはだるいよ
つって女の悪評振り撒くのに必死じゃん
ない方がマシだよ
1日の善行ではなく
今までの行動積み重ねた上で評価されてんだよ
ほんと気持ち悪いよね
散々同級生にも先生にも迷惑かけまくったヤンキーが卒業式の日に誰よりも「やり切った感」出して号泣してるの見て心底冷めるのに似てる。
デート中に老人2人も助ける機会あるの、おもろすぎるやろ
ブコメのこれが結構本質で、高齢化がヤバいから見かけた徘徊老人なんかいちいち助けてたら家庭支えるのにやってらんないと思うよ過労死で死んじゃうよ
「怒る」以外の出力をしなかった女もお似合いレベルのアホだけど、徘徊老人を助ける奴は一貫性のない風見鶏
あと10~20年くらいで道歩く人類の1/5くらいが徘徊老人だったり壁にウンコをなすりつけるのをロンドンの乞食並みに無視するみたいな光景が普通になるのに
その時になってもその態度崩さずにやっていけんのか
まあやっていけるならいいけど、もう無理ってなってその時になって突然見捨て始めるならマジでありえねーって思う
・その内容への評価は上々だった
てな感じで自分の意図したことは全て実現し、メチャクチャ沢山の人が自分の味方になってくれたわけだ。
しかし普通は自殺する人って「自分の思い通りにならない」 「自分の味方がいない」という状況から
「自分はいない方がよいのではないか」という気持ちが高まって自殺するものじゃないのか?
なんか
とか言われて
は?辛いの?って聞いたら
「その絵師は昔、インフルエンサーと相互で、そのインフルエンサーからの依頼で有名絵師になった。」
「俺もそのインフルエンサーと相互の絵師だったから、もしかしたら俺が有名絵師になってたかもしれない。」
って話されてさ
反応に困った
飛躍しすぎたたらればと妄想すぎる
新潟は米も野菜も魚介も肉も、ついでに酒も全部質が高いってイメージがある。
( ^ω^ )
「くらやみの速さはどれくらい(Speed of Dark)は、アメリカの作家エリザベス・ムーンによるSF小説。2003年にネビュラ賞を受賞し、アーサー・C・クラーク賞の最終選考作となった。「21世紀版『アルジャーノンに花束を 』」などの評価を受けている。」
擬似相関については納得するが、金持ちか東京かのどちらが本質的かはどちらでもよい。
どちらが本質的かを判別するには、もっと詳細を調べる必要がある。
「東京は文化資本が豊富」と評価するのも、前提条件に「東京は文化資本が豊富というのはおかしい」があり、「再生産が文化資本の本質」と仮定した上で、大学進学率を持ち出し評価したにすぎない感想かなぁ
人の目に映る自分を見なければいけない。そうでなければ、自分というのは虚無になるから。
日常の中で、僕はいつも他人の視線を意識している。仕事場での同僚の評価、友人たちの言葉の裏にある感情、そして通りすがりの見知らぬ人々の一瞬の視線。これら全てが、自分自身を形成する一部になっているのだ。鏡に映る自分の姿だけでは不十分であり、他者の目を通して初めて自分という存在が確立される。
他者の評価に頼ることで、僕は安心感を得る。承認されることで、自分の価値を確認する。だけど、その一方で他者の期待に応えようと無理をしてしまうこともある。自分が本当に望んでいることや、自分の考えがどんどん薄れていく感覚に襲われるのだ。自分自身を見失い、他人の目に映る理想像を演じ続けることに疲弊してしまう。
社会の中で生きていく以上、他者との関係は避けられない。しかし、それに溺れてしまうと、いつの間にか自分が本当に何を感じ、何を望んでいるのかが分からなくなる。自分自身を見つめ直す時間を持つことが大切だと思う。静かな場所で、他人の目を気にせずに、自分の心の声を聞く。それが、自己を取り戻すための第一歩なのだろう。
しかし、現実はそう簡単ではない。他者の目を意識しないで生きることは難しい。人間は社会的な生き物であり、孤立することはできないからだ。結局のところ、他者の目に映る自分と、本当の自分とのバランスを保つことが求められるのだろう。
それでも、そのバランスを保つことは容易ではない。他者の期待に応え続けるうちに、自己の本質が徐々に薄れ、やがて消えてしまうかもしれない。そうしていつの間にか、自分自身というもの、アイデンティティは社会に霧散して二度と帰ってこなくなる。