親が居て、兄弟が居て、友人が居て、恋人がいる。壁越しに隣人の音が聞こえて、定期的に仕事のミーティングがあり、メッセージに返信しないと心配される。
逃げられないような気がしていた。どれだけ一人になりたいと思っても、わたしは孤独にはなれない。コンビニで店員から袋を受け取るときや、自分の Twitter のプロフィールがまだ存在することを確認するとき、「わたしという何かしら」への視線がまだそこにあることを感じ、一人になれていないなと肩身狭く感じてうすら笑いを浮かべる。それが唯一の生きる術のように感じて。
その日の夜、わたしは洗濯機が布団カバーを乾かし切るのを待っていた。2万円で購入した乾燥機能付き縦型洗濯機は乾燥こそできるものの異様に時間がかかり、わたしはその日深夜2時まで待たされることが確定していた。分かっていてどうして夕方に洗濯を始めてしまったのかは自分でも謎で普通に後悔していたけど、始めてしまった以上待つほかないのでひたすらに待っていた。洗濯機のあるリビングは音がうるさく湿気もすごいので自室にこもり、何をするでもなく。
いつの間にか絨毯の上で寝ていたようで、背中にじっとりした汗を感じて目が覚めた。クーラーを強めてから、頭の上にあったスマホに手を伸ばして時刻を確認すると1時を回った頃。確かにまだ洗濯機の音も続いている。起き上がって、無為に時間を過ごしても仕方ない、なにかすることはないかとぼんやり考えた。そういえば大家さんに連絡するのを忘れていた。窓の木枠に虫が湧いているのを言っておかなければならなかった。明日起きたらやろう。明日はほかに何かすることはあったか。友人が家に来るんだった。その友人にさっきメッセージを送ったけど返信は来たかな… そういうとりとめのないことを、暗闇の中で一人考えているうちに、ふと、孤独はここにあった、と思った。
孤独を求めるわたしは、つまり自由を求めていた。他者の視線から逃れ、自身の「こうありたい」の理想像から逃れ、着の身着のまま、身体の赴くままに生きたいという欲求だった。洗濯機に寝る時刻を縛られ、いつもは起きていないイレギュラーな時間の暗闇に体を預けたわたしは、つかの間、「こうありたい」の像が無かった。そのときわたしが起きているとは他の誰にも想定できる事態ではなかった。わたし自身でさえ予期せぬものだった。だからわたしはつかの間孤独になれた。予期せぬ自由に、一人で着の身着のまま放り出されるという不条理感によって。