はてなキーワード: 偽善とは
気持ち悪い偽善、というのはわかるけれど、この考え方はそもそも他の生命の犠牲なしには生きていけないという事実に対して感じてしまった罪悪感を軽減させるためのものでしょう。
もとの罪悪感がないところで服用されると副作用がでちゃう薬のようなものだと思う。
脳の体積よりも、行動や鏡への反応からの推測の方が大きいよ。
もちろん、それが十分な根拠になるかってのには懐疑論もあるわけだけど、
イルカ信者はそう信じている、または「他の動物よりも自意識をもっている可能性が高い以上」、他の動物よりもその分リスクがあるってことを認めるべきと考えているわけだ。
発展したものであることをお忘れなく
それは単純に不正確、動物福祉的側面は無視できないほど大きい。
例えば、マクドナルドの契約畜産業者の選別なんかにも、動物福祉思想の強まりが絡んできている。
それと「動物愛護」の問題と「屠殺従事者の精神衛生」の違いがよくわからない。
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
これまでの意見は他人の意見の代弁だったけど、私個人の意見を言います。
反捕鯨も捕鯨もそれ自体はどうでもいいし、私も肉は食べてます。
でも「食べられた命に感謝してる自分」とか「業を背負って生きる自分」とかに酔ってる偽善は気持ち悪い。
その感謝だの業の自覚だのが牛や豚にとって何の意味があるわけ?お百姓さんや漁師さんに感謝ならわかるんだけどさ。
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
寄生する、短絡的な生き物についてのことである。
集計値にはいかようにも解釈可能な幻想が施され、言霊となり「善」や「正義」を装いメンバーをコントロールする。
それら「善」「正義」は、普遍的なものではない。厚生最大化の対象は、属するチーム内に限定される。
「他チームより優位に」が本質目標であり、その意味で、多分に偽善的な「善」「正義」であり、その裏の顔は、コミュニケーションの本性と同様、「他者の操作」である。
30年後、短絡的な生き物もおしなべてモナド化させられ、集計値(⇔単子)という言霊により宿主を操作する、ということも不可能化する。
一方注意深き者は、偽善と自己防衛の狭間で苦しみ、要素価格の均等化に怯えながら暮らすのがそこまでの未来である。
「善」や「正義」を捨て、評判を拠り所とし、私的言語の世界に戻り、機械論者となり、生態圏をずらしにかかるのが、裕福な人間だ。 9.28 8:21 修正
横増田だけど、ものすごく腹が立っているので、コピペ文と元投稿文を全面貼り付け。
コピペだけ読んでコメント付けてる、ほかの増田さんにはなんの落ち度もないけど、やはり、一部だけでは元増田が言いたいことは歪んで伝わっていると思った。出来れば元投稿も読んでもらいたい。
http://anond.hatelabo.jp/20090927210711
日本の大抵の男性は、女性を馬鹿にしている。そして、そのこと自体に全く気づいていない。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。
それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
■http://anond.hatelabo.jp/20090925071837
正直、こんな時間に書くことじゃないんだ。明日やることもあるんだし。
ただ、私にとって、考えを大きく揺さぶられる出来事があったから、少し話をさせて欲しい。
ちょっと長くなるかも。あと、女性向きだよ。男性は気分悪くなるかもよ?読むなとは言わないけれど、念のため注意。
http://anond.hatelabo.jp/20090925071837
↑の記事を、オンライン上の友達に、何気なく見せてみた。
ホント、何の反応も期待してなかった。流せる雰囲気だったから、多分何の反応もないだろうと当たり前のように思ってた。
でも、その人は言ったんだ。『抗いたい』って。
この言葉に、私は懐かしくなって、ものすごく申し訳ない気持ちになって、泣きたくなったから、それについて書く。
やってたことは、女性問題、黒人問題、水俣病問題、沖縄基地問題、色々だ。
ゼミ一番ショッキングだったのは、『私が差別者だ』ということを直視しなくちゃいけないことだった。
社会学を学んだことのある人は、どうか笑わないでほしい。私は、私が世界中のあらゆる差別問題の中に居て、その中のほとんどの状況で差別者なのだ、と、抵抗なく認識できるまでにまるまる1年かかってしまった。
「だって、私はなにもしてないのに、ただ生きてるだけなのに、どうして他人を差別しているなんて言うの?」という疑問を解消する、それだけでだ。課題図書や、毎度のレポート提出が嫌いだった。『分りたくない、信じたくない!』ってずっと思ってた。
社会学を学んだことの無い人は、差別問題をどうか他人事と思わないで欲しい。あなたは世界中の差別問題の中に居て、ほとんど常に差別者だ。
日本国民、大和民族、正社員、男性、健康体である、という、ただそれだけで差別者だ、というのは、すぐには受け入れがたいと思う。(先述の通り、私も理解するのにまる1年かかった)それでも、社会という構造の中にいる限りは、その中で差別者として無意識に振る舞ってしまうことが常にある。無意識に、他人を傷つけている。確実に。
そして、たいていの場合、特別に本を読んだり勉強をしなかったら、この『無意識の差別者』状態から、人は絶対離れない。
だって、この状態が最高に快適だもん。味方は多いし、強いし、くさい、汚い、怖いことはないし、安定している。
この状態から、どうしてわざわざ、よわっちい被差別者の味方をしたり、あまつさえこの特権を引き渡すなんてことをしなくちゃいけないんだ?ってなる。
だから、差別者はこの状態から滅多に自発的には離れない。
もうひとつの原因は、『自覚が無くても困らないから』だ。
道を行く人(差別者)は、花を踏んだことに気づかなくても怪我をするわけでなし、なにも困らない。<でも、踏まれた花(被差別者)にとっては一大事だ。>
だから、差別者(マジョリティ)の集団または親玉は、自分たちの得になるように必死に策を練る。
・なんで沖縄の基地問題は、全国メディアで滅多に取り上げられないんだろう?(だって日本はほとんどが大和民族だもんね)
・沖縄の中でも、基地をなくしたいと考える人と、居て欲しいと考える人がいる。これは国が基地の土地貸し出しに対して支払っている補助金の絡みで起こる対立だ。(このせいで、基地問題の県内世論が必要以上に割れている)
・基地移転は出来て、日本国内に基地が置けない理由ってなに?(移転できないんじゃなくて、移転しないだけなんじゃないの?)
例を沖縄基地問題であげてみたけど、ちょっと考えてみると議論のしがいがある(あるいは明らかにおかしい)問題がぼろぼろ出てくるのが差別問題だ。そして、差別問題を華麗にスルーできる特権を持っているのが、差別者だ。
こういう困難な状況にあっても、『これはおかしい』と気づく人、そして声を上げる勇気ひとたちが現れて、差別問題は議論されてきた。
昔と比べて、良くなってきたものもある。(女性問題は、明治時代から女性の権利の見直しを考えようと呼びかける先達の手で、長い時間をかけて、やっとここまできた。)
まだ根強く差別が残り、世代を超えて人権を脅かすようなものもある。(水俣病問題は、未だに遺族が差別を恐れてる。)
こんな問題の事例に4年間触れていて、その当時は、私も思っていたんだ。
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』って。
でも、いざこんな気持ちを持って、たくさんの差別問題の事例を知ったあとで、社会に出てみたら、こんな問題意識が苦しいだけだって分ってしまった。
一番キツかったのは、『大抵の男性は、女性を馬鹿にしていること、そのこと自体に全く気づいていない』という事実だった。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
今まで、女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
こんな長文をここまで読んでくださっているあなたは考えるかもしれない。「どうして、そんなひねくれた生き方をするんだ?女性に対して申し訳ない気持ちがあるなら、そんな風に思わなくて済むような道を探せばいいじゃないか」と。
確かに、正論だ。
ただ、今まで男性社会の中を駆け抜けてきた私の人間関係には、そのようにしなければ維持できない人脈が多くある。今更切ることが出来ない、お金になる人脈が。
一言で言えば、こういうことだ。
「こうしなければ、明日のご飯がない。明日の立場がない。明日の社会に居場所がない。そういう危機感に、ただ突き動かされて、ビジネスという男性社会に埋没しているのです」
・・・あ、万一今、「だったら結婚すればいい」とか考えた人がいたとしたら、冗談も大概にしてくださいね。そういうのが仕事を志向する女性のプライドを傷つけかねない繊細な問題だってこと、いい加減気づいて。
そして、そもそも「働けないなら結婚すればいい」という言説を女性に押しつけるのはやめてほしい。
私は今、こんな風に生きているから、正直、最近の私が差別者に立つあらゆる差別問題に対しては、「分る、分るよ-、その痛み。でもごめん、味方はしないよ。余裕ないから」っていうスタンスだった。思い切り逃げモード。そこそこ底辺の仕事で、それより底辺の人たちの頭を足蹴にして得た仕事で生きている日常です。
そこにきて、冒頭のアレですよ。
『抗いたい』という言葉を聞いたとき、まずはじめに思い浮かんだのは、「青いなあ」という、ある種その人を侮った感想だった。
でも、よくよく考えてみたら、それって違くないか?むしろ、この人が言っていることのほうが正しいだろう?本当は、自分が差別者のままで居続けるのって嫌でしょう?その嫌な気持ちがあるから、他の人に対して内心申し訳ないとか思ってるんでしょう?
そんな風に考えていたら、私は大学生時代に一生懸命学んでいた差別問題の事例が懐かしくなって、現在の自分のことを思うと、世の中の女性に対してものすごく申し訳ない気持ちになって、そして、『抗いたい』と言った友人の若々しい気概が眩しくて、それと比べたら自分はずいぶんみすぼらしくなったと気づいて、泣きたくなったからそれについて書いた。
オンラインの友人だから、性別は分らない。
日本の大抵の男性は、女性を馬鹿にしている。そして、そのこと自体に全く気づいていない。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。
それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
正直、こんな時間に書くことじゃないんだ。明日やることもあるんだし。
ただ、私にとって、考えを大きく揺さぶられる出来事があったから、少し話をさせて欲しい。
ちょっと長くなるかも。あと、女性向きだよ。男性は気分悪くなるかもよ?読むなとは言わないけれど、念のため注意。
http://anond.hatelabo.jp/20090925071837
↑の記事を、オンライン上の友達に、何気なく見せてみた。
ホント、何の反応も期待してなかった。流せる雰囲気だったから、多分何の反応もないだろうと当たり前のように思ってた。
でも、その人は言ったんだ。『抗いたい』って。
この言葉に、私は懐かしくなって、ものすごく申し訳ない気持ちになって、泣きたくなったから、それについて書く。
やってたことは、女性問題、黒人問題、水俣病問題、沖縄基地問題、色々だ。
ゼミ一番ショッキングだったのは、『私が差別者だ』ということを直視しなくちゃいけないことだった。
社会学を学んだことのある人は、どうか笑わないでほしい。私は、私が世界中のあらゆる差別問題の中に居て、その中のほとんどの状況で差別者なのだ、と、抵抗なく認識できるまでにまるまる1年かかってしまった。
「だって、私はなにもしてないのに、ただ生きてるだけなのに、どうして他人を差別しているなんて言うの?」という疑問を解消する、それだけでだ。課題図書や、毎度のレポート提出が嫌いだった。『分りたくない、信じたくない!』ってずっと思ってた。
社会学を学んだことの無い人は、差別問題をどうか他人事と思わないで欲しい。あなたは世界中の差別問題の中に居て、ほとんど常に差別者だ。
日本国民、大和民族、正社員、男性、健康体である、という、ただそれだけで差別者だ、というのは、すぐには受け入れがたいと思う。(先述の通り、私も理解するのにまる1年かかった)それでも、社会という構造の中にいる限りは、その中で差別者として無意識に振る舞ってしまうことが常にある。無意識に、他人を傷つけている。確実に。
そして、たいていの場合、特別に本を読んだり勉強をしなかったら、この『無意識の差別者』状態から、人は絶対離れない。
だって、この状態が最高に快適だもん。味方は多いし、強いし、くさい、汚い、怖いことはないし、安定している。
この状態から、どうしてわざわざ、よわっちい被差別者の味方をしたり、あまつさえこの特権を引き渡すなんてことをしなくちゃいけないんだ?ってなる。
だから、差別者はこの状態から滅多に自発的には離れない。
もうひとつの原因は、『自覚が無くても困らないから』だ。
道を行く人(差別者)は、花を踏んだことに気づかなくても怪我をするわけでなし、なにも困らない。<でも、踏まれた花(被差別者)にとっては一大事だ。>
だから、差別者(マジョリティ)の集団または親玉は、自分たちの得になるように必死に策を練る。
・なんで沖縄の基地問題は、全国メディアで滅多に取り上げられないんだろう?(だって日本はほとんどが大和民族だもんね)
・沖縄の中でも、基地をなくしたいと考える人と、居て欲しいと考える人がいる。これは国が基地の土地貸し出しに対して支払っている補助金の絡みで起こる対立だ。(このせいで、基地問題の県内世論が必要以上に割れている)
・基地移転は出来て、日本国内に基地が置けない理由ってなに?(移転できないんじゃなくて、移転しないだけなんじゃないの?)
例を沖縄基地問題であげてみたけど、ちょっと考えてみると議論のしがいがある(あるいは明らかにおかしい)問題がぼろぼろ出てくるのが差別問題だ。そして、差別問題を華麗にスルーできる特権を持っているのが、差別者だ。
こういう困難な状況にあっても、『これはおかしい』と気づく人、そして声を上げる勇気ひとたちが現れて、差別問題は議論されてきた。
昔と比べて、良くなってきたものもある。(女性問題は、明治時代から女性の権利の見直しを考えようと呼びかける先達の手で、長い時間をかけて、やっとここまできた。)
まだ根強く差別が残り、世代を超えて人権を脅かすようなものもある。(水俣病問題は、未だに遺族が差別を恐れてる。)
こんな問題の事例に4年間触れていて、その当時は、私も思っていたんだ。
『私は、なにも知らないままで人を傷つけるような人間になりたくない。もし差別者の立場を脱する方法があるなら、私はそうしたいし、もし無かったとしても、せめてその差別について理解して、なるべく他人を傷つけないように生きたい』って。
でも、いざこんな気持ちを持って、たくさんの差別問題の事例を知ったあとで、社会に出てみたら、こんな問題意識が苦しいだけだって分ってしまった。
一番キツかったのは、『大抵の男性は、女性を馬鹿にしていること、そのこと自体に全く気づいていない』という事実だった。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。
それが、社会に出たらガラっと変わった。
あなたは差別発言と思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたはセクハラだと思っていないんでしょう。でも私はとても苦痛なんです。
あなたは多分よかれと思って言ってくれてるんですね。でも私はとても苦痛なんです。
今まで、女の子同士なら、自然と気に掛けあって丁寧に接していた部分を、先輩が、上司が、特にお酒の席で、何にも考えずぐしゃっと踏みつぶしてその境界を越えてくる。それがたまらなく苦痛で、大学で一緒に学んでいた友達に言ってみたら言うんだ。「わかるよー。でもそんなものだよね」
ああ、こんな苦痛な状況が、社会一般では『そんなもの』で済まされる程度の問題なんだって分ったのは、正直そのときだった。
それで、今はどうやって生きているかというと、日常では、社会学で学んだ問題意識にほとんど蓋をして、生きていくのに便利なところだけ使って生きてます。とりあえず、世間一般様から見て、頭のおかしい奴だと思われない程度に猫被ってね。
男性メインのビジネスの場に立ち、名誉男性的な立ち位置で、ある意味男性に媚びるようにして生きている私にとって、社会学の知識は、被差別者を踏みつけるのに(効率的に差別者特権を使うのに)とても役立っています。あとは自己防衛のためにね。
こんな生き方が良くないというのは重々承知している。一番申し訳ないと思うのは、今の世を生きにくいと感じている日本女性たちに対してだ。自分の体を資本として、男の『勘違い』を上手く使う、一種の『戦略的本質主義』を振りかざして生きている私は、本質主義から脱して生きたがっている思っている女性にとって、目の上のたんこぶでしかない。(そして巡り巡って、自分のクビも締めてる。承知の上だ。)
だから、私は世の女性の味方を標榜している。もちろん、偽善だとも分った上でね。日々ご迷惑をおかけしています。女性の皆さん、特に日本女性の皆さん、本当にごめんなさい。
こんな長文をここまで読んでくださっているあなたは考えるかもしれない。「どうして、そんなひねくれた生き方をするんだ?女性に対して申し訳ない気持ちがあるなら、そんな風に思わなくて済むような道を探せばいいじゃないか」と。
確かに、正論だ。
ただ、今まで男性社会の中を駆け抜けてきた私の人間関係には、そのようにしなければ維持できない人脈が多くある。今更切ることが出来ない、お金になる人脈が。
一言で言えば、こういうことだ。
「こうしなければ、明日のご飯がない。明日の立場がない。明日の社会に居場所がない。そういう危機感に、ただ突き動かされて、ビジネスという男性社会に埋没しているのです」
・・・あ、万一今、「だったら結婚すればいい」とか考えた人がいたとしたら、冗談も大概にしてくださいね。そういうのが仕事を志向する女性のプライドを傷つけかねない繊細な問題だってこと、いい加減気づいて。
そして、そもそも「働けないなら結婚すればいい」という言説を女性に押しつけるのはやめてほしい。
私は今、こんな風に生きているから、正直、最近の私が差別者に立つあらゆる差別問題に対しては、「分る、分るよ-、その痛み。でもごめん、味方はしないよ。余裕ないから」っていうスタンスだった。思い切り逃げモード。そこそこ底辺の仕事で、それより底辺の人たちの頭を足蹴にして得た仕事で生きている日常です。
そこにきて、冒頭のアレですよ。
『抗いたい』という言葉を聞いたとき、まずはじめに思い浮かんだのは、「青いなあ」という、ある種その人を侮った感想だった。
でも、よくよく考えてみたら、それって違くないか?むしろ、この人が言っていることのほうが正しいだろう?本当は、自分が差別者のままで居続けるのって嫌でしょう?その嫌な気持ちがあるから、他の人に対して内心申し訳ないとか思ってるんでしょう?
そんな風に考えていたら、私は大学生時代に一生懸命学んでいた差別問題の事例が懐かしくなって、現在の自分のことを思うと、世の中の女性に対してものすごく申し訳ない気持ちになって、そして、『抗いたい』と言った友人の若々しい気概が眩しくて、それと比べたら自分はずいぶんみすぼらしくなったと気づいて、泣きたくなったからそれについて書いた。
オンラインの友人だから、性別は分らない。
僕の知っている人が摂食障害で悩んでいるらしい。そんな話を聞きました。
その人(A子さん)とは業務上で何度かお世話になった人で、最後に会ったのは数年前で、僕のことは覚えているかもしれないし忘れているかもしれない。そんな程度の面識なので「知っている人」としました。ここしばらくA子さんと関わる機会はなかったのですが、彼女自身に教えてもらったA子さんのblogは定期的にチェックしていたので、消息は確認出来ていました。ここしばらくA子さんのblogの更新頻度が落ちていたことは気にはなっていましたが、更新頻度の低さで言えば自分のはてダも似たり寄ったりなのであまり気にしてませんでした。
そして彼女自身がblogでカミングアウト。だいぶ前(僕と一緒に仕事をした時期と被っている)から悩んでいたこと。ここ最近ひどくなったこと。そして医師の診断と入院。
親密な知り合いというわけでもないのですが、それなりに知っている人がそんなに深刻に悩んでいるということ。特に、一緒に仕事をした時期にそんなそぶりを全く見せなかった事(或いは僕が鈍感でそんなそぶりに気づけなかったという事)に、ショックを受けました。
何か出来ることがあるだろうか。僕も僕の母親もメンタルヘルス的には残念な人なので(2回/月で通院中)、下手な励ましはかえって毒にしかならないという事は分かっています。しかし、何とかしたい、何か出来ることはないかと思い、取り敢えず「摂食障害」でググってみました。
調べた結果、自分の考えが浅はかでおこがましい事を思い知らされることになりました。もっとも、「何とか出来るんじゃないか」という考えに至った時点で、自分の自己満足・自己欺瞞・偽善者ぶりに気づくべきだったのですが、それは別の話で。
自分自身の経験から鑑みるに、精神疾患に対応する場合、他人が(たとえそれが信頼できる肉親や医師からの意見だったとしても)どんなことを言っても、本人がそれを受け入れなかったら意味が無い。いわんや、あかの他人である僕の意見なんて論外。ましてや女性の摂食障害の場合、男性には本質的に理解出来ない「誤ったダイエット観」が根底にあることもあるので、男である僕が何を言っても説得力ゼロ。
だったら何が出来るか。結論から言うと、多分何も出来ないのだろうなと思います。正確には「A子さんのために、赤の他人である僕ができることはおそらくない」と書くべきですが、要はそういうことです。
これもあくまで僕自身の経験からくる意見なのですが、「自分の心の中にあることをぶちまけて聞いてもらう」事は精神疾患の対応として有効な方法だと思います。つまりはカウンセリングなのですが、そこまで本格的ではなくても、誰かに自分の話を聞いてもらうというだけで、十分な救いになったような気がします。話を聞いてもらうといっても、もちろん聞き流すのは論外ですし、かといって否定も肯定もしないような聞き方も「この人俺の話聞いてるのかよ?」という事になるので逆効果。そういう意味ではさすがカウンセラーは人の話を聞くスキルに長けていると思うのですが、それ以外で適任といえば身内か恋人か親友くらいしかいないんですよね。
A子さんのblogを見てみると、彼女自身の中でマイナスのイメージが連鎖しているのがよく分かりました。だから彼女はその心の中をblogにぶちまけているのだろうと思います。世界にいる誰かに聞いて欲しいために。ここで僕が「聞いてますよー^^」的なコメントをすることは可能なのかもしれないけど、僕自身がそう思っている通り、無責任な励ましはマイナス要因にしかならないからどうやってコメントすればいいのかが分からない。
さて、ここからが本題。
もしあなたの友達や家族が精神疾患的な何かで悩んでいる場合、取り敢えず精神疾患に対する偏見は置いておいて、申し訳ないのですが、その人の話を聞いてあげてください。ただ話を聞いてあげるだけでいいんです。聞いている方も苦しい思いをすると思いますが、その人が自分にとって大事な人なら、ちょっとだけ頑張って話を聞いてあげてください。
一メンヘラの自分勝手な申し出であることは重々理解しているのですが、自分の体験上、精神疾患に対する理解が乏しい身内に苦しめられることもあるのです。
増田を読んでいるような人なら、知らないことをググること位はわかっていると思いますので、分からないことはググって調べてください。必要に応じて医師の診断を受ける事も考慮することになるかもしれませんが、まずは話を聞いてみてください。それだけで救われることもある、かもしれないので。
僕が産まれる前から姑(僕の祖母)にいびられて、精神的に追い詰められてしまった僕の母親と話をするために。
そういえば月曜は敬老の日でしたね。
優しくされると偽善と感じちゃうんだ?かわいそう。
学校の勉強なんて意味ねーじゃん!とか言ってる中学生レベルの発言だな。
ろくに知りもしない世界を肯定してしまうのも同様に狭い感覚では?
理由はどうあれ結果的にはそうなるわけだから、考え直せば?って言ってる人がいるんだろうね。
個人的には単純に人殺しをしてみたいからっていう方がまだ理解できる。応援はしないけど。
少なくとも今時よくいる偽善ぶった社会の役に立ちたい系でも無いし、あれもこれもダメだから自分探しにいきたい系でもないし、
極限の状況に行って(訓練とか警備が殆どだろうけど)残りの人生楽しみたいって言ってるのにどうしてそれを応援してやれないんだか。
生きがい(笑)を求めてだぞ。
元増田は自殺を否定するような書き方をしているが、外人部隊に入るって遠回しな自殺じゃないか。
結局、増田に書いたのだって、止めて欲しかったか、後押しが欲しかったんだろう。
それとも、お前らと違う俺ってかっこいいだろっていう状態で思考停止してるのかな。
世界はそんなに甘くないってwwwww
こうやって知りもしない世界を自分の狭い間隔だけで否定に走る増田民。。。
理由がダメって言ってる人達さー、人殺ししたいっていう人間の方がまともなの?
リアルな生きがい見つけたいって、おおいに結構じゃん。普通そこで死ぬかもしれない選択肢選ばないだろ。
それにここってネットで調べただけだけど昔は犯罪者もいたんでしょ。
少なくとも今時よくいる偽善ぶった社会の役に立ちたい系でも無いし、あれもこれもダメだから自分探しにいきたい系でもないし、
極限の状況に行って(訓練とか警備が殆どだろうけど)残りの人生楽しみたいって言ってるのにどうしてそれを応援してやれないんだか。
嫉妬丸出しでみっともないわ。
特に日本でダメな奴が海外で通用するわけないって言ってる人達は末期。
俺は怖いから行く気しないけどここのちっちゃい日本人像の縮図を読んでると増田の気持ちがわからんでもないわ。
あれだ、日頃「俺だって苦労してるんだからおまえも甘えるなよ」って後輩とか部下に厳しくいって無意味なストレスに絶える事を誇りに思ってるような連中だ。
偏見で汚い物事を嫌う潔癖症な偽善者がよくいるが、最近とくに増えてきているのではないかと思う
統計がないのでなんとも言えないが、もし増えているのだとすれば憂慮すべき事態である
典型例の1つとして、ガキにケータイを持たすなという論者がいる
可愛い子には旅をさせよという健全な教育理念を持った親は、今やマイノリティであり、
あろうことか父親までもが、ガキ嫌いもあってか、それに付和雷同しているから、もう手に負えない
俺の母も教育ママでキモいくらい干渉してきたが、父は寛大で器が大きく、信頼できる父親だった
また、俺の世代だと、核家族化がそれほどでも無かったので、祖母に甘えることだって出来た
祖母はお小遣いをくれたり、ガミガミ言う母をたしなめたりしてくれたものである
これに類する現代人的潔癖症というのは、この紙幅に書き足りないくらい、他にもたくさん例があり、枚挙に暇がない
文明が豊かになり、生活が便利になり、選択の自由が出来たことで、それが潔癖症の温床となり、
そのような患者・・・これは患者と言って良い・・・は、人生において数々の制約や衝突を被ることになり、
あとあとの人生の幅を大きく狭めることとなる
すべて自業自得である
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「潔癖性」を度を超して嫌う「潔癖性」に陥ってないかな
それは何かに対し否定的な人に対して否定的な態度をとる時に共通する構造だから、無理のある批判
過干渉は教育学でも問題視されているから「度を超している」わけではない
結局、この文章から何かを察知できないという事は、根源的に人間理解が異なるんだよ
そういう人が最近多いことは確かだ
ガキにケータイ持たせるなという人の多さに疑問を抱いたことが無いとすれば、根本的に感覚が異なるということだね
上のコメントにも見られるような形ばかりの批判をする人は、たいてい感覚が麻痺してて、安直にすぐに価値を相対化してしまう人が多い
なるほど、任意の価値Xに対して、その反対の価値Yを持ち出し、X-Yという対立軸を作れば、なんでもかんでも相対化してしまえる
それでもって、中庸が一番と主張すれば、いかなる価値Xの絶対性をも崩すことが出来る
例えば、Xが人を殺してはいけないというものであれば、流石に相対化されにくいけれども、
近年では選択の自由が広がったため、多くの価値が相対化されやすくなっていることは事実である
なんでも相対化される背景には、様々な価値観が共存するごった煮社会になり、何が正しいかの感覚が麻痺していることがある
すぐに相対化してしまえる人が何よりも厄介なのは、相手を理解せずに勝手に相対化する点だ
今回の例で言えば、「ガキにケータイ持たせるなという人の多さに対する疑問」を理解できない人が勝手にそういう考えに対し「放任主義」というレッテルを貼る
ここに大きな問題がある
実体験や知識に基づく詳細な理解が無いまま、対立軸を作って相対化し、形ばかりの批判をする
自分で何かおかしいということに気づかないといけない
一言で言うと、理解なき批判は悪ということ
実体験はさすがに難しくとも、せめて知識面だけでも、土台となる知識を身につけることで、将来の人生での知識の実りを大きくし、
それにより、きちんと理解ある批判が出来るようになる
そうではなくて、さまざまな物事に対し、しっかりした理解に基づいた態度をとれるようにすること、それにより、多くの物事との接触を可能にすること