2023-06-23

利き手矯正弊害

私は正しく箸やえんぴつを持つことが出来ない。親指の付け根を使って持ってしまうのだ。持ち方がおかしいからほかの人と同じところにペンだこが出来たこともないし、食事をしているところをマナーにうるさい人に見られれば難癖を食らいそうな食べ方をしている。

原因は幼い頃に母に受けた利き手矯正だと思う。

左利き寿命が短いらしい」

という言説を耳にしたそうだ。

ペンと箸だけ、右手で使うよう教えられていた覚えがある。けれど、その教え方が悪かったのか、教わり方が悪かったのか、今日に至るまでわたしが正しく箸やペンを持てたことはない。時すでに遅く、使い方がおかしいと気づいたのは思春期にさしかかった中学生とき食卓だったし、その頃にはこの持ち方が手に染み込んでいた。元々は左利きなのだから、十何年やってきたやり方をもう一度変えるほどの器用さは私にも私の右手にもなかったし、左手だって「だからって急に利き手を戻すなんてむりだぞ」と言っていた。畢竟、私に提示されたのは、両不利きの女として生きていく人生であった。

けれど、この利き手矯正を完全に行えなかったことは、私の人生に大いに関与しているように思えてしまうことがある。

よく言われる左右盲にはもちろんなったし、ナイフフォークの使い方、水の注ぎ方、工具の使い方、スポーツ利き手利き足もこんがらがってしまう。特に、完全な左利きであれば、右利きの人に合わせる時は反転すればいいものを、中途半端矯正されたものから考えることが余計に多くなってしまう。

そしてなにより、右も左も中途半端で、それに気づいた時期も中途半端だったことは、「不器用」というレッテルを貼られる要因になったのでは無いかと思うのだ。

ペンや箸を上手く使えないということは、それらをベースにした作業も上手くできないし、そのイメージ自分他人に刷り込まれれば、やはり性格だって変わっていってしまものだ。

もしもあの時、矯正なんてせずに、あるいはしっかりと正しい矯正をされていれば、私の人生はかなり変わっていたのではないかと思う時がある。ていうか、「左利き寿命が短い」のだって、こうやって無理やり合わせなくちゃいけないストレスからだろうし。良く取り上げられる電車定期券自販機を使う時だって、私は左手を使っているのだし、むしろ矯正ストレスが増している気さえする。

初めて授かった第一子を育てる上で、母も父も精一杯の教育をしてくれたと思うし、尊敬しているけれど、やっぱりあのとき無理に矯正なんてされてなかったら……と考えてしまう。生まれ持った特性を変えるってのはそれだけ大きなことだし、やるからにはちゃんとやるべきだよな〜…と思う。

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