はてなキーワード: 人形とは
「良くある間違い」とも言う
以後追加予定
去年の年末の話だ。
ひいばあちゃんが死んだと、実家から連絡が入った。
つっても、あんまり親戚は集まってなかったし、集まった親戚も葬式特有の暗さは全く無かった。ていうか、久しぶりにあった親戚同士談笑していた。
それもまぁ有る意味当たり前で、ひいばあちゃんは結構前からもう、老人ホーム的なところで、「ただ生かされてる」状態だったから。言い方悪いが、ぶっちゃけほとんど死んでたも同然だったのだ。もうここ1年ほどは、誰に会っても何の反応もできない状態。ときどきスタッフの人が寝返りうたせて、点滴うたせて、痰とって……本当にただ生かされているという状態だった。それが、ある時熱を出して、ころりとそのまま逝っちまったらしかった。
「まあそろそろかと思ったよ」皆そんな感じの雰囲気だった。不思議な雰囲気だった。皆別に、ひいばあちゃんが嫌いだったわけじゃない。つーか寧ろ好きだった。でも、別に、今特別悲しくて仕方が無いというわけでもなく、といって「マジたりーな。ったくこんなときに」とか言うほど悪態をついてるわけでもなく。ただただ「まぁ……こんだけ生きれば大往生だろう」「そうだね」「最後まで肌きれいだったなばーちゃん」「本当だ!これで90か!すげー!」(<ばーちゃんの遺体を見て)
そんな感じだった。
正直最初俺は「おいおい不謹慎じゃないか?」と思っていたが、徐々に「そういうわけじゃないのかな?」とも思えてきた……なんという感覚か表現しづらいのだが。大体、俺自身、そんなに悲しくなかった。悲しいといえば悲しいけどべつに涙は出てこなかった。「そっかーばあちゃん死んだんか……」なんともいえない感じ。
俺はこれまで、死ぬ時は大々的に葬式が行われて皆が悲しむほうが、親戚がちょろっと集まるよりよっぽどいいと何となく漠然と思っていたがそれは寧ろ逆かもしれないと思った。死んでも、そんなに悲しまないレベルまで、「まぁそろそろ死ぬ年頃だしな」そんなレベルまで生きた方が寧ろ幸せなのかもしれないと思った。死んで、大々的に葬式が行われて皆が悲しむなんて、悲しさを増やすだけだ。自分が死んだとしても、今のひいばーちゃんくらいの感じの方が寧ろいいんじゃないかと思った。例えば俺が幽霊になったとして、自分の死後葬式を上空から見れたとして、たくさんの皆がヒーヒーいいながら悲しむのを見るより、ひっそりと「まぁ大往生ですよ」「まあそういう年だったからね」とか言われながら無難にこなされるほうが、多分、いい。悲しい事は少ないほうがいい。
思えば俺は、人の死というのを初めて見た。俺が生まれてから20年、俺の親しい人はまだ誰一人死んでなかった(死んでたとしても物心つく前)。物心ついてから「身内の死」を体験したのは、これが初めてだった。
そして、人の「死体」を初めて見た。チラっとだが。正直怖かった。生で見た事が一度も無かったしグロ画像は徹底的に避けてきた俺だ……皆がチラチラ顔の白い布をとって顔を見ていくのを俺は「すげーな…よく皆見れるな」と感心していた。見てみると、まるでロウ人形みたいだった。タッチじゃないけど「死んでるんだぜ……信じられないだろ」的な感じだった、確かに。陳腐だが生命の不思議さを思った。この今動いていないロウ人形みたいな物体が、昨日までは一応、心臓がバックバック動いて、血を全身に流していたんだ。昨日のそれは「生きてる」で、今のこれは「死んでる」なのだ。ここにある身体を構成している、原子や分子はほとんど変わっていないんだろうに、昨日は「生きてる」で、今のこれは「死んでる」なんだぜ……すげー不思議な気がした。
そしてひいばーちゃんを焼く事になった。
これで俺はまた無知ゆえに驚いたのだが、なんと本当に人間の死体を箱にいれて、そのまま焼却炉みたいなところにいれて焼くというのだ(当たり前だろ!!っていうかもしれないが)。それを皆で見てるんだぜ。死体入れて、火つけるとこまで。てか、火つけるボタンは自分で押せってんだぜ。なんという火葬の厳しさ。土葬とは比べもんにならないほどリアルに死を感じざるを得ない(って土葬もよくしらんけど)。そこまでしているとは知らなくて俺はただただ驚いた。まるで「ひいばーちゃんは死んだ。死んだんだぞ。さっきロウ人形みたいで、生きてるように見えたかもしれないけどやっぱり死んでるんだぞ。もう戻らないんだ」とつきつけられている感じ。何故そこまでする必要があるのか、俺らの場合ひいばーちゃんだったから冷静に見ていられたものの、これを交通事故で小さい子供をなくした親にもやっているというなら物凄いことだと俺は火葬がちょっと怖くなった。土葬みたいになぁなぁにして片付ければいいのに、ここまでする必要があるというのか?日本らしくないじゃないか。こんなに白黒はっきりつけるなんて。
そんな事を考えていたらさらにものすごいことがおきた。その火葬から数時間後、今度はお骨を拾うというのだ。俺はまた無知ゆえに、「お骨を拾うつっても、大体スタッフの人が手はず整えてくれてて、骨をあらかじめ砕いたりして壺にいれてくれてて、俺らはちょっと最後にそれを箸でやるだけだろ?」なんて思ってた。そしたら、皆知ってると思うけど、普通にさっき焼いた焼却炉を開けたのだ。出てきたのは、ボロボロの骨たち。俺、生で人骨見たのも初めて。ビビった。更に思った。「ここまでするの?ここまでして死をつきつけんの?すげーな、火葬。すげーな、日本……皆これをかいくぐってきたってのか」と。死体のままに置かれた骨だよ。生々しすぎる。そのまんますぎる。なんという死。完全に死だよ。紛れも無く死だよ。ひいばーちゃんのあの肉体はもう焼かれて灰になったんだ。頭じゃ分かってるけどそれをダイレクトに、完全に、脳に伝えてくるこの骨。そしてそれを、親戚数人で、箸もって、ここから骨を拾って、リレーさせて、壺にいれろっつーの。マジかよ、おいおいおい。お骨を拾うって、なに。そういうこと?!本当にそのまんまの意味なの?!ビビった。本当ビビった。何ちょっとこれおま……「死」じゃん。「死」だよ。死に、触れまくってる。俺。
骨をリレーさせた。うわ。段々麻痺してくる。この異常な状態に。皆「やっぱ年だからスカスカやね」とか言ってる。俺も「本当だ」とか頷いてる。なんだこの異常な……いや、これこそが正常なのか?これ、俺が今掴んでるこの、そこにいるスタッフが「それは大腿骨だよ」といったこれは……ばあちゃんの足にあった骨なんだ……昨日、ロウ人形みたいになってたひいばーちゃんの皮の下の筋肉の下にうもれてたもの……俺が小さかった頃、ひいばーちゃんのももに座ったとき、あのときも下にあったもの……それが今俺が掴んでるこれなんだよ。どうなんだよそれは。生きるって……生きるってのは、全然たいしたことじゃねえんだと俺はそのとき思った。人間が生きるなんて全然たいしたことじゃない。骨を見たとき思った、これはあれに似てるんだよ、フライドチキンの骨に似てるんだ。フライドチキンの骨って、いつも全然意識してないけど、あれって鳥の骨なんだよ。生きてた鳥の骨だったんだよ。人間が死ぬのも、それと全然変わりねーんじゃん。人生とか言っちゃって、人間は何故生きるのか?とか言っちゃってるけど、別にやっぱり結局、人間もフライドチキンになった鳥と同じじゃん。支離滅裂だけどそんなような事を骨リレーの間ずっと思ってた。何がどうあろうと死ぬし、死んだら、こうやって焼かれて、骨になって、俺も誰かに骨リレーされて、あのスタッフが持ってる壺んなかいれられて、残りの骨は土に返るんだ。土に返るってのは本当その通り土に返るんだ。土に混ざって土になるんだ。それはもともとは、今こうして俺がキーを打ってた、この指の骨だったのかもしれないけど、それはいずれそうやって土の上に捨てられたりしてあるいは壺に入ったりして……そんでその土の中で微生物とか動いてて。みみずとか動いててそういうのも全部死んでまた何か生まれてきて死んで生まれて土ってのもそのうちなくなるかもわからない、それでもしかしたら地球もなくなるかもわからない、でもそのいつだったか俺を構成してた原子は……なくなるのか?どこへ行くのだろ?俺を構成してた原子とかは散らばってまた違う何かを構成していくのか。なら死ってのは、あくまで俺を構成してた、それらのチームが解散するだけの話?ていうか、死っていうか、生と死って、白と黒、みたいな感じじゃなくて、生―死―生―っていうか、いや、っていうより生とか死とかいう概念がそもそもこの全体の流れを無理矢理名付けたものであって、生って……そういう意味じゃ別にたいしたこっちゃないんじゃないか……
そんな事を思った。
そういうのを輪廻っていうのかな?と思ったけど仏教に疎くて分からない俺。
リレーした骨は壺にいれられた。ひいばーちゃんがあそこにおさまっちゃったよ。すげぇ。この葬式システムってすげぇ。死を認めざるを得ないこのシステムってすげぇ。これ昔の人が考えたの?昔の人凄すぎ。俺なら死が怖くて避ける。死んだ人埋めてなぁなぁにして済ませたい。何かで土葬はそう言う意味では未練がましい、火葬は完全に「死」が分かるが、土葬は未練がましさがある、土から復活してくるゾンビや何かもそういった欧米諸国の死のなんちゃらをどうこうと言うのを読んだ気がするがなんとなく分かった気がした。確かに人を人のまま埋葬する土葬は、有る意味未練がましい。それがいいとかわるいとかじゃなくて。火葬は激しすぎ。どっかのアフリカの部族が、死んだ人の頭蓋骨を枕にするとかいうのも聞いたけどそれは火葬以上に激しいかもしれない。昔の人、死、意識しすぎ。すげぇ。俺はそんな度胸なかった。
通夜や葬式って正直言って本当面倒くさかったけど、あれはやっぱり本当、生きてる人のためにあんだな。生きてる人が「はい、これで、彼彼女は死にました、以上!解散!」的にケリをつけるためにあんなに長々とやるんだ。
なるほど。ひいばあちゃんはそれでも俺の心の中に生き続けてるだとか、そういうことは思わない。ひいばあちゃんは列記として死んだのだ。死んだし、生きてたのだ。悲しさもあるが、それは、生死に限らずなんでもそうで、時間は、そんなこと気にせず動いてくのだ。死んだのも、事実で、悲しいのも、事実で、でもそれでも進むし、俺も死ぬし、それでも多分人間はまだ生きてて、そいつらも死んで。その流れそのものを止める手立てが出来れば、人間はそこで本当に特別な存在になれるのかも。今の状態では、また他の動物よりなんかよーわからんけどごちょごちょやってるよってだけに過ぎなくて、全然この流れに対抗できてない。病気とか治せても、寿命ちょっとばかし延ばせても死ぬことにかわりがない。俺の意識というこのものを再び俺が死んだ後にも復活できたら人間は特別なものになれるかも。わかんない。でも本当、宇宙とか、なんとかより時間っていうのか、この流れっつーのか、あまりに大きすぎる。陳腐だけど俺は本当ちっぽけ、ちっぽけもちっぽけ、ていうか、もうどうでもいいというか……本当どうでもいい存在なんだと思った。いい意味で。
>30代ともなればそれぞれ家庭なりパートナーがいたり、シングルでもそれなりにひとりの生活を確立してる友だちを、自分の漠然とした悩み事で煩わせるわけにはいかんような気がする。
うん。
そういうことで、深刻なことほど相談しにくくなっていくんだよね。
あちらも家族が重篤な病気とか、子供がいじめられている最中とか、ダンナが単身赴任とか、本当に大変だから。
>相談すれば「そんなこと気にするな」「あんたは心の開き方が下手だ」と云われる。
私も言われたw
早く仕事にもどれって。でも、そんなこと、できる状況じゃなかった。でもそれを説明するのが死ぬほど辛くて、そうだね、としかいえなかった。大丈夫、としかいえなかった。それがしんどくて連絡取らなくなっていった。
>全開になってぶつかっていったらヒかれて、音信不通になった人一杯いるし。もうやなんだよね。薬で治るようなもんでもなし。こんな生活が続くかと思うと正直絶望する。
そうかも。私は迷惑かけて人を傷つけて、不快で醜悪とまで言われた。ケダモノだって。
全部正しい。薬も効かない。効かなくなりつつある。
でも、結局自分は自分でいるしかないと思った。人の言うとおりに生きていたらお人形みたいに依存的になる人間なんだとわかった。なら、多少自己中でも気をつけながら生きていく方がましだって。
たくさんの人が骨を折ってくれた。わかってほしい人もいる。でも、自分が自分でないと自分はだめなんだってわかった。だから、ゆっくり、自分らしく生きていく。他の人の生き方とは違うだろうし、不快に思う人もいると思う。いなくなってほしいと思う人もいると思う。でもやめない。
私の友達は長いこと連絡していないけれど、連絡すればいつでも受け入れてくれると思う。それだけの信頼と年月を重ねてきたから。あなたの友達もそうだと思う。家族はいても、友だちというのは特別な位置にあるから。だから数年はなれていても私は彼らを信頼している。あなたも、そうじゃないのかな。
うん、あなたの言っていることはそうだと思う。私はハルヒは知らないけれど、友だちは確かに自己中で頑固で保守的で、私は何かと言えば彼女の殻をぶち割ってやりたくて、しょっちゅうケンカしてた。でも結局彼女には彼女の世界があるので、あんまりひどいとき以外は受け入れるしかないと思った。半年以上口を利かない時期もあったけど、結局友だちだった。
私も受け入れてほしいけれど受け入れてもらえない人はいる。それはその人をひどく侮辱したせいでもあるし、私の欺瞞のせいでもある。とても傷つけた。でも、微妙な誤解もある。だから正直にぶつかってみた。でもそれでも受け入れられない場合もあるのだと思う。それは仕方ないと思う。開き直っているわけじゃない。どれだけの人が頑張ってくれたか知ってる。でもそれは、私の意志とは微妙に違っていた。自分がお人形になったようだった。それでは私は受け入れてもらえても幸せではない。そう結論した。
人の縁というのはそういうもので、誰にでも探せば生き方や場所は、ないところもある。あるところもある。それにかかわらず果たすべき責任や義務はある。
友人はすごく人に気をつかうタイプで人当たりもいいんだけど、
自分のやりたいことはやるけど、やりたくないことはとことんやらないタイプ。
矛盾しているようだけど、そんな感じ。
> あんまり相手の言うとおり変えていくとお人形みたいに自分がなくなるしね。
相手の言う通りに変えたわけではないんだけど、
言いたいこともわりと我慢してきたので、それが今になってストレスになってきてるのかも。
なんで自分ばっかり合わせなきゃいけないんだろ、っていう疑問が湧きあがってきたりしてます。
言いたいことがあれば言えばいいじゃん、って思われるかもしれないけど、
言いたいことをそのまま言ってしまうと関係がさらに悪化するのは確実。
関係が悪化するというか、相手が機嫌を損ねる可能性大。
なのでけっきょく黙って我慢してしまいます。
急に無口になるので少なくとも相手には私が不機嫌になってることは伝わってるかも・・・。
友人との関係を修復したいのかどうか、自分でもよくわからない。
無理に取り繕っても前と同じ関係にはなれそうにもないし、
かといって縁を切るようなことでもないし。
難しいです。
>こちらが相手に苦手意識を持ってきたからどうかわからないけど、
>向こうもこちらのことを苦手と思っているんじゃないか、と思うことが多くなった
あなたがもう一度その人と親しく話したいなあ、と思っているならその人の素のままを知るようにしたら?
それがどうも、というなら仕方ないかもしれないね。
あちらがあなたに変わって欲しい、と言うようなことがあったら、変われるところは変えて、変えられないところはそのまま受け入れてもらうしかないね。あんまり相手の言うとおり変えていくとお人形みたいに自分がなくなるしね。
家族として心配して、その心配を匿名ダイアリーに書いてるんだろ。
その心配には強制力があるわけでもないのに何で「お人形ごっこ」とかそういう話になんのよ。
他者としての心配、助言と強制的に操るってことを一緒にするってどういう考え方なんだ?
お前は他人を心配したり助言をした場合は「そいつは自分に操られるべき」だと考えるってのか。
他人をお人形だと思ってるのはお前なんじゃないのか?
本人と別の立場からアドバイスするってことは決して悪いことじゃないよ。それは人を操るってのとは違う。
お人形だと思っているのとも違う。あくまでも他者からの助言として意味をもつもの。それを受けて決めるのは本人なんだから。
そもそも「任せた」っておかしいだろ。お前だって家族だって任せる、任せないって立場にはいないんだよw
感情でも理屈でも大雑把にとらえ過ぎないようにな。
他の人たちの話している内容に乗っかるのができないんです。
乗っかろうとしても、的外れな意見しか出せない気がしてとても怖い。
変な意見を出すと空気の読めない人って言われそうで、ただ黙ってにこにこしているしかできません。
飲み会でも気付いたら一人でお酌回りしながら笑ってる人になっています。
もともと人付き合いが苦手なので、経験が不足しているのかも知れません。
国民が減らないかって言うと、結局、心の弱さなんだよね。
だから何だとしか言い様がない。というか何がいいたいのかわからない。
それでも弟はホストを選んだ。そして今頑張っている。ただそれだけの事だろ。
それを他者の価値観でどうこう口を突っ込む筋合いは無い。
心配する気持ちは分かる。あの増田の両親たちも心配はしてるだろうよ。でもそれでも彼の自主性に任せた。それは彼が一人の人間だからだ。心配は分かるし仕方がないがだからといってあの増田はやりすぎだ。あれは心配ではなく自分の思う通りに弟を操りたいだけだ。心配してるから何をしていいってわけじゃない。心配は免罪符にはならない。弟を一人の人間だと思い、かつ家族として愛しているなら両親のような反応が普通だろ。心配だけど彼自身に任せ彼自身に責任を取らせると。ご両親は立派だと思うが姉がこの体たらくではな。心配という皮を被った単なるお人形ごっこだ。弟を一人の人間としてみていない証拠。そんな人間は最低としか言い様がないね。
最低だな。お前。
弟の事を考えてあげているようで何のこたない、単に自分の理想を押し付けているだけ。弟を自分の人形にしたいだけだろ。お前こそ人形遊びは小学生で終わっとけや。
大体な、お前そんな他人のケツ拭く暇があんのかいな?
弟のケツ拭く前によ、自分のケツ拭けてんのか?
仮に若気の至りでもええやないか。
後悔したってええやないか。弟の人生だ。
何の失敗も無く安定した会社勤めで安月給もらって老いて死ぬのだけが「いい人生」「正しい人生」なのか?それ以外は全部ダメだとでも?失敗を恐れていたら何もできんだろ。本当バカだな。失敗はしちゃいけないものじゃないんだよ。したっていいんだよ。一番愚かなのは失敗を恐れて何もしない事だよ、何度も言われた陳腐な言葉だけどそれだけに真実や。
ホストでビッグになろうとか考えたって別にいいだろうが。逆に聞くけどなんでダメなんだ?失敗するかもしれないから?再度言うけどんなこといってたら何もできんわ。
それで失敗したらしたで弟がまた何か自分で考えるだろ。いい加減弟離れしろや。弟の足を引っ張るな。弟を一人の人間として見てやれよ。いつまでも子供じゃねーんだぞ。意外と育ってるもんだ。
「気質」は先天的に与えられたその人の特性で、一生変化しない。
残るは「環境」しかないんだから、人が自分の成る方向を選ぶためには、
いや、小さな環境選択は、幼い頃からたくさんある。
でもそれは、環境(≒親)によって形作られた人格に沿った選択なんだ。
小さい子は、自分で選択をしているようでいて、その実、
本当の選択は、自分自身の輪郭を、自分で認知できるようになった後。
その認知を、自分自身の行動にフィードバックさせられるようになった時に生じる。
自分を、より望ましい環境に投入し、より望ましい自分を獲得しようとする。
そのときに初めて、力を持った「選択肢」が生じてくる。
でもね、そのことに気付いて、目覚めた瞬間には、
だいぶ、選択肢が狭まってるんだよね。
俺の親は、俺の選択肢が少しでも減らないよう、必死で守ってくれていた。
俺は障碍気味で、「目覚める」まで人より多くの時間を要したのに。
今思えば、俺の選択肢は人より多かったんじゃないだろうか。
俺は、俺の親にとても感謝しているよ。
一晩たって、考え直してみた。
ひょっとしたら「男がカップリングを楽しめない」理由より、「女がカップリングを楽しめる」理由を考えたほうがいいのかもしれん。そうすると、っきっとそれは「お人形さん遊びの延長だから」と言うことになるのだろう。
男が、カップリングをエロの範疇で見ているから、BLに生々しい嫌悪感を抱いてしまう(レズに興奮するがホモを嫌悪する男は掃いて捨てるほどいる)。でもお人形さん遊びとしてみている女だと、対象を人形として距離を置けるので生々しさが減るのだろう。以前、エロテキストを書いていたことがあるが、作者連中(おそらく全員男)は執筆中に右手がおろそかになって困るといっていた。カップリングのエロテキストを書いている女は濡れるのだろうか。人形遊びなら濡れないのではないか。あるいは女は人形遊びでも濡れるのだろうか。
こういう視点にいくばくかの正しさがあるとしたら、次のような考え方はさらに興味深い
いいところを付いていると思う。すこし考えてみた。
カップリングというのは、思うにシチュエーション萌だろう。キャラがたっている作品だと、「この女とこの男だとツンデレか」「この女とこの男だと友情から入りそうだな」と考えて、その過程を楽しむんじゃないか?
「俺xヒロイン」ってのも基本はそうだろう、だけど、幾分行為に傾斜している気がする。行為に傾いているのは、「俺」がヒロインを独占して悦に入るからだ。
底にある形式は一緒だと思うが、カップリングの場合、マッシュアップが前提のようだな。つまり、みんなでわいわい盛り上がるわけだ。下種な言い方をすれば、「xxの奥さん、最近若い男引き込んでいるんですって」「ええー、あんなおとなしい顔して!」という井戸端会議だ。
一方で、「俺xヒロイン」のほうは自慰のオカズを精巧にしたものだから、「俺」を他者としては描かない。なまめかしい接触感がほしいわけだ。アイテクでも和姦の場合男は架空の人物で作者も読者も自己同一視できた。実在の人物の場合自己同一視が出来ず、寝取られになってしまう。強姦の場合は実在する人物のこともあったが、その場合ヒロインが汚されるところを楽しむので男は誰でもいい。
まとめると、男がカップリングを楽しめないのは独占欲が強すぎるからだと思う。そして自分が独占できないものとの折り合いをつけられない。一方で女は偶像といえども、独占できない場合には突き放して扱うすべを知っている。それはお人形遊びに始まり、井戸端会議へと進むプロセスのどこかに位置している。