はてなキーワード: 音痴とは
ミニブログがとうとう産声をあげ始めた今のこの状況を見て、インターネットの創始者は「これこそインターネットだ!」と言うに違いない。今までのインターネットは、どこか現実と離れすぎていたからだ。
匿名で情報を発信できる構造を作れるが故に、接続している人間全員が平等に情報を受信できるが故に、ネットに存在できる情報が多様であるが故に、あたかも別の世界を形成しそこには“様々な情報と文化が無秩序に飛び交う混沌とした秩序”があった。
これは現実とは違う。情報の仕入先にこそ目は現実に向けられているが、一部の愛好家っぽい人でしか接点を持っておらずインターネットの中でのスタイルは本来互換性を持っているべきである現実とはほとんど剥離していた。
しかし今は違う。PCや携帯電話を『ブラックボックス』『魔法の箱』『ボタンがいっぱいついてる玩具』と見なす機械音痴の方が少数派になってきている。どの様に動くか、その超高速の演算能力をどの様に使うかを理解し、現実と結びつけて有効活用する人が増えた。
もう勘の良い人は分かっているかもしれない。インターネットは高性能なコンピューターと大規模なネットワークだけでは役に立たない、現実と結びつける力を持った人間が居て始めて威力を発揮するのだと言う事を。
何かと不器用なことで悩んでいる。
まず、体育。球技がだめ。ボールをうまく扱えない。サッカーも小3で始めたが1年もたなかった。気がついたら感じる劣等感。
バレーでボールが飛んできてもうまく返せない。なぜかボールがまっすぐ上がらない。なぜかサーブが入らない。
サッカーで飛んできたボールをうまくトラップできない。見当違いな方に蹴ったボールが行く。シュートなんてもってのほか。
バスケなんて論外。あんな小さい輪っかに入るわけないっつうの。だいたいドリブルができない。ボールがついてこない。
当然他の種目もダメ。短距離走だけは平均ぐらいあったから何とかなったけど、長距離走なんか下から3番目から5番目くらい。
器械体操系はちょっとできたけど、別にめざましい活躍をするわけでもなく。
あと、カナヅチだった。中二のときは「生物は進化し陸に上がったのになぜわざわざ退化する必要があろうか」などと言っていたなあ。
図工、あるいは美術。
どうやったら絵が描けるのか分からなかった。大してやっていることは変わらないだろうになんであんな作品の質が変わってしまうのだろうか。
裁縫、ミシンなどは必ず残らされていた。終わるの後ろから3番目か5番目くらい。出来も下から3番目から5番目くらい。
先生の注意を反芻してしっかりやろうという意思はあるはずなのに、できない。
思うように手が動かず微妙にずれる、もしくは何かしら注意点とかやり方を忘れてやってしまう。
さらに、気がついたら作業が遅れている。友達と一緒にやっているように見えて、気がついたら二倍くらいの差がつく。
遅い上に雑でしかも回りにやり方聞いて迷惑をかけるという最悪な奴だ。
調理実習は野菜をとってくる、プリントを引っ張り出す、フライパンを洗う、箸を洗う、皿を洗う、そういうことしかしなかった。いや、できなかった。
音楽。これはもうちょっとましだった。小2からピアノを始めていたからだ。1年でやめてしまったが。
しかし、ましだというだけで、別に何もなく。
リコーダーは、指が回らなかったか音がちゃんと出なかった。まあ、それだけならみんなそうだから別に平均くらいなのだが、なぜか「音を聴いたらそれが音階上のどの音か分かる能力」を持っていたためにプライドは高く、ちょっとできないだけでずいぶんな劣等感を感じた。
そして、音痴だった。音を外す。歌っていると気がついたら音が外れている。「音を聴いたらそれが音階上のどの音か分かる能力」は歌には効果を発揮してくれなかった。リコーダーとか音がはずれるとそれを敏感に感じられたが、歌だと何も感じなかった。
中学に入って吹奏楽部に入って楽器を始め、結構頑張って楽器に関するコンプレックスはできずにすんだが、歌うことにおける音痴は直らなかった。カラオケなんかとんでもない。
授業だけでない。他の場面でもそうだった。
休み時間にするあやとり、折り紙。全然出来ない。あやとりなんかさっぱりだし、折り紙も、まず紙を半分にしっかりできない。裏側の白いのがはみ出る。どうやったらそうならずに折れるのか皆目分からない。
スキー、スケート。家族みんなができるのに自分はできない。中学のときに、4つ下の弟は思う存分滑っているのに自分は全然できなかったという記憶が残っている。
あと、自転車が乗れない。気がついたら乗れないままだ。
プログラミング。中学時代、周りにオタクが多かったんだが、彼らのうち何人かがプログラミングを始めた。自分も始めたが挫折。なぜかエラーが頻出する。周りはそういうこともなく形になっていった。
ゲームも苦手だ。対戦ゲームは最初っからへただし上達も遅い。後から始めた人の方がすぐうまくなるからやる気をなくす。ボードゲーム、カードゲーム、テレビゲーム問わず。
文化祭の準備で木材を切ったり、塗ったりするのも自分はできなかった。あまりに遅いし、あまりにできあがるものの質が悪いからだ。
とりあえず娯楽という娯楽、作業という作業において人より遅く、質が悪かった。
勉強だけはそこまでひどくなかった。
だが、これらのコンプレックスは消えない。何をやっても他人に劣る。
他人(いわゆるステレオタイプとしての一般人)よりできることは、まあ楽器がちょっとできるというだけだろうか。
でも、プレゼンテーションとか演説とかは得意。初対面となかよくなるのは得意。
しかし、人と比べると、当然のようにできることが出来ない上にしゃべることしか能がないのは本当にどうしようもない人間。さらに、病弱だとか家庭環境が悪いだとかのハンディキャップがあるわけではない。
悲しくなってくる。
このような悩みを共有できる人はいないのかねえ。
とりあえず聞いてほしくて増田に書いてみた。
何が悪くてこうなっちゃったんだろう。幼少時にずっと図鑑読んでて絵本も読まず折り紙とかそういうことを全くしなかったからか?
それとも、何事も続かない性格だったからか?
「頭のいい人は説明もうまい」問題で、一番肩身が狭いのが数学屋と哲学屋。哲学屋さんの弁解は哲学屋さんに任せるとして、エセ数学屋の立場からその弁解を書かせて欲しい(哲学屋さんも事情は似たようなものだと思うけれど)。
まず、世間では誤解されてると思うのだが、数学というのは理系の他分野(物理学とか、生物学とか)とは少し性格が違う。数学は、具体的な対象を想定しない。むしろ、具体的な対象と遊離したところを記述するための「言葉」を作る学問なのだ。
よく言われることだが、新たな数学理論の発見とは、わかりやすい概念や記号法を発明することといっても過言ではない。一番わかりやすいのが「未知数をxなど文字で置き換える」というものだろう。これによって、古代エジプトや古代ギリシャの賢者大勢を悩ませた問題も、中学生の練習問題に早変わりする。しかし一方で、多くの賢人を悩ませた問題を少数の記号やキーワードに集約するのだから、そもそもそんなものを簡単に説明できる方がおかしい。中学校あたりから数学が途端に難しくなるのはこのためだ。
抽象概念を説明することの難しさは、プログラミングの世界とも共通している点があるだろう。たとえば、「多態性 (polymorphism)」という言葉を機械音痴の人に説明できるだろうか、考えてみてほしい(このたとえのわからない人は、次の段落まで読み飛ばしてほしい)。もちろん、例えば「同じ『鳴く』という動作でも、犬は『ワン』で、猫は『ニャー』だ」などと、わかった気にさせるようなたとえ話でごまかすことはできるだろう。だが、そんな「説明」が役に立たないことは明らかだ。「そんなことの何がすごいのか、ポリバレントだかなんだか知らないがそんな偉そうな名前をつけるほどのことか」とかいわれて終わりである。現実に「説明」を求められる場合とは、「誰かに金を出させるために説得しなければいけない場合」なのである。ユーザ企業に「オブジェクト指向による開発」の必要性を説得するとき、そのような子供だましでは金を出してもらえないことは明らかだろう。
そして数学は、プログラミング言語よりもっと包括的に「人間の思考の一部を記述する言語」なのである(正確には、コンピュータ・サイエンスは数学の一分野である)。そして、プログラミング言語などという概念はたかだかこの数十年のものにすぎないが、近代数学は数百年の積み重ねがあるのである。素人と専門家の乖離にもそれだけの差があると思ってもらって構わない。説明が絶望的に困難なことは明らかだ。その困難さは、たとえば英語を知らない子供に「関係代名詞」を説明するのと同じぐらい難しい。いや、数学は「頭の中の普段使っていない部分」を使う言語だから、英語などよりもっと難しいと言っていいかもしれない。英語と日本語の間では直訳はできないことはないが、数学語やプログラミング言語と日本語の直訳は不可能だからだ(できるのならば、プログラマは全員失業である)。
しかし、こうした事情を多くの人はわかってくれない。そこで、「数学屋(と哲学屋)は物事をわざわざ小難しく説明する権威主義者だ」だの「他の分野の専門家に比べて説明能力に欠けている」だのと非難を浴びるのである。こういうハンディを背負っていることがなかなかわかってもらえないのである。
追記
多態性のあたりはあまりいい例ではなかったかもしれない。犬はワンで猫はニャーというのは、多態性という概念の発想を適切にとらえたたとえ話ではあるからだ。純粋数学の場合は、こういうわかりやすい例が見あたらないものも多いのである(たとえば「解析関数」を「複素数」や「微分」を知らない人に説明するとなるともうお手上げだ)。無論、こういうたとえ話が、多態性概念がプログラミングの世界でいかに有用であるかを説明することにほとんど貢献していないのは明らかだけれども。プログラミング経験がない人には、それだけのことがいかに役に立つのかなど到底実感ではわかってもらえないだろう。
蛇足
なお、こんな記事が話題になっているが、この程度の説明ならまともな数学屋なら誰でもできるので念のため。このスレッドの住人はsinとかcosのような高校数学の概念も怪しかったわけだが、そんな人を相手に文中に出てきた「バナッハ空間」だの「ヒルベルト空間」だのの説明をさせられたらとても困っていたはずである。正直、これらの概念は専門家には「イロハのイ」レベルのことに過ぎないが、ピアノで「猫踏んじゃった」しか弾けない人に「エリーゼのために」を教え込むのと同じぐらいは難しいだろうと思う。それぐらいのレベルの差がある。
蛇足の蛇足
ついでに、上のスレッドで挙がっている「日本語が論理的でない」とか「英語やフランス語は数学に向いている」というのはウソと言える。言語の能力は、相互に翻訳ができれば等価であるといってよいからだ。実際問題としては、論理的で厳密な文章ほど、直訳は簡単である。つまり、言語による論理能力の差というものは存在しないといってよいのだ。言語によって一番表現力の差が生じるのは、むしろ「前衛詩」のような、一番「論理的でない」部分である。
体験版を入手した。
いろいろいじって出力結果をmixしてみたりして、
結論としてミクの声はムカついて聞けたもんじゃないという気がした。
もうちょっとしつこく考えてみたら、ミクの声は自分の声に似ているような気がしてきた。
な行とま行がはっきり発音されないところとか、注意しないと音痴なところとか。
これだったら自分で歌ったほうがマシなんじゃないだろうか。
しかし自分で歌ったものなんて恥ずかしくて出せたもんじゃないわけで
つまり初音ミクを使うことで下手な歌を平気で公開できる状態になっているというのが
今の状況なんじゃないだろうかと思ったりした。
そうか。自分が歌ったやつを初音ミクですっていって公開しちゃえば…、いや、しないけど。
まあ関東の大学に行った弟は一週間でお前はどこの東京者やって状態になったけど。電話で話してると別の人と話してるみたいで気持ち悪い気持ち悪い(言葉がどうの、ではなくて、私の中の弟のイメージが関西弁とセットであることが原因ね)。
岡山に研修で行った友人は三日で岡山イントネーションに染まって、「自覚ないねんけどそんな変わってる?」って自分でも不思議そうだった。
二人ともこっちに戻ってくると三日から一週間くらいで元に戻るけど。
どっちにしろ周りのイントネーションに知らない間に染められると思う。逆に孤立無援で保ち続けている人はすごいなーと思う。私は音痴ゆえに間違いなくすぐに回りに流される。間違いない。
http://anond.hatelabo.jp/20070828002648
http://anond.hatelabo.jp/20070828003417
ありがとう。やっぱり聞き倒すしかないのね。そうだよね。やってみるよ。リズムジャンキーになるくらいに。
自分は音痴ではないのだけど、1回聞いただけではうたうことも演奏することもできないので、まあ努力を怠ってはイカンてことだよね。
んにゃ。音痴じゃない。な。たぶん。
耳で聞いた音を言い当てるのは完全に外すし、サンプルない状態でこの音を出せというのもまったく出来ないけど、
聞いた音と同じ音を探るのは出来る。・・・まあ、楽器習ったり、合唱部歴があるせいかもしれないけどね。
あとカラオケでも鍛えた。声がいいって褒められて調子に乗ったw
としたら、違うのかな・・・?
失礼を承知でお聞きします。
幼児期に父母の会話が少ないと(父と母の声をたくさん聞かないと)、音痴になるそうです。
(父と母の声は音の高低のサンプルとして頭に刻み込まれるらしい)
あなたは音痴ですか?
音程のずれ自体が分かるのであれば(記事からはそのように読めた。ずれ自体が分からない人は超レア)、音痴は練習次第で克服できると思う。嘘かと思うかもしれないが、マジ。弓場先生の本がおすすめ。タイトルはアレだけど、内容は良くできてる。
Amazon.co.jp: 声美人・歌上手になる奇跡のボイストレーニングBOOK―効果てきめん 世界が認めた『YUBAメソッド』: 本: 弓場 徹
リズム感のトレーニングならインターロックかなぁ。ただ、これは普通にリズムがとれることが前提になっているので、難しいかも。ま、日本人は基本的にリズム感が悪いので、かなりリズムがずれていても許容される気がする。むしろそれが素人のノリだ、みたいな。
これなんて俺?
自慢だけどペーパーのテストだとクラス最高得点取ったりした事あった。
けど、実技みたいなリコーダーをみんなの前で吹いたり、歌のテストは死ぬほど嫌いだった
壮絶なほど音痴だった気がする。
音感もリズム感っていう概念が理解出来ないかった。つか上手く表現出来ない
再現するのに俺の身体が付いていってなかった感さえあると思う。
よく覚えてるのは音楽の授業で4~5人のグループで発表ってのがあって
内容はなんか手拍子とかでそれぞれがリズムを叩くみたいな
もう内容は覚えていないんだけど
あまりにも俺がリズム感無さ過ぎて一人で変なタイミングで叩くものだから
「リズム上手く取れない人の事も視野に入れてリズム取るのも大事だからね」って言ってたのが印象的だった
同じグループに俺がとっても好きな子が居て醜態晒してる自分が情けなくて死にたかった
あぁーあ、あの娘色白で可愛かったな
高校入ってからは歌のテストは全部サボるという技を手に入れたので、そこまでのトラウマ経験はなくなった。でも就職すると、カラオケの機会が出てくる。友人に付き合ってもらって、当たり障りのない歌を十曲ほどマスターしてそれで凌ぐ今日この頃。新曲?無理無理無理。一曲それなりにまともに歌えるようになるまでに何十時間必要だと思ってるんですか、て感じ。デュエットとか、誘われると困る。でもまあ周りの年齢も上がって、私も年を取って、少しは音痴なのを笑い物に出来るようにはなったと思う(でも音痴なんですーとか言ってても、本当に音痴だと引かれることが多々ある)。
音程も高低もさっぱり分らないので、とにかく歌を覚える時は反復練習。体に覚えこませる。覚える時はメロディと歌詞を別に覚えるのではなくて、メロディごと歌詞を覚える感じ。同じメロディを別の歌詞で歌うということが出来ないので、一番を歌えたからといって二番も歌えるとは限らないのが音痴クオリティ。
音楽のせいではなくて、ステージフライトに近かったのかもしれませんね。そのあたりを汲んでもらえていたら、方向性も変わっていたかもしれなかったのに残念ですね。しかし、他の方向に資質をのばせたのかもしれないとも言えますよね?
確かに上がっていたんでしょうね。ただ、基本的に人前に出ることが好きな人間なので、あれほどの極度の緊張状態に陥るのは音楽の歌の試験(あるいは楽器の試験)限定でした。どんな厳しいプレゼンでも、ここで発表するくらい、一曲歌うことに比べたら全然楽だ、と思ってしまう人間です。
でもって最後の一文がちょっと分らないです。
勉強は得意だったし、好きだった。英語は嫌いでたまらなかったけれど、数学や化学や物理や国語や歴史は大好きだった。運動は得意だし、好きだった。持久力は致命的なまでになかったけれど、それでも総合的には上位5%に入るくらいには出来た。たまにもっと運動部で何かに打ち込んでみればよかったとは思う。絵を描くことも、工作することも、大好きだった。
だけど、音楽が本当に本当に大嫌いだった。
そもそも父と母は私にそれなりの頭とそれなりの運動神経を与えはしてくれたけれど、音楽の才能は全く何一つ与えてくれなかった。
エレクトーンは一年弱で、音符の長さというものが理解できなくて終わった。順番にキーを押す、ということは理解できても、私には規定の長さでキーを押す、ということは出来なかった。手拍子だって、周りを見て、真剣に合わせないとずれる。集中せずに一定のリズムで手を叩くなんて、私にはできない。
歌を歌えば音程がずれる。「そこ高いよ」なんていわれても、どこが高いの低いのか、どうやったら下がるのかがさっぱり分らない。ちゃんと歌っているつもりでもずれる。だから人前で歌を歌うことが苦痛で仕方がない。誰かと一緒に歌うと、自分の声が聞こえなくなって、混乱して、歌えなくなる。でも一人で歌うと、伴奏とどこまでもずれていく。音程も狂っていく。
音楽の時間、歌のテストの時。音程がずれていることを薄々感じながらも必死で歌い終わって、でも何故か伴奏はまだ続いている。その五秒か十秒の空白の時間。私はただ死んでしまいたい、ということだけを考えている。苦痛で溜まらず、涙すら出そうになる。
音楽教師は、私のような人間がいることを理解できない。私が、運動が致命的に出来ない子を見て真面目にしなよ、と憤るように、彼女たちは私を見て、真面目にしなさい、と怒る。真面目にしている。真面目にしているけれど出来ないのだ。歌を歌うことが苦痛で仕方がないのだ。そして彼らは私を笑う。音痴だと。冗談交じりに言われても、私には嘲りにしか思えない。
自信を失えば失うほど、声は小さくなり、伴奏とはずれ、音程は狂っていく。誰が好きでこんな醜態を晒すだろうか。
私が必死で個室でテストを受けたいと申し出ても、彼らはそれを容易く退ける。一曲くらい大したことないでしょ。すぐ終わるんだから歌いなさい。一曲。一分か二分か。それが私には十分にも二十分にも感じられる。
歌のテストをクラス全員の前でさせる教師を、私は心の底から憎む。彼女たちは生徒を晒しものにして楽しいのだろうか。音楽以外に、試験の内容も結果もを衆目に晒す教科が存在するだろうか。
人前で歌を歌うと考えただけで、脂汗が出る。足が震える。息が苦しくなって、逃げ出すことばかり考える。今、熱が出たらいいのに。怪我をしてしまいたい。お腹が痛い。
音楽なんていう教科は全ての教育課程から消えてしまえばいい。音楽教師なんて全員死んでしまえばいい。音楽なんてこの世から消えてしまえばいい。そう、願って止まない。
善意に解釈すれば「現状の運動神経が鈍い・音痴というアマチュアのあなたの評価はプロである私の目からは不正確だ。実力は誤差の範囲内だから足切りをする理由には成らないよ」って事だろうけど。
善意に解釈すれば、って。本心はどっちだよ。何がわかってんだよ。
それとも、前半の解釈は善意じゃないのか?なんで、相手の主張を善意で解釈してあげないの?
これなんてドキンちゃん?
そもそもの引用元を例に言えば、プロが出てきて言う発言は「健全な発展」を考えた発言である。根拠はある。
それってhttp://anond.hatelabo.jp/20070222231755に
善意に解釈すれば「現状の運動神経が鈍い・音痴というアマチュアのあなたの評価はプロである私の目からは不正確だ。実力は誤差の範囲内だから足切りをする理由には成らないよ」って事だろうけど。
って書いてあるじゃん・・・