はてなキーワード: ひぐらしとは
「『ひぐらしのなく頃に』を観ると斧で人をぶった切りたくなる」という因果関係を「科学的に」立証するのは恐らく不可能です。
再現実験が許されるものではないし、だいたい変数が多すぎるため、対象となる変数、つまり『ひぐらし』の有無のみを変えて実験する、というのが不可能です。「斧で人の頭をカチ割る」というのが非常にレアな事象なのも、検証が現実問題として不可能な事に拍車をかけています。
じゃあ規制は無理かというとそんな事は無く、実際いままで人類は「悪影響がありそう」というファジーな感覚で割と色んなものをバシバシと弾いてきました。実際、規制されるべきものというのは数多く存在するわけで、科学的に影響が立証できないから規制しない、というのはあまりにも消極的に過ぎる話です。科学的な方法論を身に付ける事は大事ですが、それは科学的なアプローチが不能なもの全てに目を潰れ、という事とイコールではないはずです。
可能性、期待値、割合を問題にするのならば、今回の規制は(恐らく局サイドからの要請によるものだと考えて)なんとなく理に叶っているのではないか、と考えます。
本文投稿者です。結論から言うと、おっしゃりたいことはわかりますが、科学的に立証するの意味を変に解釈なされていると思います。科学的な立証というときに私が念頭においているのは、主張・証拠・サンプル数(qualifier)・論理などの要素から成り立つ科学的な議論形式のことです。司法・行政・立法それぞれの機関において、科学的方法以外に案件が立証されることはまず無いとおもいます。おっしゃる悪影響がありそうというファジーな感覚というのは存在せず、悪影響があるかもしれないというパーセンテージ、またはわずかな可能性が科学的方法論によって立証され、審議された結果、法律となって社会に広まります。少なくとも公の場で議論をするときは立証責任とそれを満たすための議論内容でないと真っ当な案件であると認められないでしょう。ごたごた言う前に証拠ださんかい、というやつです。しかし、公でない私的な場所であれば、こんな方法を踏まなくても人を説得して意思決定を促すことは可能ですし、科学的方法の修辞学的(意思決定を諭す説得力)な影響力というやつもありますが、ここでは関係無い話ですね。
http://anond.hatelabo.jp/20070924201609
本文投稿者です。暴力的なコンテンツの放送が子供に影響を与える、という検証結果が出ているかなり有名な研究があります。アメリカで1961年に行われたBobo doll experimentというやつです。ウィキですが、リンク置いときます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobo_doll_experiment
更にアメリカFederal Communication Commissionの2007年4月に提出されたリポートには、暴力的なテレビプログラムの子供への影響についての調査結果がつらつらと並べられてますね。ブログ経由ですがリンクどぞ。
(本文中の赤字のReportをクリックすればPDFが手に入ります)
本文書いた後に微妙に決定的なリポートを見つけてしまって少しがくっとしていますが、自分なりに反駁してみましょう。
子供に影響をあたえるので社会的に規制をしよう、という議論は誤りではないですが、何もそこまでしなくても、という印象です。テレビのチャンネル権を子供に与えないことを含め、子供を悪影響のあるテレビ番組から遠ざけることは、ほとんど親の裁量によってコントロールできます。家族がテレビを見るゴールデンタイムなどの時間帯にひぐらしのような番組を流すことは、FCCのリポートや先行研究を鑑みて問題が多いかもしれませんが、子供のテレビの消費はまずもって家庭問題であるはずです。子供に悪影響がありそうなものを社会的に全て規制しまうと、酒・たばこ・ジャンクフード・風俗・その他もろもろ全て規制しなければならなくなります。過剰に反応する前に、自己責任でなんとかなるんじゃねぇの、というのが私の意見です。
更に暴力表現が子供に悪影響を与える、という事実が立証されれば、それは報道番組にもなんらかの規制をしかなければならなくなります。そもそも生でリアルで過激でエンターテイメントなニュースを日夜追っているのはテレビのニュース番組でしょう。テレビ局が製作に関わっているバラエティ番組も暴力表現が必ずといっていいほど含まれます。ニュース番組が暴力的内容の作品にいちゃもんつけることは諸刃の剣に等しいですね。
一つ提案ですが、"テレビを見るときは部屋を明るくして云々。"に加えて、"物語に登場する人物たちは特殊な訓練を受けています。絶対真似しないでね。"というテロップを放送前に流したらどうでしょう。まぁ、世界観とか、物語性とか、台無しになりますが。
でも強制力無い指定やらゆるい部分もあるし今回のひぐらしなんかもテレビで誰でも見れる状態な訳だからある程度見直す必要もあるかもね
それ言ったら結局他の実写ドラマなんかも色々問題なのありそうだけど
http://anond.hatelabo.jp/20070924210224
人は異常な数の物語を個別に受容して生きているのだから、「特定の物語に影響を受けた」なんて誰にも言えない。
だけど人は不可解な状況に対して具体的かつ明確な対象を欲する。
斧事件にとって「ひぐらし」「スクイズ」が格好の対象だっただけの話で、それは「このアニメに影響を受けた」という言及ではなく、象徴として挙げられているだけ。
「ひぐらし」を見た人間が殺人をしたのならば、その殺人犯の個体受容史における全ての物語に、殺人を犯させる可能性があったと言わざるを得ない。
アニメなんかでは、よく「制作委員会」ってのがクレジットされるけど、この実態は複数の企業の連結ユニット。大抵、資金的な問題で結成される。
詳細は脱・「制作委員会方式」はコンテンツ産業振興に結びつく? by ITMedia参照。
で、なんでこの話を振るかってと、ひぐらしとの絡み。権利者がこうやって連合体を作るという事と「自主規制」というのは、結構関係してるんじゃないかと思ってる。
一般論として、複数の団体や個人がこうやって連合してユニットを組むと、問題が何であっても一番無難なあたりに落ち着かせよう、という極めて強い力が働く。だからちょっとでもヤバそうだと感じたらすぐ「自主規制」に走る。ユニットを結び付けているものは利益以外には無いから、思想的理由で何かを頑として押し通す、という事も発生しない。ワイドショーで叩かれても、リスクを取るのが嫌だから反論しない。というかそもそも反論すべき主体が存在しない。
制作委員会方式ではなくファンド方式、しかも出資者が何の口も挟めないような方式にする事で、相当程度状況は改善されるんじゃないかなぁ、と思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070924051247
「『ひぐらしのなく頃に』を観ると斧で人をぶった切りたくなる」という因果関係を「科学的に」立証するのは恐らく不可能です。
再現実験が許されるものではないし、だいたい変数が多すぎるため、対象となる変数、つまり『ひぐらし』の有無のみを変えて実験する、というのが不可能です。「斧で人の頭をカチ割る」というのが非常にレアな事象なのも、検証が現実問題として不可能な事に拍車をかけています。
じゃあ規制は無理かというとそんな事は無く、実際いままで人類は「悪影響がありそう」というファジーな感覚で割と色んなものをバシバシと弾いてきました。実際、規制されるべきものというのは数多く存在するわけで、科学的に影響が立証できないから規制しない、というのはあまりにも消極的に過ぎる話です。科学的な方法論を身に付ける事は大事ですが、それは科学的なアプローチが不能なもの全てに目を潰れ、という事とイコールではないはずです。
可能性、期待値、割合を問題にするのならば、今回の規制は(恐らく局サイドからの要請によるものだと考えて)なんとなく理に叶っているのではないか、と考えます。
勿論、ことは「表現の自由」に関わる問題であり、慎重に取り扱うべき問題ではありますが(念のために言っておくと、娯楽だから=低俗だから規制しても問題ない、というのは自由の意義を履き違えています。表現の自由というのは、全ての表現を差別無く取り扱う事が前提であって、各種表現をクラス分けして一部だけ自由にする、というのは自由ではありません)。
気に食わないのは、因果関係を主張する人が多い点。それと、「自主規制」な点。
規制は論理的判断ではなくフィーリングの問題なのだから、それを理屈を捏ねて正当化すべきではない。論理的でない行動には、論理的な理由説明をつけないのが論理的というもの。
それと、恐れ多くも他人の表現をする権利を侵害して規制をかけようってんだから、誰がそれを言い出したのか、責任の所在は明確にすべき(妄想乙かもしれないけど、恐らく間違いなく「自主」規制じゃねぇだろコレ)。例え権利者側がそれに同意していたとしてもね。
もちろん個々の事例については「○○の影響かもしれない」と言うのは、
本人が「○○の影響です」と言うか、本人が○○から深く影響を受けていて、
その行動の多くが○○に似ているといった決定的な証拠が必要です。
そういうものがなければ安易な推測を放送で流してしまうのは問題です。
アメリカでの例ですが、黒人と白人のボクサーの大きな試合があったときに、
負けた側の肌色の人が普段よりより多く殺害されることは統計的に決まっています。
(確か一晩に10件とかのレベルだったと思います)
もしも「ひぐらし」が本当に多くの人に視聴されているアニメであるのならば、
殺人の一件や二件に影響を与えるのは当然です。
ひぐらしファンとして、放送自粛に嘆き悲しんでいる著者でありますが、マスコミの安易な報道にはもっと嘆き悲しんでいる所存です。ひぐらしが原因で少女が殺害?ふざけんなよてめぇぬっこぬっこにしてやんよ、ということで、マスコミの報道に対して初歩的統計学知識でもって批判してみたいと思います。以下は、専門家でもマスコミ関係者でもない一ひぐらしファンの戯言です。
何らかの原因と結果を説明する理論を実証するには実験をしなければいけません。実験とは、検証したい変数を限定し、その変数に大してなんらかの人工的な付加をかけることで、理論構築のための結果を導きだそうとすることです。例えば、"ポテトチップスを食べると体重が増える"という理論を実証したいのであれば、必要数の被験者に大してフォアグラ用のガチョウのようにポテトチップスを食べ続けさせれば良いわけです。しかし、実験をするに当たって気をつけなければならないことは、人口的に付加与える変数以外に結果に影響を及ぼし得るような他の変数が多数あると結果は歪曲されてしまう、ということです。たとえば、"ポテトチップスを食べると体重が増える"を実証する実験を行うに当たり、被験者が他に高カロリーの食べ物を食べていたり、運動不足であったりすると、検証したいポテトチップスと体重増加の原因-結果関係を検証することが困難です。なので、実験する人間は被験者に大して厳しく食事管理を行ったり、適度な運動が可能なような環境を用意することが必要です。実験において重要なことは、検証する変数を限定すること、環境を設定すること、といえます。
実験をすることはお金もかかりますし、手間もかかります。そもそも、変数を限定する環境に被験者を長時間拘束することは、検証内容によっては非常に困難になります。そこで、実験の代わりに観察という手段で理論の実証を試みることになります。観察の場合、サンプルとして選ばれた人たちは自然な環境で通常の生活をし、実験者が彼らに人工的な付加を与えることはありません。実験者は通常生活を営むサンプルから検証したい変数を含むデータを集め、それをもとに変数と結果の関係性を実証します。重要なのは、観察の場合は、検証している変数の他に結果に影響を及ぼし得る変数がたくさんあることです。"ポテトチップスを食べると体重が増える"を例にとると、観察では被験者からポテトチップスを頻繁に食べるという情報と体重を聞き出し、それらの関係性を検証していく訳です。しかし、ポテトチップスを頻繁に食べ、かつ太っているサンプルの人間が、他にも多くの太る原因となる生活習慣を踏襲していることは安易に想像できることであり、ポテトチップスを頻繁に食べることはたくさんの変数の一つでしかありません 。サンプルのデータを使った観察からはポテトチップスという変数と体重という変数は並列に位置し、二つは関係している、ということしか導きだせません。ポテトチップスを食べるからピザになる、のではなく、ピザだからポテトチップスを良く食べている、かもしれないのです。多数の変数が関わっている観察においては、原因と結果を引き出すことはできません。
ひぐらし自粛事件を以上のことをふまえて検証してみます。まず、京都16歳少女の父殺害事件から”ひぐらしのなく頃に”という作品が少女を殺害に導いた、という原因と結果の理論をたてることは、現時点の証拠不足により不可能です。少女が殺害に導いた変数は、父との関係・学校での人間関係など計り知れません。 上記で検証したように、原因と結果を検証するには変数を限定しなければならないのであり、マスコミが安易に検証できるものではありません。 以下の
「歪曲して事件に影響があったかのように報道した」説に賛成の人が多いだろう… 何か事件が起こると、浅い考察で原因を探すのが現在のマスコミのお得意分野であることも事実である。
という近添さんの発言を厳密に検証すると以上のようになります。
しかしマスコミは結構狡賢いもので、”ひぐらしのなく頃に”が殺人の原因になりましたよーとは言いません。あくまでも二つの事柄の関係性を繰り返し、オドロオドロしい音楽とナレーションにのせて報道することによって、視聴者側が自らの頭で二つの事柄の原因-結果関係を描いてしまいます(マスコミやテレビが放送するリアリティーと現実世界の二つを視聴者がごっちゃに考えてしまう、ということを説明するCultivation Theoryという理論もあります)。 マスコミが放送しているのは関係性の羅列でしかなく、原因と結果は厳密な検証が行われないと実証されない、というリタラシーを持って報道を読むことが必要です。
更にマスコミは事件が起こると事件の一般化を試みます。”ひぐらしのなく頃に”を見ていた少女が父親を殺害した、よってかような作品を見ている人間は殺人者予備軍、というような図式です。しかし、個々の事件のようなケーススタディーにおいては、事件の構造的解析を行うことはできても、その事件から社会的な構造を描き、実証することはできません。サンプル数が1しかない検証内容なんて鼻糞くらいの価値しかありません。マスコミの報道を読むには、検証にはどれくらいのサンプルが使われているのかを注意深くまた批判的に見ていく必要があります。マスコミがよく使うメタ分析(既に行われている研究結果などを使って実証していくこと。専門家の話というのはこれに当たります)も視聴者自らが論文に当たって理論の検証を行うのが良いのかもしれません。あるある大辞典はメタ分析を適当に並べ立てて原因と結果をでっちあげた報道の悪いケースです。
エセ科学議論が一時期はやりましたが、エセ科学的な検証方法は科学以外の様々な議論に当てはまります。議論において、原因と結果を実証することは最も難しく、マスコミが行うような一夜漬けの検証では不可能といっても良いでしょう。しかし、マスコミの 原因-結果関係をでっちあげる安易な報道は強力な影響力をもっており、間違ったリアリティーを視聴者に植え付けます。マスコミの報道を反証するのに個々の事件に対する知識や専門的な知識はいりません。議論を批判するには、ちょっとした議論形式の知識と申し訳程度の統計学の知識で十分です。lovelovedogさんが似たようなスタンスでブログを書いてはりますね。マスコミのメタ分析に対するメタメタ分析(なんのこっちゃ) でもってばしばしっと文句をつけていくのが、健全たる市民としての義務だと思います。
合宿所のなりきり関連の事件を見てるとすごくよくわかる(そのまま「合宿所」「なりきり」でググると怖い話がいっぱいでてくるよ)。
もちろん、精神的にお花畑な人が単にその物語にハマっちゃったってだけだったり
それこそなりきりのお遊びでやった、そいつが単にDQNなだけなんだとは思う。
…けれど「ひぐらし」を筆頭とする暴力シーンがある作品のなりきりに遭遇している人達を見ると
規制してくれねーかなー、と願ってしまうんだ。
同意する。
プロットのはっきりとしたエログロは、脳内に悪い物語イメージを焼き付けるだけだ。犯罪行為と直接結ばれるかはおいといて、こういう物語の蓄積が人の判断や選択を揺さぶるのだということが分からないオタ層が多い。
しかもスクイズやひぐらしはずっと観ていたが、視覚描写のエログロが際だっているだけで、ドラマとしては平凡すぎる。これ火曜サスペンスじゃね?みたいな脚本。
話題になりやすい記号を詰めまくったという意味で価値は認めるが、もはやそれはサブカルでも何でもないじゃないか。
スクイズやひぐらしは物語としては全然楽しめないし、結局はインターテクスチュアリティの小さな歯車でしかなく、もっぱらオタクが話題にするのもその点だけだよね。
そこらへんの面白くもなんともないバラエティー番組と大して変わらない。
事件を受けてスクイズ最終回だのひぐらしだのが延期している件について
流せ流せとわめいている人達を見て思う
そんなに好きなら買うかレンタルすりゃいーじゃん。
もちろん、TV関係が言う、アニメやゲームが青少年に影響を与えて犯罪しちゃうんだぜ
…っていうのは100%真に受けられず笑っちゃうものだと思う。
でも100%影響が無いとも言い切れない。本よりはビジュアル・音で訴えかける力は大きいんじゃないんだろうか。
少なからずとも私はそういうのを見てドロドロとした気持ちが残る。
興味深いけれどもネタバレwikiを見ただけでなんだか薄暗い気持ちが入る訳だ。
テレビでもやらず、OVAでひっそりとしてればいいのになあ…と思っちゃうわけで。
(地方局の深夜番組を見る良い子なんて絶対いないだろうけど)
そんなギリギリのラインの放送が中止されたとしても当然じゃないのかなあ。
さらに、痛い話なんだけど
サブカルで日本が成長してきた??とかなんとか言って胸を張って放送しろなんて言う奴が近くに居たんだ。
でも、こういうエログロって世界に誇るべきものなのかな?
School Days:京都の父殺害事件で最終回の放送見送る 女子高生の暴力シーンを考慮−アニメ・マンガ:MSN毎日インタラクティブ
なんでschool daysなんだw
一番関連ありそうなのはひぐらしなのにw
痛いニュース(ノ∀`):「父が嫌いだった」 警察官の父を娘が手斧で首切り殺害
asahi.com:16歳の娘、斧で警察官の父を殺害容疑 「嫌いだった」 - 社会
この娘は間違いなくヤンデレ
やっぱあれか。この娘もネヴァダの時みたくネットアイドル化されるのかね
つか、鉄平自重w->はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`):「父が嫌いだった」 警察官の父を娘が手斧で首切り殺害
抜け出し鉄平で盛大に吹いたw
夕食を食べている時に、アパートで一緒に住んでいるインド系アメリカ人Yは言った。
『同じガイナックス制作でも、フリクリは好きなんだけど、エヴァは嫌いだよ。
1話2話は見たけど、後はすっげーつまんなくて、見るのを辞めちゃった。』
アメリカではシンジ君のような内気な少年タイプの主人公はあまり理解されないと言う。以前ネットで見つけた
"アメリカオタクが選ぶ好きなアニメキャラクターアンケート"みたいなページでシンジ君がボロクソにけなされていたのを
思い出す。Yも優柔不断なシンジ君が嫌いなんだと思った。でも、Yの次の発言は少し予想外だった。
『映画版のエヴァ(古い方)も最悪。でも、唯一、テレビ版の最後の二話は最高だった。』
え、という感じだ。おめでとう、で終わるテレビ版のラストは日本のファンには不評だった。作者自身もテレビ版の最後を上書きするように
映画版を見た。映像美がクライマックスに達するのも、哲学的な主題に一応の結論が出されるのも映画版のエヴァだ。何でテレビ版の
最後は良くて、他は駄目なんだろう。Yは続けた。
『宗教的すぎるんだよ。キリスト教のさわりだけかじったようなストーリーが受けつけないんだ』
あ、と思った。かなりEye-openingな発言だった。
キリスト教的価値観はアメリカという国の根本的なものを形成している。
宗教的自由を求めて移民してきた中産階級達が設立者となった国である。妊娠中絶の問題も
ゲイの婚姻問題もIntelligence Design(笑)も、アメリカの政治のジューシーな部分を占めるのはキリスト教(もちろんプロテスタントが主流)
が関係する政策論議だ。宗教右派からの支援に頼っている政治家だけでなく、民主党左派系の政治家達もキリスト教へのリップサービス無しには
国民多数からの支持を得られない。
そんな国である。キリスト教教育に関しては日本より何歩も先にいっている国である。
そんな国で、旧約聖書だの、リリンだの、キリスト教を土台にしたストーリーのアニメが受けるか否か。
作者はアメリカンアニメギークのポリティカルコンパスのぶれ具合を全く知らないのであるが、
まず、聖書の教えに忠実でないストーリーは保守・右派には受けないであろうことが予想される。
更に、Evangellionという題名がEvangelical(宗教右派とほぼ同意語で使われる)を連想させることから
宗教右派にあまり良い印象を持たない左派(都会のスタバでラテを飲みながらThe New York Timesを読む人たち)
にも支持を受けないに違いない。
キャラの性格云々よりも、宗教的なストーリー故に、エヴァンゲリオンはアメリカで受け入れられにくいのでは無いか、Yと話している
時にそんな仮説が浮かんだ。作者は余り覚えていないが、Yに好評だったテレビ版のラスト二話は、
More philosophical, but less religiousだったと記憶しているが、まぁ、定かではない。
そんなYは今、ファイル共有ソフトでDLしたアニメ版ひぐらし(Free Fan Sub)に夢中だ。園崎魅音と梨花ちゃまがお気に入りだそうだ。
グローバル化の波を感じずにはいられない。
要するにZUN氏が全部に音楽CD付けさせようとするから、どこの出版社も敬遠してるんじゃないのかなぁ
今のところそんな冒険してるの一迅社ぐらいだし(角川のはなんか失敗してる気が)
なんて事を思いついたのは「東方文花帖」がアンソロジーという事を知ってから。
正直値段的にアンソロってレベルでもないし、何より大半の原稿はZUN氏が書いている
値段が高めな理由は、付属のCDにあった。CDに収録されているのはゲーム版「東方文花帖」(体験版)とBGM音楽。
とりあえず、なんにでも音楽付けたがるのはZUN氏の趣味らしくて、同じ一迅社から出てる「東方求聞史紀」にもCDがついている
とらのあなの東方アンソロジー企画でも自作のBGM音楽CDをつけさせたらしい
今は絶版の松倉ねむ版「三月精」単行本にもCD付いてたみたいだし(単なるページ水増しのための策だったのかもしれんが)
「東方香霖堂」は「単行本になるまで後何年かかるんだ?」と言いたくなるくらい少ない分量のものなので、単行本化するなら確実に水増しのCDがついてくる。
というわけで、現在COMIC REXで連載中の「東方儚月抄」が単行本化したら、これまでと同じようにCDが付く事は間違いない。そしてお値段高め。お値段異常
まさか、うどんげっしょうの方にまでCD付けるとは言いますまい。んなこと言い出したら、さすがにどういう神経してんのかと疑いたくなる
原作者のリリースが緩かったため、そのインパクトはよく比肩される同人出身「月姫」以上だったのではなかろうか。(現在進行形)
そのおもしろさはどこにあるだろうと考えてみた。
やっぱり、部活仲間との楽しい日常から何かの歯車が狂って凄惨な事件(非日常)へと移る急激な『落差』だったんだろう。
PC版だけを見れば、謎解きのおもしろさ、選択肢なしのサウンドノベルという新奇さもあったんだろうけど。
これ以上のもっと深い考察は専門の人に任せます。
さてさて、昨日発売になった「うみねこ」
いまさっき始めてみた。(まだ全然進めてない)
一部では最初発表になった時点で「地雷ではないか」との危惧が出ていたが・・・。
「ひぐらし」はPC版がおもしろくて評価を得たのはもちろんなんだけども、
そこから抜け出しライトユーザーを獲得してメディアミックスが成功したのは
純粋なテキストのおもしろさとは別の部分にあるんじゃないかと思う。
ニコニコでもてはやされているのはMADだ。圭ちゃん・富竹・L5なんかがキーワードで笑いを誘う。
音源で『you』が神曲と絶賛される。アニメ版では沙都子萌え・梨花ちゃま萌えでコメントが踊る。
ここから抜き出せば、PC版にまでは手を出さないライトユーザーが望むものが見える。
「ネタ・感動・萌え」だ。わかりやすいネタと泣ける曲と話、萌えキャラという記号。
「うみねこ」はどうか?
まず、キャラクターが男女半々だ。どう考えても萌える場面は減るだろう。
次に、初期のコアユーザー以外のユーザーは本格謎解きを求めているのではない。
テキストのおもしろさはもちろん欲しいんだけれども(じゃなきゃ読み進まない)、
もっと必要なのはかわいいキャラとの楽しい話、笑えるようなバカらしい話だ。それこそ真に欲している。
この媒体で出してる限り、本当に原作者が書きたいテキストを純粋に楽しめる層にはリーチしないのではないかな。
まだほとんどやっていないので、何とも言えないが今の考えが正しかったかどうか確かめることにしよう。
まあ、期待に沿っていてもはずれていても、自分は楽しめると思うのでどちらでもいいんだけど。