ケアが必要な障がいを持って産まれるこどもは、一定の確率でいらっしゃいます。
もちろんケアが必要ですので、社会的リソースが普通よりも多くかかります。
当たり前ですが、まず障がいは善でも悪でもありません。単なる事実です。そこに社会的リソースが必要という事実があり、それをどうしようね、という話になります。
当たり前ですが、生まれたこどもには何らかの責はありません。故にその社会的リソース構築の全責任を負う義理はありません。ほかの方と同じだけの責任のみです。
当たり前ですが、産んだ親にも何らかの責はありません。故にその社会的リソース構築の全責任を負う義理はありません。ほかの方と同じだけの責任のみです。
当たり前ですが、ほかの方にも何らかの責はありません。故にその社会的リソース構築の全責任を負う義理はありません。
誰もが一定確率で起こる事象に対して必要な社会的リソースを生み出すのに、同じだけの責任を持つのみです。
では社会的リソースはなにでできているでしょうか?一般的には「ヒト・モノ・カネ」と思ってよいでしょう。
ケアラーや研究者、もしくはケアグッズや設備、そしてそれらをキープするために必要なカネ。こういったものが必要です。
当然これは「ワリカン」していくものになります(多くの人はカネがメインとなるでしょう)。現状の個々の状況により負担のレベルは異なるにせよ、みんなでそれを出し合います。
さて。今現状は(個々の状況に応じた)ワリカンをしていくことで問題ないかと思います。
しかし、将来はどうでしょうか?今いる人たちは、永遠の命と若さを持っているわけではありません。いつかはカネを作ることもできなくなります。作業や仕事をすることもできなくなります。
ではどうなるのでしょうか?社会的リソースをストップする?・・・いいえ。人は新しく産まれてきます。新しく産まれてくる子たちにも誰もが一定確率で起こる事象に対して必要な社会的リソースを生み出すのに、(もちろん大きくなってからですが)同じだけの責任を持ちます。
「ワリカン」は「新しく産まれるこどもたち」とも協力していくことになります。これで安心できるでしょう。
・・・ところでこのこどもは自然に発生するのでしょうか?残念ながら現代はまだそうではありません。
そのこどもは将来社会的リソースを生み出す人の一人になります。
つまりこどもを産み手間暇をかけて育てることは、将来的な社会的リソースに貢献していることになります。そのこどもの少し下の世代から少し上の世代までのケアが必要な方を助けることになります。
将来的な社会的リソースへの貢献に関しても、前述と同じように、個々の状況により貢献のレベルも異なります。
「できないことを期待する」ということは基本的に間違っています。
自由には責任が伴う、という言葉があります。自由とはなんでしょう?責任とはなんでしょう?
先々まで継続的に社会的リソースを作り出していくことについて、個々人の自由と責任とはなんなのでしょうか?
できないことを期待することはできません。できる範囲の中で個々人に自由があります。その自由に対する責任とは?
人間は社会的動物です。助け合って生きているわけです。その助け合い方は色々な形がありますしかし継続的に社会的リソースを生み出していくために必要なことは?
考えた末に意思を固めるのは素晴らしいですし考えずに意思を固めるのも自由ですしかし自由には責任が伴う。
責任とは何でしょうか。人から与えられるものなのでしょうか。答えは、個々の心の中にしかないでしょう。個々の方々に対して言えることは、私にはありません。あなた方の心の中に必ず、答えがあります。
人は自由です。己の心に嘘さえつかなければ。