はてなキーワード: 偽善とは
「私の使ったお金で誰かが死ぬかもしれないし、傷ついているかもしれない」という理由で不買活動する友人に腹が立つ。
更にだからここの店はやめようよ、と活動を勧めて来ることにも腹が立つ。
「イスラエルのしていることは人道的に間違っていることで、それに抗議する意味でボイコットする」と言うのなら文句はない。
「誰かが傷つくかもしれない」という理由で不買運動をする彼女に不満を持っているのだ。
あなたが不買運動をすることで、また誰かが傷ついて、死にたくなってしまうかもしれないよ。
それを考えた上でその企業が憎い、金を落としたくないと思うなら、文句は何もない。
しかし、その上でも考えを人に押し付けるのはやめろ。私はマックはそんなに嫌いじゃないんだ。
マックチキンが久々に戻ってくるから食べたいんだ。
貴方の絶望の深さを理解できた気がします。
その絶望こそが、貴方の『世界を守る意義などないのではないか』という問題提起に深く根差しているように私には思えます。
その絶望を解消することは、貴方自身にとっても、他人にとっても、難しいでしょう。
ただ私が前述したように、感情というものは移ろうものなのではないでしょうか。
貴方の絶望も、いずれ薄れていくのかもしれません。
その時には、自然と貴方の抱えている問題も、解消されていることでしょう。
というより、今現在の時点で問題を解決する為の具体的な手段がないのでは、自然に解消することに期待する他ないのかもしれません。
あるいは、先に述べたように、貴方のそもそもの考えが間違っていることを祈るしかないのではないでしょうか。
オマエがただのゲーヲタだってことはわかった
別に構わないさゲーヲタ結構
だけど人間性かなり低いな
いい歳してそれって情けないぞ
周囲にはバレてないからいいってか
愛妻家のふりして実は嫁に捨てられるのが怖いだけ
親とか親戚を大切にするのはいざって時に助けてくれる人がいないと自分が困るから
つまりはすべて保身でしかない
当然友達は少ないよな
だって本気で友情とかないだろ
何人かで楽しく遊んでもすぐ飽きる
心から信頼してわかりあえる友達なんてできっこない
まあ友達いないから人間失格ってことにはならないか
そもそも気分次第でメール返信しないとこからして失格だけどな
ちょっと頭の回転が人より早いから生き延びてんのか
ちょっとイケメンだから周りも許すのか
欺かれてる周りの人たちは気の毒だと思う
オレはたまたまオマエの本性らしきものに触れたからわかったが
周囲でだまされてるヤツは多いんだろうな
たぶん最後までボロ出さないだろうから葬式にはたくさんの人が来て泣いてくれるだろう
ここまで書いて気付いたが
オマエは天才詐欺師かもしれない
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
それは果たしてどうでしょ?「人道的な屠殺」などが偽善と反発される文脈は、肉食や捕鯨についての現行のあり方が批判された場合の反発などが主だと思うよ。逆に現行のやり方と比べて残虐と見なされる振る舞いであった場合には、容易に激しいバッシングが起こるよ、日本でもね。
つまり、日本で「気休め」以上に受け止められると単純に言うことはできない。整合的な理論として「気休め」に過ぎないって信念を持っているわけではない。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
動物の苦痛の低減が倫理的意味を持つことは、認められているものとしてこの議論は進んでいると認識している。
もちろん、この前提を疑うことは可能だし、疑う議論も実は多いし、そういった議論にも、個人的には面白いと思ってますが
今、私たちがやっているやりとりの範囲内では、この前提自体はどちらも否定していない、と理解していますし、それが一般的価値観であることも合意されている。
一方、「業の自覚」の倫理的価値についてはあなたの側しか認めていない。
つまり、「動物の苦痛の低減」には、一歩のアドヴァンテージがあるわけよね。
だから、あなたが行うべきは、以下の二つになる。
2.「業の自覚」の価値が主張。この罪悪感は、実際の動物への配慮につながるから価値があるのではなく(むしろそれは偽善として非難される)、頭の中と口先だけで完結するだけであっても、現実の動物の苦痛を低減することに匹敵するだけの価値があることの擁護。
ちなみにあなたが1を選択した場合、こっちはアニマル・ライツの人たちの代弁で議論するか、もうちょっと別の方向でゲームを続けるかちょっと悩んでいる。アニマル・ライツの議論の流用の方が頭使わなくてすむから楽だし、文脈にも合ってるけどね。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
あなたが、”動物への配慮”を重視するものと考える西洋的発想のアンチテーゼ的世界として持ち出してきた東洋像への反論。アンチテーゼとして成り立たないことさえ、示せればそれで議論としては十分。
「何の倫理的問題もない」とはこの議論の中では誰も言ってないと思うのだが、この議論の外にはそういう考え方をする人もいるので、
彼らには彼らのロジックがあるのですよ、とだけ言っておきます。知ってた上で言ってるのかもしれませんが。
私がイラつくのは罪悪感を感じることや「感謝の気持ちは大切だよね」的感性それ自体じゃなくて、それで「菜食主義者」や「アニマル・ライツ」みたいな非論理的な連中を論破できると自信満々な連中なので、論理的整合性の外側での実践やおしゃべりはどうでもいいです。
ついでにいうと、「アニマル・ライツ」が肉食主義を論理的に完全に論破できるとも思ってないです。
だから、「業」論者がアニマル・ライツを超えるもっともらしい論理大系を示してくれれば、それで十分。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?
したがって、これにはその通り。
一般的な原理主義研究では、原理主義の特徴はその選択性にあるといわれていると思いますが(たとえば、近代的なものに対する反対物として、伝統の中から選択的にその”本質”を選び出す、とか)。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
そのあとに「それを指摘することに特段の意味はない」と書いたのを繰り返します。そこに意味はない。グリーンピースでも何でも日本にもいるんだから、日本の文化の一部でもある。
なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
え、私が広げたの?元増田の時点で、論理的に論破してやったぜ!な人なんだからそこが起点なんだけど。
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
「普遍でないものを拒否する権利」がタリバンにあり、タリバンの存在がタリバンを批判する価値観の普遍性を否定している。よってタリバンはタリバン批判を拒否する権利がある。って話?
当人ってのは私のこと?
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
3は正当化が必要。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?そんなことを言えば俺から見れば「人道的な屠殺には何の倫理的問題もない」という方がさっぱり理解できないが。
そもそも、これを言ってしまうとおしまいだが、倫理観の是非を論理的整合性で判断するのは危険だぞ。なぜかというと、論理的整合性に重きを置きすぎれば行き着く先は原理主義だからだ。論理的な説明というのは所詮少数の仮説から出発するしかないわけだが、実際には受容されうる倫理観の前提を全部書き下すことなんてできていないんだから、当然論理的整合性に重きを置いた判断にはアラがでまくるわけだ。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
こちらは最初からアニマル・ライツだの動物福祉だのの教義は問題にしていないわけだから当然そうなる。要は、アニマル・ライツだの動物福祉だのだけが捕鯨反対を叫ぶなら「狂気とはいえ筋が通っている」が、一般の西洋人を巻き込んで政治問題化することが日本人を怒らせているわけだろう。散々牛肉を買わせておいて鯨を食うなとはなんだと。それだけの話にそんな大げさな前提が必要なのか。なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
全然違う。
1. 「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という分け方は、日本では大きな賛同を到底得られる考え方ではなく、多くの感情的に反発を受ける。
2. むしろどんな形であれ、生物を殺すこと自体が業であり、それの一部なり全部なりだけを理由付けて全面正当化できると思っていること自体がおためごかしだ、という考えが現代日本では主流である。
3. この2.の考え方が、1.のような考え方に比べて劣っているという根拠はどこにもない。文化的背景に起因する生物観の違いなので、「どっちもどっち」とすべきである。
以上。
1は字面的には正しい。ただ西洋にそういう意見がまずない日本固有の発想って含意があるなら、その限りではない。
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
もちろん、アニマル・ライツの人に言わせれば、数多の問題点が出て来るだろうけど、君が主張するように西洋と比べて格段に軽視されているということはないと思う。
3は正当化が必要。
だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。
これが藁人形だとすると、実際の君は何を言ってるんだ?こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
意味がわからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。
いや、アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
そこを批判しているはずなのに、「一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら」なんていわれても困る。
それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?
「文化的土壌」で何を言ってのかわからないし、「」内部がどの範囲の人や主張を指しているかも悩むけど、たとえば、キリスト教(西洋?)の教義から導かれたものとしてる狭義のアニマル・ライツとか、その手の議論を捉えているかと言われるとNOです。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。それを指摘することに特段の意味はない。
狭義のアニマル・ライツについては、現代倫理学の議論からでてきたものとして理解していますが、議論によって育まれた理由付けの体系として把握しています。こういった議論の中で出てくる様々な前提を指して「文化的土壌」と言っているのなら、それが普遍的合意を得られるものではないと、私も思います。
道徳的直観ってのは常にそういうものです。絶対の公理なんてない。メタ的立場に立った議論はできるけど、その場合、あなたの主張もそれは適用される。たとえば「”異文化”に口を出すべきではない」の通文化性・自明性はそれほど高くない。もちろん、様々な文化の文献からそういった文章を集めることはできるが、普遍的価値とは言い難い。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
その主張は普遍的(せめて通文化的、もしくは万人が認める道徳議論の前提となる公理)な根拠があるのでしょうか?そうは思えないのですが。ないのならその主張は自己論駁的です。
それが何?俺は現代の日本が属しているようなものを「東洋」と言ったわけで、当然何の断りもなければ「現代」になる。西洋の影響を一切排除したものでなければ「東洋」でないというのなら当然15世紀以前でなければならんわな。そんなアホなという話になるが。
だいたいそもそも「東洋」「西洋」という切り分け自体が「西洋」由来のものだわな。もし日本人が切り分けるなら、境界線はウラル山脈やボスポラス海峡なんかじゃなくてインドあたりになるだろうよ。
はあ?誰も「肉食禁止令」の反証なんかしてないだろう。ものを食うということは殺生という業を背負っているという感覚が日本人には伝統的にあって、それが日本の文化的背景だといってるの。くだらん藁人形論法はよしてくれ。
誰がそんな主張した?
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
この人。そこからの流れなんだが。いまさら誰が、と言われても困る。
それは俺じゃないし俺はその考えに同意しないので俺に絡まれても困る。
俺はあくまであんたが俺の考えを「妄想」認定した部分に反駁しただけで、他人が何を言おうが知ったこっちゃない。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
まさか西洋化後の近代日本を持って「東洋的価値観」の代表と言うわけ?
何でそれが平安時代の肉食禁忌令などの反証になるのかわからない。
というか、君の言う「動物も植物も東洋的価値観では」理論だと罪の意識にさいなまれるのは漁師よりもまず農家でなければならないのだが。
どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。
そういう「動物も植物も同じ」「人道的屠殺は偽善」って主張の人が君みたくそれなりにいることは確かだが、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」はどちらも動物の話でしょ。
あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
こちらとしては議論の適切さにしか関心がないので、立ったら最初っから首を突っ込まなきゃいいのにと思うわけです。
菜食主義や動物福祉が正しいと言ってるのではなく、元増田みたく薄弱な論理で勝利宣言する連中が気持ち悪いので。
誰がそんな主張した?
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
この人。そこからの流れなんだが。いまさら誰が、と言われても困る。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
ただそこっから、前近代の日本が「動物を食べるのも植物を食べるのも同じ罪だから云々」な文化だって主張を成り立たせるのは誤りだろう。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
一応肉食禁忌の流れは平安時代からあったはずだが、色々な変遷はあっただろうけど。でもそれでさえあなたのいう「東洋的発想」の反証には十分。
とりあえず法然が漁師になにを言ったかぐらい調べてからそういうことを言ってくれ。どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
誰がそんな主張した?もう一度俺が書いたことを抜粋するぞ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
勝手に独善的菜食主義者の裏返しみたいな俺様文化帝国主義者にしないでくれ。
あなたのいう「感謝の気持ち」や「業を背負う」ことが大事って主張は、「人道的な屠殺」だの動物福祉だのベジタリアンを偽善と見下す以外に何の意味があるのかわからない。
明らかに俺は「東洋風の信仰」と「西洋風の信仰」という風に相対化して書いてるわけで、東洋風の「信仰」こそが「大事」なんて思ってるわけないだろ。つまらんいちゃもんはよしてくれ。
横ですが。譲りたくなるよね。
偽善と言われようが何と言われようが、妊婦・老人・幼児連れ等が居ると譲りたくなる。
一度その存在に気付いたら平然と座ってられなくなる。
でも相手はいま辛がってるかもしれなくて。
それとも、あなたのいう「東洋的発想」って現代日本って意味なの?
だったらわかるように書いて欲しかったな。ただ私も現代日本人なんで対応に困るけど。
誰が「前近代の日本では植物は生物ではないとされていた」って趣旨のことをいったの?
「山川草木悉有仏性」という言葉を見ればわかるとおり、むしろ「山」とか「川」のような、現代的視点では無生物であるものまで生物扱いされていたと考える方が正しい。
仏性って宗教的にテクニカルな発想だから、単純に「生命」や「意識」とは置き換えられないものと理解しているけど。
それはともかく、植物や無生物がアニミスティックに擬人化されることがあったのは事実だね。
ただそこっから、前近代の日本が「動物を食べるのも植物を食べるのも同じ罪だから云々」な文化だって主張を成り立たせるのは誤りだろう。
「イスラム圏では違うので、東洋全部じゃない」って反論なら言いがかりだけど、「東洋的発想」って主張への反論への列挙の中に加えただけなら言いがかりとはいえない。
むしろジャイナ教の一例を持って、「東洋的発想」とか言う方が無茶でしょ。
一括りにはできないね。一応肉食禁忌の流れは平安時代からあったはずだが、色々な変遷はあっただろうけど。でもそれでさえあなたのいう「東洋的発想」の反証には十分。
「厭う」ってあのな。漁師だってサディストじゃないんだよ。「もっとマシな方法があるからそれを使えば」という建設的な提案なら聞く耳も持つだろうよ。単に「人道的な屠殺」というのが見え見えの口実だから依怙地になってるだけだろうに。
漁師の話がいつの間に出てきたのかちょっとわからない。「人道的な屠殺」っていう実践は偽善で、「罪の意識や感謝の気持ち」って内面の問題こそ大事って主張に対する批判だよ。
別に漁師が苦痛を最小化するよう努力を払ってても別に驚かないし、この際関係ない。自分の主張への批判を何で漁師にそらすかわからないです。
そもそも、日本人が奴らに反発するのは「お前が言うな」という心理が一番強いだろう。人間に対して「人道的な屠殺」という言葉を使った奴らにまさにナチスというのがいるんだが(ガス室は人道的な処刑法だと強弁していた)、「牧場での牛や豚の屠殺は人道的だからいいんだ、それに対しておまえらの屠殺方法はなんだ、野蛮人!」というのは、まるでヒットラーがスターリンや毛沢東やポルポトをえらそうに罵倒してるようなもんではないかね。
「私は感謝の気持ちを持って屠殺してる。それに対しておまえらの内心はどうだ、野蛮人!」ならいいの?
と言うか、そのたとえだと残虐なやり方で虐殺しているスターリンや毛沢東やポルポトにだって「お前が言うな」と返す資格はないと思うんだが。
「他人を見下すため」という理由付け自体が言いがかりなので反論の必要なし。
言いがかりじゃないでしょ。
あなたのいう「感謝の気持ち」や「業を背負う」ことが大事って主張は、「人道的な屠殺」だの動物福祉だのベジタリアンを偽善と見下す以外に何の意味があるのかわからない。
正確には「他人を見下すため」以外に意味を持たないって方が適切かな。
遅くなってごめん。
http://anond.hatelabo.jp/20091011030744=http://anond.hatelabo.jp/20091011033130です
http://anond.hatelabo.jp/20091011140528
気持ち悪い偽善、というのはわかるけれど、この考え方はそもそも他の生命の犠牲なしには生きていけないという事実に対して感じてしまった罪悪感を軽減させるためのものでしょう。
もとの罪悪感がないところで服用されると副作用がでちゃう薬のようなものだと思う。
菜食主義者とかに対して、侮蔑を振りまくような人達を想定していた。
個人的に罪悪感を感じてそれを低減させるためにそういう考え方をとっていて、他人を攻撃しない人のことは考えてなかった。
言われてみるとそういう人にはいちいち嫌悪感を感じないかも。
http://anond.hatelabo.jp/20091011203011
横から悪いけど、そんなこと言い出したら、犬や猿を食べる民族だっているわけだからね。特に犬を食べる民族はすぐお隣にいるわけだが、君はそれを否定するわけか?
だいたい、知能が本当に重要なら、知能が相対的に高いとされる豚や牛よりも、相対的に低いとされる猫を食った方がいいということになる。でも、向こうの連中は「猫を食うのは野蛮人」だと思ってるわけで、そこでもまた破綻してるんだよ。
向こうの連中って誰?色々な意見を一まとめにして矛盾とか言ってもしょうがないよ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
こっちはちゃんと私の意見への批判だね。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。
いや自分は西洋人ではないんだけど、西洋風の発想と言われてもな。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
中国についてはちょっと調べてみないとわからない。インドについては伝統仏教的な考え方のルーツで、基本的に慈悲の対象として想定されるのは動物で、植物は例外的。イスラームも動物愛護的な発想がある(審判の日に、人間に殺された動物が自分の殺害の不当性等を、神の前で訴えると言うハディース)が、植物の権利って話は聞かない。
何がおぞましいのかよくわからない。西洋的だから?
罪を自覚すると言いながら、動物の苦痛を低減させることさえ厭う、自称「罪の意識」の方がおぞましい。一種の自慰行為だよね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。
でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
西洋と東洋の対立って話自体があなたの妄想だし、現実的にお互いに口を挟まないなんて事は不可能。
ヒンドゥーが聖なる動物について「牛を食うな」はともかく、ムスリムがただの宗教的禁忌に過ぎない「豚を食うな」を押し付けてくるなんてわけがないじゃん。
http://anond.hatelabo.jp/20091011163548
ベジタリアンがアウトともセーフとも言ってないよ。ベジタリアンにはその反論は無効だと言ってるだけで。
http://anond.hatelabo.jp/20091011203305
個人的にはベジタリアン叩きの方ばっかりよく見るんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20091011204130
自分を含むたいていの人にとって、DNAかどうかってあまり関係ないと思う。
人間と区別できない社会や精神を持った宇宙人と遭遇したとして、その宇宙人が遺伝を担う物質にDNAが使われてなかったとしても、その宇宙人を犬やネコより人間扱いするだろうさ。
http://anond.hatelabo.jp/20091011205224
なんか精神病らしいから、「こんな乱暴な言葉を書かざるおえないほど心が荒まれてる人なのね……暖かい目で見守ってあげないと!」「y_arimさんは病気だし……」「確かにそういう面もあるけど、僕は彼のいい面を積極的に評価したい」とか「自分には人の心を持ってますよ!思いやりできる人間ですよ!」ってアピールしたがる偽善者どもの集まりであるはてなではウケがいいんだよ。色々なコミュニティから追い出されたy_arimがはてなに長く居ついているのもそのせい。あと暴言で傷つく人よりも流行りのネタにどうでもいい長文エントリー書いて話題を引っ掻き回してくれたほうがはてなが盛り上がって楽しいし。中学生がヘラヘラ笑いながら「これはいじめじゃなくていじってるだけですよーw」とか言ってることのはてな版が「これは暴言じゃなくて病気のせいなんですよー」なんだよ。
追記、増田です。
あのとき悩んでいたのは
自分は人に優しくしようとしてて、実際わたしとかには結構優しく思えたのに
だれかを傷つけてそのことに気づかずに、自分の傷を強調して、相手を攻撃してる・・・
って事態に直面してたからで、しかもそれが複数で、辛かった笑。
で、なんでこうなっちゃうのかな-
この人たちは優しくないのかな-って混乱してたんだけど
きょう、ちょっと分かったかもって思ったのでちょっとまとめてる。拙いけど。
結局、多くの人が優しくありたいって思ってるんだと思う
(もしかしたら、幸せなことにわたしの周りには多いのかもしれないけど)
でも、傷ついたり、傷つけたり、傷つけあったりするのは、
人間関係に正解が無くて、百人いれば百通りの優しさが存在するからで
そのすれ違いで人は傷ついたり、傷つけたりするのかなって答えに行きついた。
だから、『優しさ』っていうのは
『自分の優しさの尺度』じゃなくって、 『その人の優しさの尺度』ってなにかな?
って考え続けながら、優しくしていくことが『優しさ』ってことなのかな。 と
あとは『優しくしたいんだよ』って気持ちを伝えること。
もういっこ忘れがちだけど大事だと思うのは、
『自分はこうれさると嬉しいよ、こうされると悲しいよ』って
気づくことと、伝えることは、同じくらいとっても大切で。
傷ついても、臆病にならないこと、確かめないまま、諦めないこと。
傷つくと怖くって、むかついて、辛いけど。
その人に優しくしようって気持ちを失くさないで、がんばれ。
人を好きでいようとがんばって、人が人を好きになってくれるようがんばること。
でも完璧にならなくても、失望しないこと。これも大事。
(あと、どうしてもむかつくやつは、しばらくほっとけ)
まわりが好きって気持ちで包まれてたら、やっぱり幸せかなって思うので。
因果応報で、わたしが人を傷つけたりもしたと思う。
でも生きてれば挽回のチャンスはあるはずだし、めげないで。
ああ、なんだかまた人を信じられそうです。
青臭く、どっか違うってとこもあるかもな考えだけど。個人的にこれでしばらくがんばります笑。
やっぱ生きてるの好きだわ。これからも悩むんだろうけど、がんばろうって思えたので記念追記。
男の子が女の子を泣かせちゃったら、どんな状況であっても一応は「ごめんね」って言って欲しい
よっぽどの性悪女とか嘘泣きとかは論外だけど
この間、三年間付き合った男に別れ話された
別れたがってるってうすうす気づいてたから「あ、きた」って思ったけど
やっぱ涙が出た
なのに最後まで「ごめんね」はなかった
私がすっごく悲しい想いしてんのにさ
「ごめん、もう会えない」って言えばいいのにさ
「ありがとう、さよなら」は言ったけど
「ごめん」は言ってくれなかった
いつも周りの人には気を使ってるし
「オレは博愛主義者」みたいなこと言ってるくせに
「え、それだけ?」って思った
偽善者かよ、って
好きだったからあんまり悪く思いたくないけど
なんかガッカリだった
まあ、未練を断ち切るにはこういう落胆はちょうどいいのかな
なんか、中島義道の
(『愛という試練』参照)
まぁなんにせよ、自分がした行動で相手が喜んだらいいんでないのか。
しないより、する偽善って言うじゃないか~。
次はオサマ・ビン・ラディンが受賞しても不思議でなくなった
****************************************
テロリストにノーベル平和賞が与えられたことがある。故アラファトPLO議長だ。
イスラエルとの和平交渉にのってオスロ合意に至ったのは、弱体化したPLOの最後の選択だった。それ以外、選択の余地はなかった。ラビン、ペレス両イスラエル指導者と三人同時受賞だった。
それ以前まで米国はしばしばアラファトを「テロリスト」呼ばわりしていた。
オサマ・ビン・ラディンはCIAの手先だった。
アフガニスタンからロシア侵略軍を撃退し、米国はパキスタン経由の武器援助をやめ、反ソ活動家への援助も打ち切った。
政治環境が変わると、かれはテロリストと認定され、世界に指名手配された。
ならばもう一回転向し、和平交渉に乗ってきたら、オサマだって受賞資格がある。
理想を述べたにすぎず、ロシアは同意するそぶり、手をたたいて喜んだのは北京だった。バラク・フセイン・オバマ路線によって、もし米ロが戦略的核兵器を削減すればバランス上、中国の核戦力が突出することになるからだ。
オバマは受賞を聞いて「これは『行動を起こせ』という呼びかけだ」と受け取った。
ノーベル平和賞が、つぎの国際政治のパラダイムをオバマに強制することになる。露骨な政治的思惑だが、ノルウェー政府の考えそうなことである。もっともキッシンジャーやカーター、スーチー、金大中と、へんな受賞がつづき、もはや「権威」は雲散霧消しているのだが。。
ロシアが核兵器削減に前向きなのは、じつは「過剰」な在庫の中に旧世代の核兵器(事実上、もっていても仕方がない)からプルトニウムを取り出して、原発原料に回したいからである。
米国も「過剰」なICBM在庫を削減し、管理コストを下げたい。そうした経済コスト意識が裏面に潜んでいる。
手放しで喜んでいる人たちは偽善者の本質を、その打算と汚らわしい打算とを軽視するか、無視する。
ちょうと筆者は福田恒存氏の「文学と戦争責任」を読んでいた(下欄、書評参照)。
偽の英雄を、現代世界はまたでっちあげた。その人の名はバラク・フセイン。
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通巻第2736号
横から悪いけど、そんなこと言い出したら、犬や猿を食べる民族だっているわけだからね。特に犬を食べる民族はすぐお隣にいるわけだが、君はそれを否定するわけか?
前のオリンピックやワールドカップのときに犬食レストランは営業停止させられたり自粛させられたりということがあったわけだが、どう考えても西洋人の傲慢だろう?
だいたい、知能が本当に重要なら、知能が相対的に高いとされる豚や牛よりも、相対的に低いとされる猫を食った方がいいということになる。でも、向こうの連中は「猫を食うのは野蛮人」だと思ってるわけで、そこでもまた破綻してるんだよ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
ベジタリアンが動物と植物は別の列に考えてる節があるのが偽善だって思っただけだよ。
別に大量に食べるとかそんなことは言っていないし、食べたい量だけ食べればいいだろう
ぶっちゃけ、ベジタリアンを根拠にクジラ漁を批判する連中よりは「かわいいから」とかいう理由で
反対するやつらの方がまだましな気がするなあ。五十歩百歩でどっちも受け入れられないのには変わらんが
ベジタリアンがセーフと言うつもりはないけど、だから、気軽に肉を食っても良いという理論にはならないだろうと。
感謝して食べなさいというのは正解だし、罪深さを理解しなさいというのは、正解だけど。だから、肉を毎日大量に食っても良いという理論にはならないだろうと。
偽善はどうかと思うけど、偽善だから、肉を食っても良いという事でもなかろうと。
この国は弁当見ても、スーパー見ても、肉肉肉肉肉肉で、ちょっとどうかと最近思うよ。真面目なところ。もう少し穀物・野菜中心の生活でもいいんじゃなかろうかと。