はてなキーワード: 近道とは
最初に言っとくけど相談に乗る気はないから。なぜならそれは無理だから。
ちょっと違う話をする。
相談してる身で言うのもなんだけど、そもそも相談してもアドバイスしてくれる人って本当に少ない。
……まあ、あれだな。相談って、素人がやれることじゃねーんだなって最近は思ってる。カウンセラーとかいるのはやっぱさ。そういうことなんだなって。プロじゃないとまともにできないんだ。
相談を受けた側が的確にアドバイスできるっていうのは、相談者との間に明確な知識やノウハウの差がある場合だな。法律のトラブルで弁護士に相談するとか、プロとしての専門知識が必要な領域では「相談→アドバイス→解決」というプロセスが成り立つ。
で、この場合相談したいのは「性格を変えたい」ということ。
しかし、「人の性格を変えるプロ」なんてものはいないと考えるべき。そんな簡単に性格が変えられるわけがない。
「どうしてもイライラが抑えられなく、攻撃的になります→気持ちを落ち着かせる薬を出しましょう」
「憂鬱な気分がどうしても晴れません→気持ちが楽になる薬を出しましょう」
とりあえず薬物の力で急場をしのぎながら、カウンセリングなどと連携して改善を目指していく。
そしてなんか誤解があるかもしれんが、カウンセリングの基本は「話を聞くだけ」。アドバイスなんてしない。延々と話を聞く。で、ちょっと話を整理したりしながら、「本人がなんらかの解決を見出す機会を待つ」。
さらに言えば、そうした専門家というのも基本的には「社会生活に困難を来たすほど、性格などになんらかの問題を抱えている人」を対象にしたものなので、本気でやばい事態でもない限りは「完璧主義な性格で困っている」と言われても、「無理に性格を直さなくとも、そのままの自分でそれなりに生活できているのであればいいのではないでしょうか」ぐらいしか言うことはない。個々人の性格のそういった細かい悩みにまでは対応していないし、できない。
だからこの場合、的確なアドバイスが出てこない理由は「そもそも問題が難しすぎる」ということのせいもある。例えば「数学上の未解決問題が解けない」とか普通の一般人が相談されても、「ちょっと気分転換でもしてみたら?」とか、言ってみれば非本質的なアドバイスしかできないのは当然のことだろう。
「性格を変えたい」っていうのはかなり難しい問題で、そもそもそうそう的確なアドバイスなんてものが存在しないということは認識した方がいいと思う。
結局自分で答えを出すしかないんだろうけど、この根本的な性格っていうのはそもそも実際本当に治るのかねえ……
なので「結局自分で答えを出すしかない」という点には同意だが、「性格が治るものかどうか」については、「治らないことはない」と一応言っておく。ただしそれは簡単なものではない、ということも合わせて。
もし簡単に性格を変えて欲しいのであれば、カルト宗教にでも洗脳してもらうのが一番の近道だと思う。ある意味では色々な悩みが一気に解決するんじゃないかと(笑)。
だからまあ、ネットでライフハックレベルのアドバイスなんかをいくらもらっても結局根本的な解決にはならんし、本当に自分の性格を見直したいんなら、自分の身近な人、例えば両親や兄弟なんかに「オレって完璧主義なところがあって困ってるんだけど、昔からこうだった?」とか質問して、自分が覚えていないような事実について認識を新たにしてみるとかそういう迂遠なやり方からやってみるしかないと思う。
どうも誤解してる人が多い気がするのだが(元増田がそうだとか言ってるんじゃないよ)、「息を吸ったときおなかが膨らむ」と「息を吸ったときおなかがへこむ」の、どっちかが正しくてどっちかが間違ってるなんてことはないよ。どっちでも呼吸はできるし、どっちが腹式でどっちが胸式、っていうのも厳密には間違い。声楽なんか習うと教わる呼吸法だって、「そういう感覚で覚えると大抵の人にとって近道」ってだけで、全員が全員に万能じゃない。
何でもそうだけど中途半端にやると何もやってなかったときに自然にできてたことが却ってできなくなることってあるよね。そういうのを「考えすぎ」とか言ったりするわけだが、考えるなって言われても、考えないでやることがそう簡単に成し遂げられるはずもないんで、そういうときには、新しい方法が無意識に出てくるようになるまで意識して徹底的に「素振り」をやり込むのが早道だろうね。呼吸の場合は常に「真剣実践振り」になるけど。
えらく時間がかかったんだけど。どのくらい時間がかかったかと言うとたっぷり20年かかったんだけど。ブラケット記法で考えるのが多分一番近道だよな。
状態1をあらわす<φ1|があって、状態2をあらわす|φ2>がある。で、状態1から状態2に遷移する確率は<φ1|φ2>であらわされる。
これがブラケット記法。ただし、結果は複素数なので本当の確率は結果の絶対値であらわされる。そこはあんまり本質ではない。問題は状態1をあらわす<φ1|が行ベクトルだってこと(状態2は列ベクトル)。ベクトルの長さは無限大。それぞれの要素は複素数。二つのベクトルの内積をとるから、結果はスカラー(複素数)確率になるけど、じゃ、遷移する(内積を取る)前って何なのよってことになる。
で、上の|φ2>を観測された状態(たとえば右の穴を通った)と考えると、観測することによって、古典力学で理解可能な「右の穴を通る確率」に落ちてきた。確率はスカラー。でも、観測する前は確率に対応する複素数を無限個もつベクトルってことになる。
俺の理解だと「じゃぁ何かい」って言ったのがシュレーディンガー。
<φ1|を、観測前のブラックボックスの中の猫の状態と考える。|φ2>は観測後に猫が死んでいる状態とする。猫が死んでいる確率が<φ1|φ2>であらわされるのはいい。スカラー確率だから。だけど、観測前の猫が<φ1|ってのはどういうことだ?ベクトルの要素の数が無限だということは、猫は無限個の「ありえる状態」の重ね合わせってことかい?そんな馬鹿な話はないだろう。
これがシュレーディンガーの猫のパラドックス。中年に差し掛かって量子力学に手を染めたシュレーディンガーが、青春時代から量子革命に首を突っ込んだ世代についていけなかったことをあらわすエピソード。ていうか、これがまっとうな感性だよな。
古典力学では式のそれぞれの項に実世界と連結する意味がある。たとえばa=f/mって式は加速度を求める式だけど、その計算に必要な質量と力は、ちゃんと実生活にあるものとして理解できる。だけど、ブラケット記法では、左のブラ、右のケットに対応する古典物理学的な意味がない。実生活からの体験で理解できない。ブラケット演算を行って初めて理解可能な確率が出てくる。シュレーディンガーの抗議は量子実体を古典的物理的な体験で理解できないとする姿勢への抗議だった。
そうだよ、重ね合わせになってる。変に思えるけど、そうなってる。理由は知らない。
量子実体は古典的には理解できないよ、と。これはその後「量子力学は料理本だ。背景の原理は知らなくていい。正しい結果が出るのだから」というCookbook派の中心教義になる。
もう少し突っ込んで考えると、我々は量子力学においては遷移確率としてか事象を捉えられないことになる。遷移しないものは認識できない。観測しないものは古典力学的実体を持っていない。こう考えると
我々が観測しないとき、事象は存在しないのと同義だ
という極論が出てくる理由もわかる。
…と、理解しているんだけど、これでいいかな。
「政治についてどの情報が信頼できるか分からない」以前に、まずある情報が「信頼に値するか否か」をどうやって見分ければいいのか混乱していないか。
結局、誰かが流した情報をただ「受け手」として処理するだけなら、残念ながらあなたは永遠に”騙される側”だ。たとえ真実の情報を貰っても、あなたにはその真贋すら判断できない。いずれあなたは、あなたを「分かった気にさせる」ことであなたを安心させ代わりにあなたの懐から何かを抜き取る連中にいいように食い物にされてしまうだろう。そんなのは嫌じゃないか?
「どこかに信頼できるソースがあるかも…」という願望は、白馬の王子様願望と同じで、無意味で有害な代物。「僕が白馬の王子だよ、あなたに真実を教えましょう」なんて相手は、あなたを騙して何かを奪うためにあなたに甘い幻想を与えているだけの存在でしかない。ただしすべてを疑うだけでは、何も得ることはできない。すべての中に少しずつ真実はあると考え、それを見抜く力を養うしかない。
たとえばあるニュースが偏っているとしても、「どう偏っているか」を理解すれば、そこに籠められている真実に触れることができるかもしれない。TVが偏っていても、新聞で、ラジオで、書籍で、様々な情報を仕入れることで相互に情報を検証し、偏りを少なくしていけば良い。それで足りなければネットも使うことができる。たとえば、対立する両者が流す情報に共通点が含まれていれば、それは一つの突破口かもしれない。
とりあえず、三大紙を毎日読むようにしているだけで、マスコミがなんかおかしいってことぐらいは普通に分かるようになる。「そんなのめんどくさいなあ…どこかに近道があるんじゃないの?」…だからね、そういう発想が結局一番のカモなんだよ。
おーけー。私なりにせつめいしてみます。
たとえば人はなぜジェットコースターに乗るのでしょうか。
出発地点に戻るだけの乗り物になぜ高価なお金を出して乗るのでしょう。期待値はゼロです。何か素晴らしい景色が見えるから?身体を揺さぶられる体験に対して出費したいから? あるいは人はなぜ競馬に金を賭けるのでしょう。テラ銭が25%にのぼるギャンブルですから期待値は完全にマイナスです。馬が好きだから?退屈しのぎ? そういう考え方を否定はしませんが、それほど論理的に考える人が遊園地を楽しみ競馬を楽しむ姿を見ることは余りありません。
本当のところ人が遊園地に、競馬場に行くのはそれほど難しい理由ではないのだと思います。人がジェットコースターに求めているもの、ギャンブルに求めているものは要するに「スリル」でしょう。危険であること、不安定であること、不確定な未来に対して自分を投げ出すことが人間は結構好きなのです。一瞬後に何が起きるか分からないと心から信じるとき、人は、単なる愚行を行うことができジェットコースターを心から楽しむことができる人間になれるのではないでしょうか。
平和で安定していることを私も嫌いではありません。が、逆に聞きますが、もし本当に何も起こらず何も危険がない状態になったらそこに「楽しさ」はあるのでしょうか。「世界は閉じた系ではない」「世界は常に考慮不可能な可能性に満ちている」…と考えること、それは世界を信じ自分以外の人間の能力を信じ未来を信じる『信仰』の世界です。私の言う「楽しさ、幸福」とは、とりもなおさずこの「世界、他者、そして未来を信じる信仰」への帰依から得られる御利益でしかないのかもしれません。しかしそれが「楽しさ」に辿り着くための合理的な一つの方法であることはご理解いただけるのではないでしょうか。信仰のない人からみれば、神社に賽銭を奉納し幸福を祈る行為は『不確実性を内包した一種の商行為または「精神の安定」という形のないモノに対して対価を払う経済活動の一種』にしか見えないかもしれませんが、信仰のある人からみればそれは経済活動とは全く違う行為なのです。「コスト・リターン」と「リスク・メリット」の違いは、つまるところそのような、形というより心のあり方の違いで、形だけを比較するとむしろ違いは分かりにくいのではないかと思います。前者も後者も計算しているように見えますが、前者がコストとリターンを比較しているのに対し、後者はただその目前の「リスク」を背負えるかどうかだけしか計算していないのです。メリット・デメリットが引き合うかどうかという計算は「あえてしない(最初からできないものとしている)」のです。誤解を恐れずに言えば、後者においては、自分自身を不確定性の中に置くことそれ自体が目的なのです。
『天国がもしあったら、人は三日で飽きるだろう』なんて皮肉もあります。世の中には、あなたの仰る「期待値的に損益でしかない愚行」が山のようにあります。けれども、その程度にはロマンチックに、「愚か」に「愚直」に自分以外の何かを信じることが、幸福への近道なんじゃないでしょうか……。何というか……だってそもそも恋愛や結婚なんて「期待値的には損益でしかない愚行」でしかないかもしれないような「人生を賭けたギャンブル」そのものだと思いますしね。
要領のいい餓鬼だった。頭がそんなにいいわけでもなかったが、病弱だったせいで人よりひどく体力が劣っていた。それを自覚していた。だから、可能な限り、近道を見つけることに全精力を傾けた。人にやってもらえるものは、なんでもやってもらった。適度な愛嬌さえあれば、人は動いてくれた。自分はスマートな生き方をしているんだと納得していたし、満足すらしていたような気もする。しかし、ある時、このまま他人の力をうまく利用することだけを考えていたら、自分には何にも残らないのではないか、そんな気がしてきた。自分にはまったくなにもない。そんな気すらした。その暗闇をのぞき込んでしまったら、もはやその場所に安住することは出来なかった。だから、全てを拒絶した。他人に可能な限り頼らず、自分で出来ることを増やしてきた。他人に頼ることはもはや負けを意味していた。それから15年経って、自分に出来ることはずいぶん広がったし、やろうと思えば出来ないことだってもう無いはずなのに、何か色々なものに裏切られた、否、裏切った、そんな取り返しのつかないような焦燥の念を抱いてしまうのは何故なのだろう。
僕の出身は結構田舎の方だ。どういう所かっていうのを説明するのは難しいけど、家のすぐ近くに狸が出るっていえば分かってもらえるかもしれない。とにかく最寄駅は徒歩三十分で、電車は、……電化されていないから電車じゃないんだけど一時間おきにしか来ないような、まぁそんなところだ。
僕は、ここの中途半端な田舎っぽさが大嫌いだった。中途半端な田舎っぽさっていうのを別な言葉に置き換えると過干渉になる。地域的な人と人との係わり合い、つまり近所付き合いってのを否定するつもりはない。けど、何事にも程度ってものがある。それを過ぎているのに気付かないのだ。僕は、中学を卒業してすぐに寮に入ってここを離れることになるんだけど、その原因の一部は確実に周りの人の過干渉にあるし、僕の性格形成の一端を担っているのは間違いない。
今までのは、僕がいた"地区"での話なんだけど、すぐ隣の地区ではあまりそんなことは無かったような気がする。今考えると、僕がいた地区は山の裾に位置しているもんだから新しい家も建てにくくて、他の地区に較べると人の入れ替わりが少なかった。つまり、あそこは淀んだ場所だったのだろう。僕の持っている少ない情報では、最近家も増えてるみたいだし、もしかするとああいう風習も少なくなっているのかもしれない。
話は変わるけれど、僕が通っていた小学校は、最寄駅のすぐ近くにあって六年間もえっちらおっちら歩いて通っていた。そのまたすぐ近くに、公立の高校があって僕の同級生はかなりの確率でその高校を卒業してるし、僕も多分中学二年生ぐらいまではその高校に行くつもりでいた。その小学校までの通学路の途中に、祖父母の住んでいる家があって、これまた近くにある神社で夏祭りがあるときには必ず行っていた。でも僕が記憶しているそれは、夏祭りではない。でも、暑かったような気もするし、その内容から考えると盆の時期だったのだろう。
僕の家からその高校に行く為のショートカットというか、近道というか、裏道があるんだけど、そこに墓地があって僕の先祖の方々の何人かはそこで眠っているらしいのだ。そのときは夜が更けてだいぶ涼しくなった頃、といっても多分八時かそこらなんだろうけど、その墓地に行った。当然田舎のことだから街灯も少なくて暗いはずなんだけど、蝋燭なんかがついていて、もしかすると提灯なんかもあったかもしれない。で、線香をお供えして拝むわけだけれど、まぁここまでは普通の墓参りと変わらない。僕が奇異に感じたのは、この先である。墓石のあるその周りに、普段は使われることなく専ら運動会だけでその役目を果たしているようなレジャーシートを敷いて、まるで花見の時みたいに食事というか、飲み会を始めたのだった。周りにも結構多くの人がいて、墓地だからそんなに広いわけでもなくて、30cm先には他の墓の人たちが酒を酌み交わしているのだ。僕はちょっと、本当にほんのちょっとだけ怖かったけど、赤と青と白のストライプのレジャーシートの上でおにぎりを食べていたような気がする。
そのときの僕は、少し変わっているなと思っただけのような気がする。気がするというか、最近ふとした拍子に、そう、その思い出した原因みたいなものも忘れてしまったふとしたきっかけで思い出しただけなので、今でもあやふやな記憶しかない。ただ、暗かったのか明るかったのかよく分からない、なにか独特の空気というか雰囲気みたいなものがあったのは覚えている。で、これはさっき思いついたんだけど、もしかするとその墓に入っているはずの人の何人かはそこに帰ってきていたのかもしれない。もちろんそんなことはありえないけど、そういう想いみたいなものがあったんじゃないかということをその風景を思い出した時に感じた。
僕の話はここで終りである。なんだかまとまってないけど、僕がそういうところで育ってそういう体験をしたというただそれだけの話だと思ってほしい。
あなたはきっとお父さんが大好きで、だから余計な心配をさせたくないんだね。
でも結果としてあなたが死んでしまったら、お父さんは悲しみ、きっと自分を責め苛むよ。
その先生が信頼できる人なら、悩んでいる事や苦しい事はすっかり話してしまったほうがいい。
高い所から飛び降りる想像や、休学した場合のお金の心配なんかもすべて。
それが精神科医の仕事のひとつなんだし、そうする事があなたの快復への近道でもある。
あなたが頼めば、先生はお父さんに詳しい内容を話すようなことは絶対にしないはず。
「今はまだ無理できるから、我慢できるから」と思っていても、遠からず無理がたたる。
そうなれば、快復するまでの時間はもっと必要になってしまうかも知れない。
先生はきっとそれを心配して、休学を提案したんじゃないかな。
文章から判断する限り、お父さんや先生はあなたを理解している、又は理解しようとしていると思う。
今は苦しいだろうけれど、少なくとも周囲の環境はあなたを祝福しているし、良くなるのを待ってくれているよ。
――ということを指摘すると脊髄反射で「貴様は少年犯罪を容認するのか」のような意味のことを喚き出す人間の相手をするのは疲れる。バリエーションとして「減っているのは統計の問題で、内実としては増えている」などという人間もいる(こちらの方が「自分は冷静だ」と思い込んでいる分たちが悪い。彼らの特徴は「統計のズレだとすると、内実としてはもっと減っている可能性もある」と指摘すると怒り出すことだ)。
ネットにはこの問題に対して客観的な認識ができている人間が多いように見えるが、そうした理系ブロガー連中は得てして「統計ではこれが正しい。ほら、これがソースだ。リテラシーのないヤツは相手をするだけ無駄」という態度で思考も行動も止めてしまう。逆の意味でたちが悪い。
私見では「お互いが理解しあえれば悲しい事件をもっと減らしていくための近道になる」と思うのだが、おかしな考えだろうか。そして、お互いに「悲しい事件は起こらないでほしい」と願っているのだから、理解しあうことはできるはずだ(もちろん、超越的な視点から見れば「犯罪が減った方が良い」と願いさえ自明ではないだろうが、何らかの形で社会生活を営む人間ならば年齢、性別、職業、信仰を問わず犯罪を嫌っているものと思う)。手順としては:
という感じで分かりあえると信じているのだが、試みはいつも失敗している。1、2で合意を得たはずなのに、3に及んだ途端に話し合いが破綻する。どうやら「犯罪が減っていると主張する人間は犯罪を容認する悪人である」というナイーブな認識を捨てられないようだ。こうなると議論を続けようとしても「理屈っぽい」と一蹴されてしまうので始末に負えない。それでは、諦めて「まぁ、我々個人が犯罪について議論しても犯罪抑止に貢献できるわけじゃないから」と自分を納得させれば良いのかというとそれも違う。そんな風に諦めたら「犯罪について真剣に考えていない」で、結局「犯罪を容認する悪人」ということにされてしまう。もちろんはっきり悪人だと糾弾されるわけではないが、つまりはそういうことだ。もう、どうすれば良いのか分からない。後半ものすごく私事になったごめん。
誤
正
書いてみたけど、例え話は不毛だね。
Winny=包丁論もそうだけど、例え話が適切かどうかを考えなきゃいけないので、例え話を使うと、争点の核心に迫るどころか、遠ざかってしまう。
警察が出てくるのはまだ早い
地主(=権利者):自分の土地で何やってんのか知らないから対応もしない
管理者(=行政):とりあえず看板だけ。あとで何やるかわからない
近道に使ってるやつ(権利者の許可・正当な引用してるやつ):これからも堂々と近道できるから気にしない
野球やってるやつ(心当たりのあるやつ):逮捕されるかもわからんからとりあえず騒ぐ
管理者が雇った恐い人(=警察)
いや、周りの(といってもそんなに多くはない)オタ(とされる)友人のファッションを見たときに、
一番思うのは、まあ趣味のこともあるんだが、まず服の数が少ないということじゃね?
おしゃれな人の定義は多様なんだけど、少なくとも最低限の条件として、ローテーションが
自由に成り立つくらいの服の数が必要なんだよ。
オタに限らず、変な感じのファッションになるのは数が足らないからだと思うんだ。
なんで3万円をひりだして、2万のトップスと1万のボトムスを買うんだぜ?
だったらRAGTAGでも行って、4000円のトップス4つと8000円のボトムス2つ買いなよ。
あとさ、着こなしを垂直的に考えないほうがよくね?
垂直的ってのは、頭から足までの組み合わせだよ。
それ以外の日はどうするんだ。その組み合わせにしかその服が生きないじゃないか。
買い方としては、すげー好きなの買うんじゃなくて(すぐ飽きるか着れなくなる)、ちょっといいかな、と
思ったものをたくさん買うんだよ。もちろん買うときに組み合わせのことは意識するけど、あんまり
垂直的に「この全身で!」て想像しないこと。つぶしがきかなくなるよ。
ちょっと好きなものを大量に買って、それで適当に組み合わせを考える、というのが
近道だと思うね。もちろん、全部ゆるめに系統をあわせる、ってのはわかってると思うけど。
目安として、自分の持っている服のバリエーションが思い出せないくらいの数は必要なんだ。
たとえばTシャツなら10枚くらいはいるだろう。それとボトムが4本くらいあって、それぞれを
適当に組み合わせつつ「あ、これいいんじゃん?」とか考えるのがいいと思う。
くれぐれも、最初にマンガキャラみたいに全身思い浮かべて買い物するもんじゃないぜ。
それと試着しなよ。サイズが合わなかったら好きな色や柄でも買うなよ。
最低限、サイズが合っていることがおしゃれの条件なんだよ。
美容師さんとかおしゃれだろう?彼女ら、いつも違う格好してるだろう?
でも、サイジング(体の大きさと服の大きさの関係)はいつも同じだろう?
そういうことなんだと思うよ。
炭酸は胃をスッキリさせるから食欲を増加させるぞ。
恋人にふつけるをプレゼントする Schemer の俺が来ましたよ。
# 鬼の首をとったかのように書いてごめんよ。
CommonLisp はよく知らないんだけれど、 Scheme だと #\( と書けば ( という文字を示すことになるし、マルチバイトな処理系だと ((((((( というようなシンボルも問題なく使えたりする(開きカッコが全角であることに注意)。
処理系によっては半角のカッコでさえシンボルに使える、かもしれない。実際、ある処理系では SRFI-17 に関係したコードに半角空白を含むシンボルがあったりする。
そういうわけで
(define ((((( xs) (if (null? xs) '() (cons (map (lambda (c) (if (eqv? #\( c) #t #f)) '(#\( #\( #\( #\( #\( |setter of hogehoge|))) ((((( (cdr xs)))))
というようにカッコが不揃い(に見える)コードも可能。まあ、デモ以外でマルチバイト文字をシンボルに使うことなんてないだろうし、文字リテラルはたまに目視でカッコをチェックしていて「あれ?」と思うぐらいだし、そもそも上のコードは意味のある処理をしていないんだけど。
そういえば Emacs は閉じカッコを打った時、対応する開きカッコを強調表示してくれますよ。
Lisp なんてやってないで HSP とかやるといいよマジで。 Lisper になるには最初に HSP を学ぶのが最も近道なんじゃないかと最近気付いたんだ。
super pre 記法ないのかよ! Web2.0 っぽいインターフェースでブクマコメント表示したりする暇があるならこういう基本的なところやれよなマジで(いや、コメント表示も便利だけど)。そもそも増田のシステムなんてほとんどはてブと共通かと思ってたよ。増田が出た当初、「適当に組替えただけで、うまいことやったなぁ」と感心していただけに残念だ。
多分あなた、ステータスが満たされてても満足できない類の人間だよ。自分に才能があると思ってるんだったら、それ相応の根拠があるのでしょう。でもその根拠となることで満足できてない、ってことは、今以上のステータスを手に入れても満足できません。
自分に満足できていたら他人に絡まない、という仮説は多分正しいけど、ステータスを上げたら自分に満足できる、という仮説はきっと間違い。本当に年収があれば自分の嫌なところが見えなくなると思ってるの?
だから、人を腐したくないのならば遠回りみたいに自己満足する道を探すんじゃなくて、直接その人を腐さないようにするのがいいと思うよ。それは、視点を変えれば簡単にできる。逆に言えば、視点を変えない限りあなたが他の人の嫌なとこばかり見てしまう人間だってのは欠片も変わらない。
人と自分の違いをしっかり認めて尊重できる、そんな人になるのがきっと一番の近道。
後、そのクソみたいなプライドを鎮める方法だけど、価値観の違う友達を作るといいと思うよ。もう社会人だから難しいかもしれないけれど。
そのプライドの高さはきっとある一つの物差しに支えられているものでしょう。
でも、世の中いろんな物差しがあって、他の物差しで計ったらあなたのプライドの根拠になることなんてほんの些細なものに見えるよ。さっきの視点を変える、ってことに通じるけど、もっといろいろ相対的に見れると、自分のちっぽけさにも気づくし他の人の凄さにも気づけて、クソみたいなプライドなんて鎮まるんじゃないかな?
>私は自分を自分で支えられません。
自覚はあるんですね。
今のあなたは、誰も好きじゃないんですよ。
自分を好きになってくれる人が好きなだけです。
自分っていう存在の重みを自分の代わりに背負ってくれる人が好きなだけです。
精神的自立といっても、一生誰にも頼るなという意味ではありませんよ
自分の存在を自分で認めておあげなさい、っていうことです。
最低限自分の荷物を自分でもてるようにおなりなさいってことです。
ちなみにここら辺の悩みって、大抵の人は10代で通り過ぎるとこだと思います。
どうするか?
もう徹底的な自己分析しかないですね。
誰にも相談せず(ここにも書かず)孤独に自己分析を続けてください。
自分がどうしたいのかわかるまで。
自分でも言ってるじゃないですか。もうどうしたいのか自分でもわからないって。
それがわかるまで続ければいいと思います。