「世の中」もまた、「セケン」の集合体である
「世の中」と「世間」は、同じだ。辞書を見れば、それは分かると思う。
「世の中」と「世間」は同じだ。集合体とか、そんなものではない。だから、「セケン」と片仮名で書いて、新しい本当の意味であるように魅せている。が、この「セケン」を「文化」に置きかえれば、ただの「文化」の説明文へと化すだけである。というか、「文化」の説明が 新しい「世間」=「セケン」 の説明に化けているだけだ。
目を覚ませ、ここにある「セケン」は確かに「世間」では無いが、「文化」ではあるのだ。
つまり、
「世の中」もまた、「文化」の集合体である
と言っているのに等しい。ただ、「世の中」を「文化」を使ってあらわしているだけである。日本の「文化」やアメリカの「文化」が集まって、世の中を作っている。その日本が「セケン」でできているなら分かるが、その日本もオタク「文化」や、武道など古くからある「文化」が集まった「文化」なのだ。
ここ文「文化」だけが「セケン」に化けているわけではない。
私は確かに「あの」「セケン」から出たが、それは別の「セケン」に所属しなおしただけであって、「セケン」というものそのものから出たとはとても言えない、そもそも「セケン」がなければ評価が発生せず、評価がなければ収入も発生しないのだ。
は
私は確かに「あの」「文化」から出たが、それは別の「文化」に所属しなおしただけであって、「文化」というものそのものから出たとはとても言えない、そもそも「文化」がなければ評価が発生せず、評価がなければ収入も発生しないのだ。
が化けているのだ。
彼は、彼が言うには厳しい学生「文化」から、甘い日本、もしくは世界の社会という「文化」に移った。所属しなおした。
そして、どこが「そもそも」なのかは分からないが、「文化」がなければ評価は発生しない。それは当然であり、あえて言うことでもない、周知の事実である。日本の「文化」圏で誰かとであったときに「こんにちは」といえば評価されるが、アメリカで「こんにちは」といっても首を傾げられるだけで、「Hello」という必要があることは中学生にでもなればほぼ全員が知っている。
「一生モノの文化」があればそういう人生も可能なのだろうが、そんな文化を見つけるのは、今や億万長者になるより難しそうだし、そういう世間に生まれ落ちるのはさらにありえない僥倖だろう。
すでにセケンは文化に直してある。世間はそのままだけど。
「一生モノの文化」を日本などの国で手に入れることはできない。義務教育内の学生「文化」と社会と呼ばれる大人たちの「文化」の差がはっきりできている。
文化はあなたを変えるが、あなたもまた文化を変えるのだ
やはりもうセケンは文化に置き換えてある。
文化に置き換えても、まさにその通りで意味も変わらないのである。日本の「文化」で育つかアメリカの「文化」で育つかはで、食べるものから考えかたまで、かなり人間が変わる。「文化」の外見や内面も変わる。例えばトヨタやソニーの創業者は日本という「文化」の見られ方をかえた。オタクたちは「小文化」の集まりである日本の「文化」にオタク「文化」をくわえた。2ch的にいえば、日本板に新ジャンル「オタク文化」というスレッドを立てたのだ。しかし、「文化」で変わることはできても、こんな大きな「文化」を変えるのは難しい思うかもしれない。でもそんなことはない。もっと小さく考えるのだ。あなたでも○○家、○○校、○○会社の文化は簡単に変えられるだろう。
彼の言う「セケン」=文化 というのはこれで証明できたのではないか。
結局、彼、弾氏は、カタカナ語をたくさん使って自分を高く魅せている人達のように、「文化」を「セケン」と置き換えて、あたかも新しい言葉のように説明して自分を高く魅せているだけのように私は見える。
この意見に反論したり、弾氏の言う「セケン」と「文化」を分ける線を引けるものなら引いてみろ。負けない自信はある。
danさんのやつは、例えば、阿部謹也の「『世間』とは何か」なんかにおける「世間」の意味を意識してるんじゃないのかな。 そういう意味では、新しくはない、普通の使い方だと思うけ...