はてなキーワード: 片仮名とは
何故に「キミ」が片仮名なのかと思ったら、あ、そうか、別人か
いわゆる国風文化を育んだといわれるひらがなカタカナは、実は渡来系文化人の考案と言う説が濃厚。
平仮名も片仮名も清音と濁音が同じ文字に割り当てられている。これは当時(今でも)清音と濁音が対立しない半島の言語の影響。
昔は日本語に濁音がなかったせいだなんてトンデモ説を言う人もいるけど、平仮名片仮名より古い時代に使われた万葉仮名ではきちんと清音濁音が区別されていることから当時の日本は間違いなく清濁が対立いる言語であることは明らか。もちろん万葉仮名では清音字と濁音字は別の漢字に割り当てられている。
つまり今の日本文化だって渡来系に影響されている部分もあるってこと。移民による文化変容を恐れすぎるのは滑稽だが無視しすぎるのも愚鈍である。
私は始終中腰で隙(すき)があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧(きり)の中に閉じ込められた孤独(こどく)の人間のように立ち竦(すく)んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射(さ)して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条(ひとすじ)で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢(ふくろ)の中に詰(つ)められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐(きり)さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜(ぬ)いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝(いんうつ)な日を送ったのであります。
私はこうした不安を抱(いだ)いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越(ひっこ)し、また同様の不安を胸の底に畳(たた)んでついに外国まで渡(わた)ったのであります。しかしいったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然(いぜん)として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足(たし)にはならないのだと諦(あきら)めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念(がいねん)を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟(さと)ったのです。今までは全く他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、そこいらをでたらめに漂(ただ)よっていたから、駄目(だめ)であったという事にようやく気がついたのです。私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似(ひとまね)を指すのです。一口にこう云ってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をする訳がないと不審(ふしん)がられるかも知れませんが、事実はけっしてそうではないのです。近頃流行(はや)るベルグソンでもオイケンでもみんな向(むこ)うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬(しりうま)に乗って騒(さわ)ぐのです。ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従(もうじゅう)して威張(いば)ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴(ふいちょう)して得意がった男が比々皆(みな)是(これ)なりと云いたいくらいごろごろしていました。他(ひと)の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲(こう)という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑(ふ)に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触(ふ)れ散らかすのです。つまり鵜呑(うのみ)と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔(わがものがお)にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞(ほ)めるのです。
けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀(くじゃく)の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華(ふか)を去って摯実(しじつ)につかなければ、自分の腹の中はいつまで経(た)ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。
Wikipediaで「Árpád Élő」の読み方がわからなくて困っている人がいるので助けてあげたいと思って。上についてるやつは長音記号で、「ő」は「ö」の長音で、「é」は日本語の「イー」と「エー」の間くらいの音らしいけれどもどっちかといえば「エー」のようで、片仮名で書くなら多分「アールパード エーレー」になるのだと思うが、独学なので自信は無いし、ていうかハンガリー語は日本語とかと同じで「姓・名」の順なんだけど、英語で「Elo rating system」っていうくらいだから、ひっくり返してあるような気もして何かよくわからない。そもそもWikipediaって何か怖いのでとても書き込めない←結論。
「世の中」もまた、「セケン」の集合体である
「世の中」と「世間」は、同じだ。辞書を見れば、それは分かると思う。
「世の中」と「世間」は同じだ。集合体とか、そんなものではない。だから、「セケン」と片仮名で書いて、新しい本当の意味であるように魅せている。が、この「セケン」を「文化」に置きかえれば、ただの「文化」の説明文へと化すだけである。というか、「文化」の説明が 新しい「世間」=「セケン」 の説明に化けているだけだ。
目を覚ませ、ここにある「セケン」は確かに「世間」では無いが、「文化」ではあるのだ。
つまり、
「世の中」もまた、「文化」の集合体である
と言っているのに等しい。ただ、「世の中」を「文化」を使ってあらわしているだけである。日本の「文化」やアメリカの「文化」が集まって、世の中を作っている。その日本が「セケン」でできているなら分かるが、その日本もオタク「文化」や、武道など古くからある「文化」が集まった「文化」なのだ。
ここ文「文化」だけが「セケン」に化けているわけではない。
私は確かに「あの」「セケン」から出たが、それは別の「セケン」に所属しなおしただけであって、「セケン」というものそのものから出たとはとても言えない、そもそも「セケン」がなければ評価が発生せず、評価がなければ収入も発生しないのだ。
は
私は確かに「あの」「文化」から出たが、それは別の「文化」に所属しなおしただけであって、「文化」というものそのものから出たとはとても言えない、そもそも「文化」がなければ評価が発生せず、評価がなければ収入も発生しないのだ。
が化けているのだ。
彼は、彼が言うには厳しい学生「文化」から、甘い日本、もしくは世界の社会という「文化」に移った。所属しなおした。
そして、どこが「そもそも」なのかは分からないが、「文化」がなければ評価は発生しない。それは当然であり、あえて言うことでもない、周知の事実である。日本の「文化」圏で誰かとであったときに「こんにちは」といえば評価されるが、アメリカで「こんにちは」といっても首を傾げられるだけで、「Hello」という必要があることは中学生にでもなればほぼ全員が知っている。
「一生モノの文化」があればそういう人生も可能なのだろうが、そんな文化を見つけるのは、今や億万長者になるより難しそうだし、そういう世間に生まれ落ちるのはさらにありえない僥倖だろう。
すでにセケンは文化に直してある。世間はそのままだけど。
「一生モノの文化」を日本などの国で手に入れることはできない。義務教育内の学生「文化」と社会と呼ばれる大人たちの「文化」の差がはっきりできている。
文化はあなたを変えるが、あなたもまた文化を変えるのだ
やはりもうセケンは文化に置き換えてある。
文化に置き換えても、まさにその通りで意味も変わらないのである。日本の「文化」で育つかアメリカの「文化」で育つかはで、食べるものから考えかたまで、かなり人間が変わる。「文化」の外見や内面も変わる。例えばトヨタやソニーの創業者は日本という「文化」の見られ方をかえた。オタクたちは「小文化」の集まりである日本の「文化」にオタク「文化」をくわえた。2ch的にいえば、日本板に新ジャンル「オタク文化」というスレッドを立てたのだ。しかし、「文化」で変わることはできても、こんな大きな「文化」を変えるのは難しい思うかもしれない。でもそんなことはない。もっと小さく考えるのだ。あなたでも○○家、○○校、○○会社の文化は簡単に変えられるだろう。
彼の言う「セケン」=文化 というのはこれで証明できたのではないか。
結局、彼、弾氏は、カタカナ語をたくさん使って自分を高く魅せている人達のように、「文化」を「セケン」と置き換えて、あたかも新しい言葉のように説明して自分を高く魅せているだけのように私は見える。
この意見に反論したり、弾氏の言う「セケン」と「文化」を分ける線を引けるものなら引いてみろ。負けない自信はある。
対人関係をなぜかゼロサムゲームとして解釈しちゃう人っているよね。
金銭的取引が関係してくる場合には特に。
http://anond.hatelabo.jp/20070611170030
「Win-Winの関係」って言葉を使う人いるでしょ。経験上広告屋に圧倒的に多い気がするが、他のところにもいるかもしらん。
聞くたびに考えるわけだ。商売にとって双方が儲かるというのは、最低限の常識というか基本中の基本ではないのかと。高値でも、付加価値のっけてさばく自信があるから買う。接待も初回無料もiTunesも越後屋の「傘貸します」もそうだが、仮に取引の片方が短期的に損しても、その取引が長期的な利益に繋がる見通しがあるのは、商売の必要条件だろうと。
その常識をわざわざ片仮名でウィンウィン言って強調しなきゃならんて、双方が利益を得る取引は、おまえにとってそんなにレアなのか?
おまえの普段の仕事は客に損させることなのか?
それとも俺が間違っていて、世の中のビジネスマンは、爬虫類が獲物とるみたくゼロサムゲームをやってるのか?
そんな考えを持っているとしたらおまえの提案なんて金輪際聞きたくないんだが。