母の形見や仲直りの印までは「いや、言えよ! 言わなきゃわかんないよ!」って笑ってられたんだけど、ヤンマくんは親なしスラム育ちなので「親の形見にそれやっちゃまずい」というのがわからないし、ンコソパ全体としてスラムから成り上がるのに必死だったので「大事なものをブーブークッションにしちゃまずい」って感覚もないかもしれない(シオカラくんだけそのへんちょっと察してそうなのは彼だけちょっと年上で神の怒りの前に文化に触れるゆとりがあったのかも知れない)などの考察に触れた後は頭抱えてる。
そんなに全部、それぞれの事情を考慮するのは無理なんじゃないだろうか。
マイノリティとかダイバーシティとかインクルージョンとかグローバルとか、大事だっていうのはいいけど、無理がない? ビッグデータ解析だのAI分析だのだったらそういう細かい事情も計算できるかも知んないけど、人間の脳には無理だよ。自分と相対しているこの人も、自分とおんなじような環境で育ってきて同じような常識を持ち合わせているに違いないってある程度前提条件を絞らないと、考えきれないよ。
「男、女、子供、そのほか」が限界じゃない? ほんの10年前は「男、女」だったのが倍になって、この辺が人間の個人の脳の処理能力の限界じゃない?
このマイノリティだかダイバーシティだかのごたごたの果てが「みんなそれぞれ事情があるから、察しましょう」じゃなくて、「みんなそれぞれ事情があるけど、それぞれすぎてわかんないから、困ってる人は『人間とバグナラクのハーフで2000年ほど生きているものですが、バグナラクであった母の形見を他人を嘲笑うための道具にされ、その上その作戦の失敗を無関係なバグナラクのせいにされ、非常に不快です』ってちゃんと言おうね。言われた人も、『おう、そうだったのか。悪かったな』ってちゃんと聞いて考えてあげようね」って方向になったらいいなあ。
このニチアサはこの「いや、言えよ!」をどこに持っていくつもりなんだろうなあ。
形見かどうか関係なく借り物で遊ぶなって話にならないのは真面目に良くないと思う。